「普通」という「異常」
「普通」といわれている「健常」、あるいは「正常」。
一般的に正常と思われている「普通」だが、よく考えてみると、もしかしたら「異常」なのではないだろうか。
長いこと生きてきて、障害のある長女と50年間過ごしてきて、思うこと。
「普通」というのはかなり「異常」な状態なのではないだろうか。
普通でいないと、社会から浮いてしまう。
普通でいないと、社会からはじかれてしまう。
普通でいないと、友達ができない。
普通でいないと、ご近所から後ろ指さされる。
「普通でいないといけない。」
「普通の暮らしをしていないといけない。」
「普通の人でいないといけない。」
「普通でいる」ということは、なんと不自由なものなのだろうか。
息苦しくなってしまう。
「ぼっち」と噂されているのではないかと思って、殺人を犯してしまうような事件が起きた。
一人でいるのが大好きな私には、衝撃であるが、それほど、友達がいないことって、社会的に外れていることなのだろうか。
「普通の人々」という映画が、ロバート・レッドフォードによってつくられたのが、1980年。
あれからもう、43年もたっているというのに。
いや、むしろ、あの当時よりも、もっともっと「普通」志向は加速しているような気がする。
そして、「普通」は神話のようになって、人々にとりついている。
私はもう、とっくに普通路線を降りてしまっている。
それはとりもなおさず、生まれた長女が複数の障害を持ち合わせていたため、やむなく、普通の生活ができなくなったからだ。
それでも初めのうち、私は「普通」の人のスタートラインに立てるわけはないのに、少しでも「普通」の人のスタートラインに近い場所に立とうとして、努力に努力を重ねていた。
そんな自分のけなげな努力に、少しは酔っていたかもしれない。
そして、障害者の母としての「苦労」は見せず、「普通」の人と同じ暮らしを目指している自分をえらいと思っていた。
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