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■ビル・ウィザース物語(パート2)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで

前回パート1まで。ウェスト・ヴァージニア州の炭鉱の街スラブ・フォークに生まれたビル・ウィザースは、黒人で喘息持ちで吃音(どもり)の問題があるという三重苦の少年だった。しかし、その極貧の街から出るために海軍に入隊。そこで培った人生を生きる術をもとに、西海岸に出る。ジャンボ機のトイレを取り付ける仕事をしながら、日々の生活を送っているときに、ひょんなことから見たルー・ロウルズのライヴ会場でルーのギャラがはんぱなく大きいことを知り、音楽業界入りを目指す。起業家クラレンス・エイヴォントと出会い彼のサセックスと契約。見事にヒットを出し、グラミー賞を獲得。ニューヨークの名門カーネギー・ホールでのコンサートも成功させた。すべては順風満帆のキャリアに見えたが…

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(本作・本文は約20000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、40分から20分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと67分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

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シンガー・ソングライター、ビル・ウィザースが2020年3月30日に81歳で死去しました。その訃報などを当初はツイッターなどで連投し、さらに4月5日付けブログから8回にわたっていろいろと投稿しました。それらのビル・ウィザース関連原稿を大幅に加筆修正しまとめて、このノートに『ビル・ウィザース物語~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』として2回に分けて掲載します。これはその2回目です。

1回目(パート1)は、こちらです→https://note.com/ebs/n/nfada9bf816d2

ビルの訃報は日本時間の2020年4月3日(金)夜に流れました。僕のツイッターでは3日の23時43分に一報を流し以後いくつも情報を出し、4日以降、日本でも、また世界でも一斉に追悼モードとなりました。「ソウル・サーチン・ブログ」5日付けのブログで少しまとめ、以後、ビル関連の記事を結局トータル8本紹介したのでひとつにまとめました。特に評伝はかなり加筆しました。ゆっくりお楽しみください。

また、本物語と同時に2020年6月、東京FM系のJFN系24局ネットで放送される『アイ・ガット・リズム I Got Rhythm』(基本25分or30分x5回)で吉岡正晴が『ビル・ウィザース物語』を担当することになりました。6月2日FM新潟を皮切りに全国24局のFM局で放送されます。放送日・日時など一覧にまとめました。

番組ホームページ『I Got Rhythm 音楽が生まれる時』(#62~#66)
https://park.gsj.mobi/program/show/43952
(5日前後に更新の予定です)

ラジオ番組は、いずれもラジコ(ラジオのインターネット配信サーヴィス。パソコン、スマートホンなどで聴取ができる)のタイムフリー、エリアフリー(有料)で全国どこからでも聴取可能です。

ラジコ
http://radiko.jp/
(エリアフリーなどの契約もこちらでできます。月額350円+税で全国の地上波FM局が聴取可能になります)

またこのほか、ウィズレイディオというアプリを使うと全国の主なFM局の番組を無料で聴けます。これでも聴取可です。ウィズレイディオについてはこちらからどうぞ。

https://www.wizradio.jp/

初回放送は、2020年6月2日(火)午前11時半からのFM新潟でした。その後6月5日から7日の週末に初回がオンエアされます。

皆様お住まいの各地のFM局をお探しの上、お聞きいただければ幸いです。また、お住まいの地域に放送される局がなくてもいずれのラジコ・エリアフリー、タイムフリー(お住まいの地区以外のFMを聴くにはラジコの会員になる必要があります)のサーヴィスで聴取可能です。

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放送日、各放送局は次の通りです。いずれも2020年。例えば6/7は6月7日。放送日の早い順に並べました。番組名は『I Got Rhythm』。25分番組として放送する局と30分番組として放送する局があります。できれば、30分番組をお聞きいただけると幸いです。30分局に★をつけました。

【2020年6月2日火曜・初回放送(基本は以降同曜日同時間に放送】

FM新潟 11:30~11:55(火)6/2~再放送6/6(土)21:30~55
https://www.fmniigata.com/
(以降毎週火曜午前11時30分~、再放送毎週土曜21時30分~)

【2020年6月5日金曜・初回放送】

福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmf.co.jp/pc2/
FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmgunma.com/fmg863/
FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)※6/5~
https://fmk.fm/

【2020年6月6日土曜・初回放送】

★FM長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 5:00~5:30(土)
http://www.fmnagano.co.jp/
★FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 7:30~8:00(土)
http://www.fmoita.co.jp/
FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmy.co.jp/
FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmsaga.co.jp/
★FM福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 12:25~12:55(土)
https://www.fmfukui.jp/docs/
FM高知 (Hisix) 6/6 12:30~12:55(土)※第1週のみ
   6/25 20:30~20:55(木)最終週のみ?
http://www.fmkochi.com/
FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://hfm.jp/
仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://771.fm/smp/
★FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:00~20:30(土)
https://www.fmnagasaki.co.jp/
★FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:25~20:55(土)
https://www.fmkagawa.co.jp/
★FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 27:30~28:00(土)
http://www.joyfm.co.jp/

【2020年6月7日日曜・初回放送】

★FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 6:00~6:30(日)
https://fm807.jp/
★FM岩手 6/7、6/21、7/5 8:00~8:30(日)※第1、3、5週 のみ放送
http://www.fmii.co.jp/
★FM石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 8:00~8:30(日)
https://hellofive.jp/
★FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 9:00~9:30(日)
http://www.rfm.co.jp/
FM鹿児島 6/7、6/21 9:30~9:55(日)※第1、3週のみ放送
https://www.myufm.jp/
三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 18:30~18:55(日)
http://fmmie.jp/
★栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 19:00~19:30(日)
http://www.berry.co.jp/
★FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 24:00~24:30(日)
http://www.fm-sanin.co.jp/
★FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 27:30~28:00(日)
http://www.fmosaka.net/

全24局ネット。各局のエリアフリー、タイムフリーで何度でも聴取可能です。

ちなみに、一番最初に放送されたFM新潟(6月2日11時半~)のものは、エリアフリー、タイムフリーですでに聴取可能です。契約者の方は、こちらで聴取可。
http://radiko.jp/#!/ts/FMNIIGATA/20200602113000

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冒頭にニュース、リンク、そして、本編『ビル・ウィザース物語~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』(パート2)


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(前回パート1まで。ウェスト・ヴァージニア州の炭鉱の街スラブ・フォークに生まれたビル・ウィザースは、黒人で喘息持ちで吃音(どもり)の問題があるという三重苦の少年だった。しかし、その極貧の街から出るために海軍に入隊。そこで培った人生を生きる術をもとに、西海岸に出る。ジャンボ機のトイレを取り付ける仕事をしながら、日々の生活を送っているときに、ひょんなことから見たルー・ロウルズのライヴ会場でルーのギャラがはんぱなく大きいことを知り、音楽業界入りを目指す。起業家クラレンス・エイヴォントと出会い彼のサセックスと契約。見事にヒットを出し、ニューヨークの名門カーネギー・ホールでのコンサートも成功させた。すべては順風満帆のキャリアに見えたが…)

■ビル・ウィザース物語(パート2)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで

12.サセックスが倒産~CBSへ移籍

倒産。

ビル・ウィザースのキャリアは順風満帆だった。シングルもヒット、アルバムもベストセラーに。ライヴも好調。だが、好事魔多し。なんと所属レーベル、サセックスが1974年からそれまでのブッダ・レコーズの配給から独立し、自身で配給するようになってから資金繰りがうまくいかなくなってしまった。そして、1975年7月には倒産してしまう。

同社の最大のベスト・セラー・アーティストだったビル・ウィザースはサセックスに3枚のスタジオ・アルバム、1枚のライヴ・アルバム計4枚のアルバム(このほかにベストが1枚)を残し、同年、CBSコロンビアに移籍。

