梅きらぬバカ 和島香太郎さんのこと
梅切らぬバカ 2021年 脚本、監督、和島香太郎
監督の和島さんは、「自分はてんかんである」とカミングアウトして仕事をしている。
そのことを知ったのは、「病と障害と、傍らにあった本」2020年
(里山社)という本に、「てんかんと、ありきたりな日常」を書かれていたからである。
この本には、ほかにも、各界で活躍されている人たちが、自分の病気や障害についての文章を載せている。
和島さんは、てんかんをカミングアウトしたほうが、自分にとって、仕事しやすい環境が作れるからと言っている。
てんかんは寝不足が大敵である。
仕事が忙しくなると、寝不足になりやすく、結果的に発作が起きやすくなる。だから、はじめにカミングアウトしておいた方が働きやすい。
次に、和島さんの作った映画のことを、長女が通う神経内科のクリニックに置かれていた、てんかん協会の機関誌、「ともしび」で知った。
自閉症の49歳の息子と、高齢の母との老障介護の日々を描いた映画「梅切らぬバカ」である。
かわいいタイプの自閉症のちゅうさん。49歳。
うちの長女と同じ歳。
いつも指を体の前で、くるくる、ひらひら動かしている。
こだわりが強い。
朝起きる時間が決まっているから、目覚まし時計が鳴るまではじっと布団の中で「待機」している。
うちの長女とおんなじだ。
起きる時間が来ると、がばっと起き上がる。
ごはんの時間は決まっていて、時間が来るまで待っていて、時間になるとイタダキマスをする。
髪の毛は、お母さんが切っている。
100円ショップで売っている、丸くて、平べったい、UFOのような、髪の毛をうけるビニールのわっかを首にかける。
うちは、セリアで購入した。
美容室へ行かない長女は、ちゅうさんみたいに、うちで、母親がカットしている。
ちゅうさんの母親は占い師で、家で仕事をしている。
お父さんは「死んだことになっている」らしい。
時間にこだわりのある自閉症の人のシングルマザーは、正規職員になりにくいから貧乏である。
隣の家に夫婦と小学生の息子の3人家族が引越してきた。
ちゅうさんの家の梅の木の枝が、道路にはみ出していて、引越し屋さんの頭がぶつかったりする。
必然的に、ちゅうさんの家の前を通るときは、頭を下げることになる。
ちゅうさんは、毎日作業所へ通って、お菓子を入れる紙の箱を作っている。
ある日、所長から、グループホームに空きが出たから、入所しないかと言う話があった。
「どうして、空きが出たんですか?」と母親が聞くと、まあいろいろトラブルがあったらしくて、移ったらしいようす。
今、グループホームはどこも満員で空きがないのが現状だ。
ちゅうさんは一応入所するのだが、こだわりが強いから大変だ。
トイレに行く時間も決まっているから、他の人が入っていても、ドアをどんどんして、入ろうとしてしまう。
自閉症の人は「待つ」のが苦手だ。
私がこの間見学した新しいグループホームは、各室にトイレと浴室と洗濯機が付いていた。
入居者同士のトラブルを解消するためだそうだ。
そうなのだ。お風呂とトイレの利用法は、こだわりの強い人にとって重要な問題なのだ。
そこのグループホームは2階建てだけど、エレベーターも設置されていた。
障害者の高齢化に対応するためである。
ちゅうさんの入居したグループホームは世話人が一人しかいない。
ある晩、ちゅうさんは、パジャマのまま、ホームを抜け出してしまう。
すると、塾帰りの隣の小学生に出会う。
二人は友達になり、少年の誘いで、面白いことをしに行ってしまう。
行った先は、乗馬クラブ。
夜の馬小屋に入って、馬を連れ出し、一緒に歩きだした。
「楽しいね。」と言いながら。
ちゅうさんは毎日、作業所に行くときに、馬を見ていたのだ。
でも、オーナーの女性は、馬が怖がるからと、ちゅうさんを拒否していた。
もしかして、オーナーが、自閉症の人が、馬に関心を持っているなら、馬と触れ合う機会を持たせてあげようと思うような人だったら、その後、事件には発展しなかったと思う。
でも、残念なことに、オーナーは自閉症の人に、こころをひらいてくれなかったから、大きな騒ぎになってしまう。
逃げ出した馬にびっくりした、町会長が転んでけがをしてしまったのだ。
障害者のグループホームに反対する人たちが運動を起こす。
「私たちは、普通の生活をしたいだけなんです。」
それが、グループホームに反対する理由だった。
普通の生活ってなんだろう。
障害者が周りにいないで、健常者の人だけの町で暮らすことなのか?
それでは、1950年以前、バンク・ミケルセンがノーマライゼーションの理念を提唱する前の、世界ではないか。
そう。
世の中は、あんまり発展していない。
心のバリアフリーは。
確かに、普通の暮らし(障害者を排除した)は楽でいい。
でも、人間って、いつかは、障害者になる。
事故などによって、中途障害が起きることもある。
高齢によって、心身は不自由になってくる。
病気によって、心身がしんどくなることがある。
難病になることもあれば、歩けなくなることもある。
介護認定調査員の仕事をしているときに出会った人たち、
「まさか、自分が福祉のお世話になるとは思っていませんでした。」
と言う方が何と多かったこと。
高齢社会には、「まさか」は、やってくる。
自分の問題なのだ。
自分や身内はそうならないという、根拠のない、楽天的な自信に満ち溢れた人たちは、悪意と思わないで、発言し、世の中を取り仕切る。
自分の行っていること、言っていることが、他人を傷つけているというきづきを持てないまま、大人になってしまう人々。
感受性の欠如といえよう。
そして障害者とその家族を上から目線でみる。
そして、ちゅうさんはどうなったか。
母の待つ家に帰ってきたのだ。
「かえってきてくれてありがとう。」は母の言葉。
ちゅうさんのお帰りパーティーには、隣の親子3人も参加した。
ほろ酔いの、隣のお父さんは言う。
「ここにグループホームを建てれば、だれも、文句言わないよな。」
次の朝になったら、隣のお父さんはそんなこと言ったのを忘れてしまっているかもしれないけれど、そう思ってくれる人が隣にいるっていいことだ。
私もいつも思っている。
自宅をグループホームにしてみたらどうだろう。
それだけで足りなくて、姉の家もグループホームにしようよなんて言っている。
言ってるだけだけど。
だけど、私は、グループホームっていう言い方があんまり好きじゃない。
「寄合」とか「下宿」とか、福祉っぽく無い言い方で、自由に暮らせる住まいがあったらいい。