1975年10月、移籍第一弾『メイキング・ミュージック』をリリース。ソウル・アルバム・チャートで7位、ポップ・アルバム・チャートで81位とそこそこの成績を収めた。続く1976年の『ネイキッド&ウォーム』は不発だったが、1977年発売の『メナジェリー』は、それまでの最大のヒット・アルバムだった2作目『スティル・ビル』以来初めて50万枚を超えるゴールド・ディスクに輝く。コロンビア時代では最大のヒット作だ。ここからは、「ラヴリー・デイ」が大ヒットし、これがアルバムのベスト・セラーに結びついた。

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 メイキングミュージック


DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 ネイキッド

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 マネジェリー

そして、1978年『‘バウト・ラヴ』を出したあたりで担当のA&Rディレクターの人事異動があったようだ。移籍から約3年半でゴールド・ディスク1枚を含む4枚のリリース成績はまずまずだったとは言えるだろう。

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 バウトラヴ

移籍後4年ほどは順調だった。

しかし、この担当替えがビル・ウィザースにとって大きな転機になるとは誰しも思わなかった。

13.変わったA&Rディレクター

悪夢。

この時期コロンビア・レコーズのソウル部門はマンハッタンズやジョニー・テイラー、さらにはアース・ウィンド&ファイアーの大成功でかなり勢いに乗っていた。また、音楽的には、ディスコが大ブームでダンス曲が主流になっていた。しかし、ウィザースはそうしたものにはまったく見向きもせずマイペースで自身の作品を歌っていた。いちおうグルーヴのあるアップテンポの曲はそれでも録音はしている。

担当替えは、アーティストにとっても、その担当者にとってもリスキーだ。A&Rマンが変わり、成功することもあれば、逆にヒットが出なくなることもある。基本的には成功しているときには、「物事を動かすな」がセオリーだが、『メナジェリー』の次の『‘バウト・ラヴ』の成績が芳しくなかったので、担当替えになったのだろう。

そのコロンビアで新しく担当となったA&Rディレクターはミッキー・アイクナー(白人)という人物だった。

DVD スクショ ビル・ウィザース ミッキーアイクナー

(ミッキー・アイクナー)

ミッキーの正確な生年はわからないのだが、おそらくビル(1938年生まれ)と同じ年か少し上かもしれない。おそらく1930年代中期くらいの生まれだろうか。1960年代初期には、すでにインディのジュビリー・レコードでヒット曲に携わってきた。フォー・エイセス、ボビー・フリーマンなどの作品をてがけてきた。1970年ごろにはセプター・レコードでシングル盤などにプロデューサーとして名前が残されている。その後1970年代初期になってコロンビアに移籍し、以後、十数年コロンビアで制作、宣伝ディレクターとして活躍した。1970年代には、マンハッタンズなどを担当していた。1990年代に入り、現在では、「ジ・アイクナー・エンタテインメント・カンパニー」という会社を運営している。元々ラジオDJになることが夢だったそうで、ラジオ局のDJともコネがあり、いかにシングル・ヒットを生み出すかに長けた人物のようだ。

そんなアイクナーは、ウィザースの担当になり初ミーティングの席で「私はあなたの音楽に興味はないし、いいとも思わない」と言い放ったというのだ。そのときウィザースは「彼のことを殴らなかった自分を誇りに思う」と振り返る。

自分の担当アーティストにそんなことを言うディレクターもディレクターだが、おそらく、昔ながらの古参ディレクターだったのだろう。以来、彼らはことあるごとにぶつかり合う。彼にとって、悪夢の始まりだった。

コロンビア時代のアルバムは、当時のLAのトップ・セッション・ミュージシャンを起用することが多く、ウィザースの昔からの仲間であるメンバーがあまり重用されていない。盟友ジェームス・ギャドソン(ドラムス)は、調べてみると5枚のアルバムに一曲も入っていないのだ。

そのあたりもウィザースは若干不満を持っていた。

14. 敵対(アンタゴニスティック)。

A&R。

A&Rとは、アーティスト&レパートリー(レパトワー)の略。直訳すると「アーティストと楽曲」。アーティストにどんな曲を歌ってもらうかを考え、その辺の事務・スタジオ作業を一切取り仕切る。レコード会社でA&Rといえば、そのの中枢であり、作品を作る司令塔でもある。

しかし、このA&Rをビルは、「antagonistic and redundant」(敵対と冗長、不必要、余剰)だと言ってはばからない。

■ビル・ウィザースが2015年、ロック殿堂入りを果たした時の受賞スピーチ(約13分)

Bill Withers Acceptance Speech at the 2015 Rock & Roll Hall of Fame Induction Ceremony
https://www.youtube.com/watch?v=Ir3JDyQ7yZE&fbclid=IwAR3p4H8hlg9XBNdKb9hs9HyTUEQryoXlgPnUCjWBfi7K7pA73AqwrkNFmMA
(キャプションをオンにすると、ある程度の英語字幕がでます。固有名詞は間違いが多いですが)

13分にもおよぶスピーチはなかなか楽しく素晴らしいので全文の起こしがほしいほどだが、この1分02秒くらいのところで、「アンタゴニスティック&リダンダント」という表現がでてくる。

この授賞式ではこの前にジョーン・ジェットがA&R問題についてちょっと語ったようで、それを受けて、A&Rについて少し語る。そして、この授賞式自体を最大のA&R(敵対と冗長な)ミーティングだと言い、観客から笑いを取る。

15.「イン・ザ・ゲットー」問題。

ゲットー。

このアイクナーとはとにかく衝突した。ウィザースがしばしば語るのが、アイクナーがウィザースにエルヴィス・プレスリーの1969年の大ヒット「イン・ザ・ゲットー」をカヴァーさせようとしたことだ。

エルヴィスの「イン・ザ・ゲットー」はとてもいい歌詞で、またメロディーも抒情的で、一見(一聴)ウィザースに向いているかとも思わせられる。しかし、ウィザースはきっぱりと言う。

DVD スクショ ビル・ウィザース エルヴィス イン・ザ・ゲットー ジャケ写

「そんなゲットーに住んだこともないし、ほとんど行ったこともない。だいたいエルヴィスについても何も知らないんでね。なんで、そんな曲をカヴァーしなきゃならないんだ」とけんもほろろだ。自分自身がその歌詞に共感できなければ、彼は絶対にその歌を歌わない。ビル・ウィザースは、サセックス以降、誰かのヒットをほとんどカヴァーしていない。

A&Rマンとして、そのアーティストに歌わせたい曲と、そのアーティストが歌いたい曲の心意気を知るのは重要な仕事だ。あるときは、その狭間を埋めるのもA&Rマンの大きな仕事のひとつだ。

■「イン・ザ・ゲットー」について

キャンディ・ステイトンが歌った「イン・ザ・ゲットー」
2012年07月03日(火)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11292423452.html


「イン・ザ・ゲットー」はこんな歌だ。

イン・ザ・ゲットー
(マック・デイヴィス作)

粉雪落ち行く 寒く暗いシカゴの朝
ひとりのかわいそうなベイビーが生まれた
ゲットーの片隅に

母親は泣いている

ろくに食事も与えられないベイビーなど欲しくないからだ

ゲットーで生きていくには

どうして子供に愛ある手助けが必要だと
みなわからないのだろう
手助けがなければ、その子はいつか怒れる心荒む若者になってしまう

顔をそむけ、目をそらし、
あなたと私、見て見ぬ振りをするの?

世界は遷ろう
鼻水たらし、飢えた小さな子が、北風すさむストリートで遊んでいる
ゲットーのストリートで

空腹も限界に達し、街をうろつき始め
盗みを知り、喧嘩を覚える
ゲットーの片隅で

自暴自棄になったある夜
若き男はキレた
銃を買い、車を盗み
逃げようとしたが、逃げ切れなかった
そして、母親は泣く

怒れる心荒んだ若者の周りに人垣ができた
地に横たわった彼の手には銃が
ゲットーのストリートの一風景

こうして母親の息子は、シカゴの冷たく暗い朝、死んでいった
だが一方で、ゲットーでは、また小さなベイビーが生まれてくる

そして、涙にくれる母親がまたひとり

(訳詞・大意・ザ・ソウル・サーチャー)

ウィザースは不満をぶちまける。

「彼らは僕に、(バックに)かわいい女の子のコーラスをいれて、ブラス・セクションもいれろ」と言ったり、「イントロは何秒だ? 曲にイントロをつけろ」と言ったりしてきたという。「冗談じゃない。そんなのは僕の音楽じゃない。イントロなんて、僕の曲には別に必要ない。『エイント・ノー・サンシャイン』なんて、歌いだして始めるんだから」

1970年代後期は、映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』(1977年)の世界的大ヒットによって、音楽業界が「ディスコ一色」になっていた時期でもある。レコード会社はアップテンポでダンサブルな曲をアーティストに録音させようと躍起になった。バック・コーラスをいれ、ブラス・セクションをいれる派手なディスコ曲、そうしたものをレコード会社は求めた。しかし、ウィザースの作る曲は、歌詞が重要であり、ダンス・ミュージック、ディスコではなかった。彼自身「ディスコ的な作品」を作るつもりは毛頭なかった。

「僕はエンタテイナーになりたいなんて思わない。ステージにあがって拍手をもらいたいとも思わないんだよ。もっとも避けたかったことがステージでダンスをすることだ(苦笑)。 僕は、なによりもソングライターだと思っている。僕の収入のほとんどは楽曲の使用料(印税)からでライヴ・ツアーをしてのものではない。毎晩、全米中を旅してまわっていたら、子供をきちんと育てられないとも思っていた。そして、ソングライターの仕事と言うのは家のトイレで、トイレット・ペーパーにでも書き散らしてもできることなんだ」

ウィザースが歌う歌は、自分自身の生活半径5メートルくらいのものだ。5メートルが極端であれば、彼の身近な人々に起こることを彼のヴォキャブラリー(語彙)で歌詞・物語にしていく。

たしかに、「イン・ザ・ゲットー」はすばらしい曲だが、ウィザースの生活とはあまりに接点はなかった。ウィザースは貧しい田舎街の生まれ育ちで、都会のゲットーのような所で生活はしていなかった。貧しくても、お互い助け合う(lean on everybody)、そんな温かい土地に住んでいたのだ。

16.衝突。

没連絡。

A&Rディレクターとアーティストは、通常は連絡を密に取り、次の作品をどのようなものにしようか、どんな楽曲をどのミュージシャンと録音しようか、アルバムのコンセプトはどうすrか、ツアーはどうするか、宣伝をどのようにするかなど話し合う。小説の世界で言えば、作家と編集者という立場に相当する。

しかし、あるとき、ウィザースからアイクナーに電話をすると、まったく折り返しの電話がなかった。何度かかけても、電話に出ることもなくなり、返事はまったく来ないで、結局2年以上電話で話すことさえできなかったという。

こんな調子だったら、ビルでなくても激怒し、どんなシンガーもコロンビアではもうアルバムは作るまい、と思うことだろう。それにしても、2年も自分の担当と電話でさえ話せないのに、ウィザースはよく我慢したものだ。

実際、ビルは1975年から78年まで4枚のアルバムを出したが、アイクナーの担当になり、アルバムが出なくなる。その間、7年の長きにおよぶ。

ウィザースが振り返る。「もう(契約だけに)縛られているような、閉じ込められている感じになってね。『もうたくさんだ』と思った。彼(アイクナー)は何もブラック・ミュージックのことなどわからずに僕を葬り去ろうとしていたからね。とても不愉快だった。だから、以来レコード会社とはどことも契約していない」

ビル・ウィザースはそんな彼にいいように振り回されてしまったわけだ。

アイクナーにビル・ウィザースが生きてきた人生の歩みなどは、到底わかろうはずもない。1980年代にレコード会社が、「産業ロック」「産業ジャズ」など数を売る巨大産業になり、「売れること至上主義」となった弊害が如実にここにでたのかもしれない。また、単に本当にビルの音楽に興味がなかったのかもしれない。レコード会社はなぜ担当を変えたりしなかったのだろう。ちょっと不思議だ。

17. 空白のとき。

音楽仲間。

1978年の『‘バウト・ラヴ』以降、ディレクターと連絡が取れなくなったビル・ウィザースだったが、ミュージシャン仲間の間では十分にリスペクトされていた。

1980年、彼のもとにジャズ界のアーティスト2人から声がかかる。1人がクルセイダーズのジョー・サンプル、もう1人がラルフ・マクドナルドだ。

DVD スクショ ビル・ウィザース ジョー・サンプル アー写

(ジョー・サンプル)

ちょうどジョー・サンプルがクルセイダーズの次のアルバム用に作った「ソウル・シャドウズ」という曲のヴォーカルを探していて、ビル・ウィザースに白羽の矢が立った。

「ソウル・シャドウズ」の歌詞は1978年以来ジョーと一緒に仕事をしている職業作詞家のウィル・ジェニングスが書いている。ジョーとウィルはB.B.キングの『ミッドナイト・ビリーヴァ―』(1978年)のアルバムを一緒に作り、その後、クルセイダーズの「ストリート・ライフ」(1979年)を共作し、さらに、ランディー・クロフォードなどが歌う「ワン・デイ・ウィル・フライ・アウェイ」(1980年)を作る。そして、ウィルはのちに映画『タイタニック』のテーマ「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」ではアカデミー賞を獲得。また、エリック・クラプトンの「ティアーズ・イン・ヘヴン」も彼の作詞だ。

ジョーからこんな曲をレコーディングしないかと誘われて、ビルがスタジオに行き、録音した。ジョーによれば、「ファースト・テイクで文句なしだったよ。だけど、ビルが『もう一度やらせてくれ』ってせがむんで、もう一度やらせた。そうしたら、『もう一回』と。何度かやったんだよね。2時間ほどでビルは帰っていったが、翌日プレイバックを電話越しに聴いたビルは、『なんであんなに何度もやらせたんだ』って言うんだ。(笑) 『いや、私たちはファースト・テイクで十分だって何度も言ったよ』って言い返したよ」と笑う。

この曲のコンセプトは、ジョー・サンプルが偉大な先達に敬意を表明するというもの。そうしたコンセプトをウィルに話し、ウィルが歌詞を書き、ジョーが曲を書いた。クルセイダーズの1980年6月発売のアルバム『ラプソディー・アンド・ブルーズ』に収録されている。「ソウル・シャドウズ」は1980年8月からソウル・チャート入りし、最高位41位を記録する。

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 クルセイダーズ ラプソディー&ブルーズ

ちなみに、この中にでてくる「スーパー・チーフ」はシカゴからロスまで行く大陸横断列車のことだ。ジョーの父親は、この「スーパー・チーフ」ではないかもしれないが、こうした大陸横断列車のシェフだった。ジョーの父はニューオーリンズからロスアンジェルスに向かう「サンセット・ルート」だったかもしれない。いずれにせよ、ここにも、ジョー・サンプルの思いが込められていた。


この「ソウル・シャドウズ」はアルバム『ラプソディー・アンド・ブルーズ』に収録される。

Rhapsody And Blues
クルセイダーズ
https://amzn.to/2xlOMR3

Soul Shadows – Crusaders ftg Bill Withers (1980)


https://www.youtube.com/watch?v=x_ShHW5iKlY

18.ソウルの面影。

面影。

「ソウル・シャドウズ」(ジョー・サンプル作曲、ウィル・ジェニングス作詞)
演奏=クルセイダーズ・歌=ビル・ウィザース

サンフランシスコにきーんとした冷たい朝が訪れる
目覚めているのか、夢うつつかぼんやりしている
シカゴからロスへ向かう「スーパー・チーフ」(*)で車窓をともにしたファッツ・ウォーラーが言った
「俺の音楽は本物だ。それ以外はまがいものだ」
彼がプレイすると、彼のソウルは残り香を漂わせた
彼は僕の心の奥深くソウルの面影(Soul Shadows)を残していった

霧が忍び込む窓辺に佇むと、はるかかなたの音楽が聞こえてくる
ジェリー・ロール・モートン(*)がルイジアナのストーリーヴィルでピアノを奏でている
サッチモ(*)がシカゴでむせび泣いている
コルトレーン(*)は心の叫びを音に託していた
彼らのソウルはこの空気の中に漂っていく
彼らは僕の心の奥深くソウルの面影を残していった、ソウル・シャドウズを

【註】

スーパー・チーフ Super Chief は、1936年から1971年までアチソン・トピカ&サンタフェ鉄道(AT&SF)がシカゴとロスアンジェルス間に運行していた大陸横断の旅客列車。

DVD スクショ ビル・ウィザース スーパーチーフ

(スーパーチーフ)

ファッツ・ウォーラー (1904年5月21日~1943年12月15日)。ニューヨーク出身のジャズ・ピアニスト、オルガン、キーボード奏者、作曲家。代表曲に「エイント・ミスビヘイヴィン」、「ハニーサックル・ローズ」など。

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 ファッツ・ウォーら―

(ファッツ・ウォーラー)

ジェリー・ロール・モートン (1890年10月20日~1941年7月10日) ニューオーリンズ出身のラグタイムのピアニストとしてよく知られる。1915年の「ジェリー・ロール・ブルーズ」、「キング・ポーター・ストンプ」などが知られる。

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 ジェリー・ロール・モートン

(ジェリー・ロール・モートン)

サッチモ=ルイス・アームストロング(日本ではルイ・アームストロングの表記が一般的)(1901年8月4日~1971年7月6日) ニューオーリンズ出身のトランペット奏者、作曲家、ヴォーカル。愛称、サッチモ。「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」が1967年に大ヒット。

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 ルイ・アームストロング

(ルイ[ス]・アームストロング)

コルトレーン=ジョン・コルトレーン (1926年9月23日~1967年7月17日)ノース・キャロライナ州出身のジャズ・サックス奏者。ビバップ、ハードバップ、モードなどからフリー・ジャズまで常に新しい波をクリエイトしてきた。マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンクらとの共演も。

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 ジョン・コルトレーン

(ジョン・コルトレーン)

SOUL SHADOWS
Music Written by Joe Sample
Lyrics by Will Jennings
Performed by Crusaders
Sung by Bill Withers

San Francisco morning coming clear and cold
Don't know if I'm waking or I'm dreaming
Riding with Fats Waller on the Super Chief
He said, musics real, the rest is seeming

Oh, deep pain
Feeling that won't go away
There's the sound of his soul in the air
I can hear it up there
And I know he left those soul shadows
On my mind, on my mind, on my mind

Soul shadows on my mind
On my mind, on my mind
Soul shadows on my mind
On my mind, on my mind

Standing by the window as a fog rolls in
I swear I can hear a far-off music
Jelly Roll is playing down in Storyville
And Satchmo is wailing in Chicago
You ought to heard 'em play
Feelings that won't go away
Left the sound of their souls in the air
I hear out there and I know

They left them soul shadows all on my mind
On my mind, on my mind
They left them soul shadows all on my mind
On my mind, on my mind
They left soul shadows on my mind
They left them shadows on my mind
They left them soul shadows on my mind

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19. 一枚のポスター。

ポスター。

パーカッション奏者として日々レコーディング・スタジオで仕事をしていたラルフ・マクドナルドがニューヨークのとあるスタジオでセッションをしていた時、その壁に一枚のポスターが貼ってあったのを見かけた。それは、カリブ海のふたつの島の観光宣伝ポスターだった。二島はそれほど経済的に裕福ではなく各島は観光宣伝予算もなかった。そこで地理的な関係から両島は手を組んで観光客を誘致しなければならなかったために、一枚のポスターで二つの島の宣伝をしていたのだ。

DVD スクショ ビル・ウィザース ポスター ジャスト・ザ・トゥ・オブ・アス

(トリニダッドとトバゴの観光客誘致ポスター)

そして、そのポスターのコピーがしゃれていた。それが「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス・・・アンド・ユー」(我々二島だけで、あなたと)という言葉だった。このキャッチコピーにぴんと来たマクドナルドはすぐに1曲書き始めた。カリブ調の音を使い、「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」を男女の恋人たちに変えて、ラヴソングに仕立て上げようとした。いつも一緒にやっているベース奏者、ウィリアム・ソルターと曲の骨格を作った。歌詞の部分はざっと作り、タイトルは「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」にした。

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 ラルフ・マクドナルド

(ラルフ・マクドナルド)

さっそく、ラルフは親友のビル・ウィザースに連絡し、「こんど書いた曲をグローヴァー・ワシントンにやってもらおうと思ってるんだが、歌ってくれないか」と誘った。

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 グローヴァーワシントン・ジュニア

(グローヴァ―・ワシントン・ジュニア)

ラフなデモ・テープを聴いたビルは、「わかったいいよ。でも、ちょっと歌詞を『ドレスアップ』してもいいかな」と答えた。どうやらビルの言葉使いのセンスとこの歌詞が少しばかり趣味が違ったようなのだ。

ビルは「僕は言葉使いには『スノッブ』(気取ってる)なんでね。で、少し歌詞を変えた。たしか、『クリスタル・レインドロップス』のあたりは、僕が変えた。最初のワード(歌詞)がなんだったか覚えてないんだが、そこは変えたことを覚えている」と振り返る。

「ただ、ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス(私たち二人)~~~」なんて歌は歌いたくなかったんだ」とビル。

歌詞カードの中で、この「クリスタル・レインドロップス」はものすごく人を引き付けるキャッチ―なワードだ。これをビル・ウィザース本人のアイデアだったとは。ほかの歌詞はだいたい出来上がっていたというから、ひじょうにいいワード(単語)をここにいれたことになる。

トラックは、カリブ風の音を出そうと、スチール・ドラムスをロバート・グリニッジに頼んだ。

グローヴァーはそれまでほとんどインストゥルメンタルだけでレコードを発表していたが、ここでビル・ウィザースをヴォーカルに起用した作品を録音することになる。

ビルによれば、グローヴァーに会ったのはレコーディングのときが初めてだという。ただし、それまでもちろん、グローヴァーのことは知っていた。ビルの「エイント・ノー・サンシャイン」などをいち早くカヴァーしていたのがグローヴァー・ワシントンその人だったからだ。

こうして、この曲は1980年10月にエレクトラ・レコードから発売されたグローヴァー・ワシントンの『ワインライト』というアルバムに7分23秒のヴァージョンが収められた。

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 グローヴァーワシントン・ジュニア

(グローヴァ―・ワシントン・ジュニア『ワインライト』1980年)

20. ゲスト・ヴォーカルで大ヒット

最大。

ジャズ・アーティストはあまりシングル・カットをして、ヒットを狙いに行かない。アルバムで売っていこうとするからだ。ただこのグローヴァー・ワシントンはそれまでも一応アルバムから何かしらのシングルをだしていた。特に「ミスター・マジック」(1975年)はインストながらソウル・チャートでも大ヒットしていた。ちなみに、この「ミスター・マジック」もグローヴァー、ラルフ、ウィリアムのトリオで書いたヒットだった。

この『ワインライト』からは、「レット・イット・フロウ」が最初のシングルとしてアルバムとほぼ同時期の1980年10月に出た。このシングルのB面はアルバム・タイトル曲「ワインライト」だった。これは小ヒットにはなるが、アルバムに収録され、ビル・ウィザースが歌う「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」を徐々にラジオDJたちがかけるようになる。

そして、これが人気となり、その人気を背景に翌1980年1月にラジオ向けに3分余に短くなったシングル盤が作られカットされた。

そしてこれはまたたくまに、ジャズ・フィールドだけでなくあらゆるラジオ・フォーマットでヒット。ソウル、R&Bで3位、はてはポップ部門でも2位を記録するヒットになり、グローヴァーにとっても最大のヒットに、また、ビルにとっても久々の大ヒットとなった。

21.邦題。

クリスタル。

この曲の日本の発売元レコード会社ワーナーパイオニアの担当者、田中さんは、「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」に邦題を付けた。それが、「クリスタルの恋人たち」だ。ちょうど、この頃、1980年、新人作家・田中康夫氏(のちに長野県知事)がデビュー小説「なんとなく、クリスタル」を発表し、1981年にはその単行本を大ヒットさせ、「クリスタル族」などの流行語になっていた。そこで、この「ジャスト…」にも、「クリスタル」という単語がでてくること、ジャケットがおしゃれなワインの写真ということで、「クリスタルの恋人たち」というタイトルになったのだ。1981年のことである。

DVD スクショ ビル・ウィザース 書影 なんとなく、クリスタル

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 グローヴァーワシントン・ジュニア 邦題シングル盤ジャケ


カリブ海に浮かぶ小さな島二つが一緒に宣伝をしたポスターからヒントを得て生まれたヒット曲、そして、ビル・ウィザースの言葉のセンスから埋め込まれた「クリスタル・レインドロップス」という単語。その単語を邦題に取り入れキャッチ―な響きを生み出したこと。全米のヒットとともに、日本でも折からのカフェ・バー・ブームなどとともにおしゃれな若者たちの間で人気となった。

そして、この「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」は翌1982年のグラミー賞で「ベスト・ジャズ・フュージョン・パフォーマンス・ヴォーカル・オア・インストゥルメンタル」部門を獲得。ビルにとっては、「エイント・ノー・サンシャイン」に続くふたつめのグラミーとなった。

その時のパフォーマンスがこれだ。

https://www.youtube.com/watch?v=m0MzYc1IZow

日本では久保田利伸がイギリスのキャロン・ウィラーとデュエットしヒットさせている。

Winelight インポート
グローバー・ワシントンJr.
https://amzn.to/2VnShib

「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」(クリスタルの恋人たち)

「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」
サックス・グローヴァー・ワシントン・ジュニア
歌・ビル・ウィザース、

瞼(まぶた)に映る天から降り注ぐクリスタルの雨粒
日差しのかなたから見える煌めく その雨粒の美しいことよ
時に君に想いを寄せれば、心に広がる七色の虹
君とともに時を過ごしたい

君と二人だけで
君が望めば、二人きりになれる
君と二人きりに
僕たちが望めば、天空に夢の城を作ることだってできる
君と僕と、二人きりで

僕たちが愛を求めれば、涙はいらない
涙とは命なき水
命なき水から花は育たない

待ち望む者には訪れる幸運
だが、待ちすぎる者には傍らを過ぎ去る幸運
だから、僕たちは全力で幸運をつかみに行かなければならない

君と二人だけで
君が望めば、二人きりになれる
君と二人きりに
僕たちが望めば、天空に夢の城を作ることだってできる
君と僕と、二人きりで

かすかに聞こえる回廊の窓に落ちるクリスタルの雨粒の調べ
雨粒が朝露に変わり、夜が明け、太陽が微笑む時、
君と一緒にいたい
君と二人きりで

(大意・訳詞・ザ・ソウル・サーチャー)

Just The Two Of Us
By Grover Washington, Junior
(Written By Ralph MacDonald, William Salter, Bill Withers)

I see the crystal raindrops fall
And see the beauty of it all
Is when the sun comes shining through
To make those rainbows in my mind
When I think of you some time
And I want to spend some time with you

Just the two of us
We can make it if we try
Just the two of us
Just the two of us
Building castles in the sky
Just the two of us
You and I

We look for love, no time for tears
Wasted waters’s all that is
And it don’t make no flowers grow
Good things might come to those who wait
Not to those who wait too late
We got to go for all we know

Just the two of us
We can make it if we try
Just the two of us
Just the two of us
Building castles in the sky
Just the two of us
You and I

I hear the crystal raindrops fall
On the window down the hall
And it becomes the morning dew
Darling, when the morning comes
And I see the morning sun
I want to be the one with you

Just the two of us
We can make it if we try
Just the two of us
Just the two of us
Building big castles way on high
Just the two of us
You and I

~~~~~


スタジオ仕事。

そして、ビル・ウィザースは1982年、こんな珍しいプロジェクトにもかかわっていた。フランスのフランソワ・アルディーやジョニー・ハリデイなどに曲を提供してきた有名プロデューサー、ソングライター、ミシェル・ベルジェが、鳴り物入りでアメリカ進出を狙ったミュージカル、ロック・オペラといえる『ドリームズ・イン・ストーン』のサントラで1曲歌うことになった。これはLAの一流どころのミュージシャンを起用し、アメリカで興行しその後、フランスにもっていこうというものだったが、企画が途中で頓挫、サントラがなんとかリリースされただけに終わってしまう。その中に、ビルが歌った曲がある。

今となっては珍しい一曲なのでご紹介しておこう。あまり、ビル・ウィザースっぽくない曲調だが。

Apple Pie – Michel Berger


https://www.youtube.com/watch?v=LrMiiskeTqU

なお、ミッシェル・ベルジェは1992年8月2日、心臓発作で44歳の若さで急死している。

22.  最後のアルバム

引退。

ビル・ウィザースは、前作『‘バウト・ラヴ』(1978年)のあと、1980年にクルセイダーズとグローヴァー・ワシントンの作品に客演し、その存在感をアピールしたが、それでも所属レコード会社ではアルバムを作れないでいた。

結局、それから5年、ウィザースはなんとか1985年にコロンビアでアルバム『ウォッチング・ユー・ウォッチング・ミー』を出すが、契約を打ち切り、音楽業界から引退してしまう。これが彼の最後のアルバムになった。

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 ウォッチング・ユー

アルバムは全曲ラヴ・ソングで、ウィザースらしさというのがそれほど顕著ではないのだが、さまざまな問題がこのアルバム制作中に降り注いでいたのかもしれない。このアルバム・クレジットに、しかし、ウィザースは「スペシャル・サンクス・トゥ:」として何人かの人々と並列して天敵ミッキー・アイクナーの名前もいれてある。

このアルバムは7年ぶりのアルバムということで若干話題にはなったが、ポップ・アルバム・チャートで143位、ソウル・アルバム・チャートで42位と振るわなかった。

ウィザースの実質的引退は大きなニュースになることもなく、いつのまにか「彼の新譜がでなくなったね」「ビル・ウィザースはどこへ行った?」程度の認識しか残さなかった。

それにしても、たった一人のA&Rマンのために、一人の才能あふれるシンガー・ソングライターが筆を折る、いやギターを折る、とでもいうのか、音楽業界を辞めてしまうというのは、今から考えると本当に残念であり、悔しくもある。

彼のベストアルバム『ザ・ベスト・オブ・ビル・ウィザース~リーン・オン・ミー』(ソニー、SRCS 9814、2000年9月日本発売)にデイヴィッド・リッツが書いたひじょうに素晴らしいライナーノーツがあり、そこに彼がなぜ歌うのを止めたかが書かれている。

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 ベスト 2000年


一言で言えば、「クレイジーな音楽業界にすっかり嫌気がさした。嘘で固められた業界から足を洗いたい」ということだった。彼は1970年から1977年までの激動の8年余を、「時代を映した小さな窓」と呼ぶ。

ビルは、ウェスト・ヴァージニア州スラブ・フォークという素朴な田舎街に生まれ、純情に育ったひじょうに繊細な男だ。大都会の空気にはなじめなかったのだろう。また、彼はデビューする前に克服しているが吃音(きつおん=どもりのこと)が常に心の悩みだった。そのことを馬鹿にされ、引きこもりぎみになったこともある。しかし、「自分を馬鹿にするような連中よりも、自分には言葉の使い方に才能があることを悟った」のだ。

ウィザースはそれまでに出した作品の印税である程度の安定した生活は送れるようになっていた。時間があれば、DIY(ドゥ・イット・ユアセルフ)で、家庭大工に没頭した。家庭内で「歌うカーペンター(大工さん)」になった。

ただ、彼は自宅に豪華な録音スタジオを構え、いつでも曲を書き、録音できるようにしている。音楽業界からは引退したが、音楽を辞めたわけでは決してなかった。

そして、アーティスト・ビル・ウィザースはまた予期せぬところから復活するのだ。

23. クラブ・ヌーヴォーのカヴァー

カヴァー。

1986年、サンフランシスコのディスコ・プロデューサー、ジェイ・キングがビル・ウィザースの「リーン・オン・ミー」をディスコ調にアレンジしてカヴァーするのだ。グループ名はクラブ・ヌーヴォー。そして、これが1987年2月から見事に大ヒット。ビルボード・ホット100では1位、ダンス・チャート1位、ブラック・チャート2位というオリジナルをしのぐゴールド・シングルになるほどのベスト・セラーになり、さらに、これで3つ目のグラミーを獲得。その作者ビル・ウィザースにも脚光が再度浴びることになったのである。業界を引退した身にとって嬉しくもあり、歯がゆくもあった。

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 クラブヌーヴォー リーンオンミー

オリジナルが出た直後もカヴァーはあったが、このクラブ・ヌーヴォーの大ヒットでさらにカヴァーが増え、ビル・ウィザースにとっては印税生活が潤うことになった。

それにしても、ビルが嫌ったディスコ・サウンドで自身の曲がアレンジされ、それが大ヒットし彼に再注目が集まる。まさに歴史の皮肉だ。

ビル・ウィザースの楽曲は多くの映画、テレビなどにも使われているが、1989年には『リーン・オン・ミー(邦題、ワイルド・チェンジ)』と題された映画のテーマ曲となった。モーガン・フリーマンが都市の荒廃した学校を校長となって立て直す物語だ。

DVD スクショ ビル・ウィザース ポスター 映画 リーンオンミー

https://www.youtube.com/watch?v=8VmRNr9QbxQ&feature=youtu.be

ほかに1992年のホイットニー・ヒューストン、ケヴィン・コスナー主演の『ボディーガード』では、「ラヴリー・デイ」(ソウル・システム)がカヴァーされた。

そしてなにより多くのヒップ・ホップ系アーティストたちが、ウィザースの作品をさかんにサンプリングするようになり、彼の作品が若い世代に新たに浸透するようになった。

たとえば、「グランドマズ・ハンズ」は、ブラックストリート・フィーチャリング・ドクター・ドレ&クイーン・ペンの「ノー・ディギティ」(1996年)ほか30曲以上で、「ユーズ・ミー」は、ケンドリック・ラマ―の「シング・アバウト・ミー、アイム・ダイング・オブ・サースト」(2012年)ほか70曲以上で、「キッシング・マイ・ラヴ」はドクター・ドレ・フィーチャリング・スヌープ・ドッグらの「レット・ミー・ライド」(1992年)ほか170曲以上で、「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」はエミネムやウィル・スミスのカヴァー/サンプリングほか80以上の曲で使われている。もっとも多く使われているのは、「エイント・ノー・サンシャイン」で200曲以上に使われているほどだ。

またドキュメンタリー映画にもいくつか顔をだしている。先に述べたが、2008年公開の『ソウル・パワー』(1974年のザイール・キンシャサでのモハメド・アリの戦いのドキュメンタリー)、2009年公開の『スティル・ビル』、古いものでは1972年の『セイヴ・ザ・チルドレン』などにも出ている。

DVD スクショ ビル・ウィザース 映画ソウルパワー ジャケ写

ビルを描いたドキュメンタリー『スティル・ビル』の中では、なんとラウル・ミドンを招いて2人で新曲を録音している。また娘のコーキーともコラボしている。音楽の制作意欲は旺盛だ。

2009年のドキュメンタリー『スティル・ビル』(76分)ではほんとに朴訥としたナイスガイが映し出される。ラウル・ミドンとも共演。
DVD(リージョン1=リージョン・フリー再生機が必要です)

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 DVD スティルビル

https://amzn.to/2X4HAmZ 

ユーチューブで見られます


https://www.youtube.com/watch?time_continue=463&v=S0thRH4qucU&feature=emb_logo

盟友ジェームス・ギャドソンはデビュー前からの友人。2枚目のアルバムからのつきあい。ライヴもだいたい彼がたたく。この映像にもジェームスの姿が映る。

また、この『スティル・ビル』の公開とときを同じくして、ビル・ウィザース作品がCD化され、それにともないウィザースのインタヴューが各媒体に掲載されるようになった。

24. ロックンロール・ホール・オブ・フェイム(ロック殿堂)

殿堂。

2015年4月18日、オハイオ州クリーヴランドのロック殿堂ホール。この日、ビル・ウィザースはポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド、グリーン・デイ、ジョーン・ジェット、ルー・リード、スティーヴィー・レイ・ヴォーンらと並んでロック殿堂入りを果たした。ビル・ウィザースはこの年初めてノミネートされいきなりの殿堂入りだ。

ウィザースはスティーヴィー・ワンダーの紹介でその殿堂入りを紹介され、壇上でスピーチを行った。

DVD スクショ ビル・ウィザース ロック殿堂2 スティーヴィーと

(ロック殿堂授与式で、左・スティーヴィー・ワンダー、右・ビル・ウィザース)

ビル・ウィザースは改めて予定されていた原稿がテレプロンプター(スピーチなどの原稿がしゃべりながら、原稿が映し出される装置。演者がそれを声に出して読む)に映し出されると、「ちょっとプロンプターを止めてくれ。台本と違うことをしゃべるから」と言った。すると、スティーヴィーが「僕は使わなかったよ」とつっこみをいれ、会場の爆笑を誘った。終始ウイットとユーモアに富んだスピーチを繰り広げた。

この13分弱のスピーチで、ウィザースは自分自身のお世話になった人を何人かあげて感謝。アル・ベル、クラレンス・エイヴォント、スキップ・スカーボロー、レイ・ジャクソン、ジェームス・ギャドソン、ブッカーTなど。「エイント・ノー・サンシャイン」が最初はシングルのB面だったことも話している。また、プリンスのバンドに在籍したこともあるウェンディー・メルヴォワン&リサ・コールマンが客席にいて、彼女たちのベイビーシッターをしたという逸話も披露。これは父親マイク・メルヴォインがジャズ・ピアニストでウィザースと友人だったためのようだ。1960年代半ばのこととみられる。

その後スティーヴィーがビルを横に従えて「エイント・ノー・サンシャイン」を歌い、さらにジョン・レジェンドが加わり「ユーズ・ミー」に。スティーヴィー、ジョン、そして、ビルで「リーン・オン・ミー」が歌われた。

Ain’t No Sunshine – Stevie Wonder side by Bill Withers
Use Me – John Legend & Stevie Wonder
Lean On Me – John Legend & Stevie Wonder

一度、スティーヴィーが小さなキーボードで歌い始めるがバックバンドとのキーが違い、「キーが違う」と言ってやり直す。「僕は楽譜を使わないんで」と言って、また会場の笑いを誘った。

そして、「リーン・オン・ミー」で横で見ていたビルをジョンがステージセンターに引っ張り出し、一緒に歌った。いずれの曲も観客席が一緒に歌っているようで、アメリカに愛されている作品だということがわかる。

ビル・ウィザースが公式の席上、人前で歌うのは30数年ぶりとみられる。

ビル・ウィザースのシーンは12時05分くらいまで続いたので、約30分登場していたことになる。

彼が2015年ロック殿堂入りしたニュース。10分余のスピーチ動画も→
https://amba.to/3bI6CfE 

23.43年ぶりのカーネギー・ホール

カーネギー・ホール。

2015年7月4日、ビル・ウィザースは77歳になった。そしてこの2015年はいつになくビル・ウィザースにとって輝かしい年になった。4月にロック殿堂入り、そして、10月1日に1973年に自身がステージに立ち2枚組となったアルバムがその後高く評価されたニューヨークのカーネギー・ホールで、若手ミュージシャンたちがビルを称えるトリビュート・コンサートをするというのだ。ビル本人も顔を出したが、ビルがここに立つのはまさに43年ぶり。

DVD スクショ ビル・ウィザース カーネギーホール外観 夜景

今回のセットリストは、途中の5曲目から18曲目までの「プログラム」が、1972年10月6日にこの同じカーネギー・ホールで行われたライヴ盤のセットリストをそのまま再現。そして、オープニングとアンコールに、そこで歌われていないビル・ウィザースの名曲、主として、1972年、73年以降のウィザースのヒット作品などを配した。このコンサートには、ディアンジェロが登場する予定だったが、急遽体調不良のためドクター・ストップがかかり、出演をキャンセル。Dが歌うとされていた2曲のうち1曲はドクター・ジョンが歌い、もう1曲はカットされた。

バンドは、グレッグ・フィリンゲインズが音楽ディレクターとなり、ドラムスにスティーヴ・ジョーダン、ベースにウィリー・ウィークス、ギターにフェリシア・コリンズ、パーカッションにバシリ・ジョンソン、バック・コーラスにシンディー・マイゼル、ビルの娘でありシンガーでもあるコーリー・ウィザースらニューヨーク・ベースの一流ミュージシャンたちが参加。

オープニングでは南アフリカ出身のギタリスト/ヴォーカリスト、ジョナサン・バトラーが1977年のウィザースのヒット「ラヴリー・デイ」で登場。

『ライヴ』アルバム再現の冒頭は予定されたディアンジェロに変わりドクター・ジョンがニューオーリンズ風リズムで再現。エド・シーランはギター片手にアコースティック的なサウンドで「エイント・ノー・サンシャイン」を披露した。

この日もっとも拍手喝采を浴びたのは、アロー・ブラックの「ホープ・シール・ビー・ハピアー」。約7-8割を占める白人のオーディエンスは足を踏み鳴らし、スタンディング・オヴェーションを送った。次のシンガーは相当やりにくかったようだ。

DVD スクショ ビル・ウィザース ポスター カーネギーホールでのトリビュート


主人公ビル・ウィザースは最後のアンコール部分で登場。さすがに歌わなかったが、簡単にコメント。「今夜5万ドルほど集まったそうだが、私が以前ここでやったときは、その半分ももらえなかった」。「こうした若いアーティストたちが私の名前を知っていることに驚いている」とも付け加えた。

DVD スクショ ビル・ウィザース ライヴ カーネギー グレッグ・フィリンゲインズ

(この日の音楽ディレクター、グレッグ・フィリンゲインズ)

ライヴ評、セットリストなど。最後にビル本人もステージにあがった→
https://amba.to/3dRTCpF 

このライヴについて→
https://amba.to/39LW8L7 

ビル語る
◎ビル・ウィザース語る
2014年07月03日(木)
→https://amba.to/2X34dbr 

24.追悼

追悼。

ビル・ウィザースの訃報が日本時間金曜(2020年4月3日)深夜に流れてから、SNSのタイムラインは、ウィザースであふれかえった。特にアメリカのファンのウィザースに関するコメントは胸を打つものが多い。

僕はウィザースには直接会ったことはないのだが、ドキュメンタリー『スティル・ビル』やその他のインタヴュー、彼を知る人からのいろいろな話で垣間見られる彼の人柄、人となりを見ていると、ウィザースと似たタイプの人たちを何人か思い浮かべた。

まずはクルセイダーズのキーボード奏者、ジョー・サンプルだ。話し方や、考え方、哲学、生き方などがとても似たものを感じる。ウィザースはサンプルが書いた「ソウル・シャドウズ」を歌っているが、きっと、二人は意気投合したことだろう。

もう一組が同じアパラチア山脈の炭鉱夫を父親に持つウーマック兄弟たちだ。ボビー・ウーマックやセシル・ウーマックらだ。

彼らの共通点は、普段は地道に仕事をし、浮かれたことはあまりしないということだ。しっかり地に足をつけ、生きている。

ウーマックたちも、ウィザースも、サンプルも、みな1980年代のメジャー・レコード会社で、かなり厳しい扱いを受けていた。そして、それに耐えて、結果、インディに生きる道を求めることなる。ウィザースの場合は、白人A&Rマンと対立し、引退してしまう。レコード会社と対立した大きなアーティストといえば、プリンスもいる。プリンスもウィザースの曲をカヴァーしている。

自分の気持ちを音楽に乗せて人々に発表したいという欲求と、その音楽を「商品」としてたくさん売らなければならないメジャーのレコード会社ではどうしても、意識や方法がずれていく。

これは、今でもある程度同じだ。今はかなりアーティスト側が主導権を取って、クリエイティヴ・コントロールを獲得することはあっても、衝突は避けられない。

ウィザースは引退という道を選んだが、その後、ロック殿堂入りや、若手からのリスペクトでトリビュート・コンサートが行われ、再度注目を集めるようになった。

ドキュメンタリー『スティル・ビル』の中で、ラウル・ミドンを自宅スタジオに招いて曲を作っているシーンがあった。あの曲は結局、発表されたのだろうか。同じくそのドキュメンタリーの中で、娘のコーキーとも曲を作っていた。そのあたりも、未発表作品として御蔵入りになるのだろうか。

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 ラウル・ミドン

(ラウル・ミドン)

では、ウィザースは、音楽業界の中で意地悪なA&Rディレクターのために引退して「負けて」しまったのか。僕はそうは思わない。クレイジーで、数字だけ見るようになった音楽業界に、逆にウィザースから「さよなら」を言って身を引いたのだ。言ってみれば、音楽業界と僕らリスナーのほうが、ビル・ウィザースの新作を30年以上聞かせてもらえなくなったという意味で、我々の方が「負けた」のである。

「ユーズ・ミー」(俺を利用しろ)と歌った彼は、音楽業界に使われてしまったのか。

音楽業界は引退したが、音楽の世界にはずっといて、制作意欲は持ち続けた。ミュージック・ビジネスとミュージック・ワールドという二つの世界。ウィザースは、ミュージック・ビジネスの住人にはなれなかっただけだ。

25. エピローグ

ご褒美。

彼が綴れ織る素朴ながら普遍的なメッセージは、今では見られなくなったアメリカの良心だった。そして、この音楽は、ビル・ウィザースというひとりの人間の性格を見事に映し出している。「音楽とは人を映し出す小さな窓」。ビル・ウィザースの作品群はまさに彼と言う人間性を映し出す小さな窓である。

芳醇な物語を多く持っているビル・ウィザースの物語は、そのまま一冊の本になるだろう。ライナーノーツを書いていたのが稀代のバイオグラファー(伝記作家)、デイヴィッド・リッツだったので、ビル死去後、彼とは本を書く予定はなかったか、尋ねた。

そうしたら、やはりデイヴィッドも何度もその話を誘ったが、ずっと断られてきたという。何か思うことでもあったのだろうか。

実はデイヴィッドも、ビル同様吃音の悩みを持つ。二人は吃音仲間としても意気投合できたはずで、デイヴィッドが書けばその伝記はまちがいなくおもしろいものになっただろう。

彼の描く小さな窓を、一冊の著作か、映像カメラの小窓で見てみたかった。

デビュー時期からの盟友でもあるドラマーのジェームス・ギャドソンは、自身のキャリアの中でビルとの時間を「まちがいなく、私にとって最高の時代だったよ」と称賛を惜しまない。

1971年のレコード・デビューから約50年。半世紀。その間に残したアルバムはスタジオ録音が8枚、ライヴ盤が1枚、わずか9枚、その数は100曲ほどだ。その素晴らしい楽曲打率はかなりのものだ。

彼の作品はどれも普遍的なものが多く、シンプルでオネスティー(誠実)、いつの時代でも、そしてどのような人種にも、どのような年齢層にも受け入れられる。ついに日本の土を踏むことはなかったウィザースだが、それにしても、果たして未発表曲はどれくらいあるのだろうか。

1971年に「エイント・ノー・サンシャイン」が初ヒットとなってから、1985年までわずか14年が実働期間のビル・ウィザース。しかし、それから30年経ってロック殿堂入りを果たし、トリビュート・コンサートがカーネギー・ホールで行われた。

殿堂入りのスピーチで、ビル・ウィザースはこう言った。

「私の奇妙な人目につかない長い旅には、いいこともあれば、ひどく気分の悪いこともありました。でもいつでもいいことを思い出すようにしています。そう、何がよかったかって? これです。スティーヴィー・ワンダーが私の名前を知ってくれていて、彼が私をロック殿堂入りさせてくれたことです!」

こう言って、ビル・ウィザースは「さあ、どうだい」といった面持ちで両手を広げ、スティーヴィーの元に歩み寄った。

DVD スクショ ビル・ウィザース ロック殿堂 さあどうだい

(さあ、どうだい? スティーヴィーが僕に賞をくれるんだよ)

埃にまみれ、どんよりとした雲が多い太陽が見えない廃れたスラブ・フォークに生まれ育った黒人で、吃音(どもり)と喘息があり、「障碍者」と呼ばれ、なんの希望もないような一人の男が、詩と歌の才能を開花させ、世界に躍り出て、ヒットを出すようになりスターになった。しかし音楽業界の中で衝突し引退、しかしその後復活し、遂にはスティーヴィー・ワンダーによって殿堂入りをさせてもらう。音楽界にいてこれ以上のアップ・ダウンを経た劇的な名誉はない。これだけでビル・ウィザースの実働14年間、30年におよぶ実質引退は報われたといっていい。見事な真実の瞬間だった。

911、大災害、コロナ禍、有事のときに人々を奮い立たせ勇気を与える曲、「リーン・オン・ミー」。あるいは、前向きさを象徴するような「ラヴリー・デイ」。さまざまなヴァリエーションのカヴァーが生まれ、世界各地で歌われる。

お互いに寛容となり、自分に頼っていいんだよとやさしさを見せる普遍的な「リーン・オン・ミー」。ビル・ウィザースが亡くなったこの2020年、コロナ禍に覆われた地球という名の惑星に悲しみと絶望にくれる人々に歌いかける作品としてはこれほどのもの、これほどのタイミングはない。

Lean On Me - AritstsCan (Official Video)


https://www.youtube.com/watch?v=athd5_CW_z0

今回のコロナ禍を受け、カナダのミュージシャン有志が「リーン・オン・ミー」をリモート録音。

~~~

スラブ・フォークの街を走る線路の果てには、ビル・ウィザースにとっては大きな虹だけでなく、希望に満ち溢れた世界が広がった。

DVD スクショ ビル・ウィザース スラブフォーク列車

そしていま、ビル・ウィザースは、ロスアンジェルスの名門墓地、マイケル・ジャクソンやエリザベス・テイラーなど多くのセレブたちも埋葬されているフォーレスト・ローン墓地に静かに眠っている。ハリウッド・ヒルズにある道もきっちり整備され、美しい芝生が太陽の光を受けまぶしい立派な高級墓地だ。もちろん雑草などは生えておらず、墓石も定期的に磨かれている。それは、かつてビルが訪ねたスラブ・フォークの雑草と木が猛然と茂る中にあった兄弟や父親の墓とは格段の差があった。おそらく、フォーレスト・ローンのビル・ウィザースの墓には、毎年命日には多くの家族・親類、そして世界中のファンが訪れることになるだろう。それはビル・ウィザースがスラブ・フォークの線路から無限の世界に羽ばたいた大きなご褒美だ。

DVD スクショ ビル・ウィザース フォーレストローン入口看板

(ハリウッド・ヒルにある広大なフォーレスト・ローン墓地)


(おわり)

ENT>MUSIC>ARTIST>Withers, Bill
OBITUARY>Wither, Bill (July 4, 1938 – March 30, 2020 – 81 year old)

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資料:

+ビル・ウィザースの各種CDとそのライナーノーツ

+DVD『スティル・ビル』

+ワックスポエティックス(日本版)第3号2009年3月発売号

+ビル・ウィザース:アズ・アイ・アム(2005)ショート・ドキュメンタリー

オリジナルCDリスト

(アルバム・タイトル、レーベル、ナンバー、全米発売年月)

①   Just As I Am (Sussex 7006, 1971/5)
https://amzn.to/3csrBmR

②   Still Bill (Sussex 7014, 1972/5)
https://amzn.to/3eOUCuw

③  Live At Carnegie Hall (Sussex 7025, 1973/4)
https://amzn.to/305tByL

④  +Justments (Sussex 8032, 1974/3)
https://amzn.to/3gTYewU
(ちなみにタイトルは、アッド・ジャストメンツの表記で、アジャスメンツと読みます)

⑤  Making Music (Columbia 33704, 1975/10)
https://amzn.to/2Xx1gjb

⑥  Naked & Warm (Columbia 34327, 1976/10)
https://amzn.to/2A2xgTc

⑦  Menagerie (Columbia 34903, 1977/10)
https://amzn.to/36ZO2P4

⑧  'Bout Love (Columbia 35596, 1979/2)

⑨  Watching You, Watching Me (Columbia 39887, 1985/5)
https://amzn.to/2MsZdXe

上記9枚をまとめてボックスにしたCD新発売、なんと9枚で5000円少々で入手可。詳細ライナーも。
Complete Sussex and Columbia Album Masters CD, インポート
ビル・ウィザース
https://amzn.to/2MokYaq
(全部持ってるが、ライナー読むためにぽちってしまった)

個人的には、最初の2枚が圧倒的にいい出来だと感じている。ライヴも今から思えばなかなかすごいアルバムだ。しかし、5千円少々で9枚手に入るなら、これが手っ取り早い。(笑) ただこれだと、客演の何曲か(「ジャスト・ザ・トゥ・オブ・アス」「ソウル・シャドウズ」などが手に入らないので、そのあたりは、うまくベスト・アルバムで手に入れるしかない。いずれにせよ、ゆっくりビル・ウィザースの旅をお楽しみください。

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