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note中毒と情報の質と

こんにちは。
私は今、本当に何もやることが無い身です。
したがって、毎日バイト以外では暇で暇で仕方がないわけです。
そうすると人間はなんとかして暇を潰そうとし始めるわけですね。
半ニート生活の最初は本を呼んだり、絵を描いたり、プログラムを書いたり設計したりと自分で選んだコトを少しずつやってそこそこ充足感のある生活を送っていました。

もともと大学院でいろんなことに追われていた身ですので、最初は自分で自由に色々できるというそういうことにワクワクして毎日を過ごしていたのです。

ですが、そんな生活は少しずつガタが来始めました。精神的な辛さとか、自責の念とか将来への不安とか、そういうもので自律神経やらいろいろが崩れてすぐに寝てばかりの生活になってしまいました。

そうなってくると、本を買ったり、プログラムを書いたりとかそういう行動が少しずつめんどくさくなってきて、だんだんできなくなってくるわけです。『自分でコスト(時間、お金)を掛けて行動する』ということが少しずつ苦手になってきます。

noteと出会う

そこで私が出会ったのはこのnoteというサービスでした。
生まれてこの方活字中毒に近かった私は、この無料で圧倒的なまでの情報量にふれることができるサービスに一瞬で心を奪われ、気づけば毎日自分と同じような境遇の人の記事を探したり、学問についての記事をよんだりとnoteにどっぷりになっていました。
今思うと、本を買って読むということに比べて『コストをかけずに選択できる』というところが非常にハードルが低く、そのハードルの低さが普段の趣味であった興味のある本探しよりも私の心を引き付けていたのでしょう。

まぁそんなこんなの生活ですぐに一ヶ月は立ちました。毎日面白い記事を読め、私の暇はどんどんと潰されていったのです。

めでたしめでたし。

…ならばこんな記事を書きませんね。

ここからが本題です

情報の量と質

noteにハマりにハマって数ヶ月。DMMのセールで久しぶりに本を大量購入した私は、年末年始をそれらの本を読みふけっていました。それらはジャンルは様々で、ミステリー、ラノベ、哲学に科学。あらゆる分野の本をゆっくりと読んでいました。大体2週間ぐらいずっと本を読んでいました。そして大方読み終わったあたりであること気が付きました。

noteを数ヶ月読んでいたときよりも、二週間本を読んでいたときのほうが圧倒的に充足感があったのです。

ちょっとこれは考えものだなと思いました。自分は様々な人の考えに触れ、それと対話するそんな読書が好きでした。ならば、人の考えに触れるという意味ではnoteで読んだ執筆者の数のほうが2週間の読書で触れた著者の数よりも圧倒的に多いはずです。

でも、記憶を辿ってみると、頭に残っているのは圧倒的に本の方でした。
noteでも本当に役に立った、生き方を考えさせられるような文章は存在しました。でも、打率が低すぎるのです。

本でも本と読む意味なかったなみたいなカスみたいな本は存在します。それでも、本の方は出版までに複数の工程が含まれており、本の方が質が高い情報を得られる可能性が高いのは間違っていないでしょう。お金をかけて、出版する。それだけでもどんな本でも世に出るまでに責任とコストがかかっているわけですから。

情報爆発社会

少し話は変わりますが、現代はSNSの発達によりインターネット上の情報量は指数関数的に増えて行っているとされています。(東大の資料では情報爆発だとかいわれてましたね)その原因の一つとして、Youtubeやnoteなど「ユーザー自身が発信できる」サービス形態が勢いを増していることがあります。

これまでは、人々の思想は出版社を通してはじめて世に出ていました。
作者 ⇒ 編集者 ⇒ 出版社 ⇒ 読者
というルートを通って情報は読者に伝わっていたわけです。(自費出版とかは違いますけどね)

しかし、サービスの発達に伴い、次第に情報は
作者 ⇒ 読者
と直接的なルートを通って伝わるようになりました。

では、情報の流通過程で編集者や出版社が消えることで何がおきるのでしょうか。

メリットとしては、誰でも思想を発表できることや投げ銭や広告といったシステムで作者はリスクなく金銭を受け取れることでしょうか。出版社に都合が悪く、これまででは出すことができなかった思想や考えをネットでは主張することができます。ブロガーなどのそういった生き方ができるようになったのも、インターネットの発達に伴うものですね。

ではデメリットは?
それは圧倒的なまでの情報量と自らが情報を選択、判断しなければならなくなったということです。
情報量が増えているのは言わずもがなでしょう。
そして、流通過程に編集者や出版社がいなくなるということは、私たちは生の情報を自らで処理しなければいけなくなるということです。これまで筆者から読者に届くまでに第三者の目を通すことで洗練されていた文章ばかりを読んでいた私たちは、洗練される前の情報を自らで選び取り、評価しなければならなくなりました。

いわば、1億人総編集者時代です。

現代の情報との接し方とは

昔の時代では、ある分野における書籍などは限られていたので選択の余地はなく、ひたすら文章を追い求めていました。人間の人生の時間と情報を得るための必要時間がまだ釣り合いが取れていたのです。なんなら、発展途上の分野ならば人々が求めている情報よりも書籍に乗っている情報のほうが圧倒的に少なかったでしょう。貪欲に情報を求めていた時代もあったと思います。
しかし、現代ではその逆の現象が起きています。
人間の一生の時間を使っても、現代の1分野の情報をすべて読み切ることは不可能でしょう。人々には今、多大なる情報を自らで評価し、選別して行くことが求められています。

無料で得られる情報には
「無料だが、雑多な情報の量があまりにも多い」
という特性があり、
出版社等を通した情報は
「ある程度情報の質が確保されているが、有料またはめんどくさい(図書館にいかねばならないとか)」
という特性があります。

どっちの方を重視するかは人それぞれだと思います。
大量の情報をさばき、自ら評価することができる人は前者のタイプの情報にも対応していけるでしょう。
逆に、その能力が無いと思う人は、有料や面倒くささに抵抗があるかもしれませんが、「お金や手間を掛けることで情報の質を確保する仕事を代わりにやってもらっているんだ」という考え方で書籍等に触れることを重視したほうがいいかもしれません。

私はインターネットの雑多な情報を処理することが苦手なので、これからはコストをかけてでも書籍などの方に触れて行くことを大事にしようかなと考えています。

情報の質をどうやって評価するんだとか、情報の質という点での広告というサービスのあり方についての疑問とか、大量の生情報を処理するためにどうすればいいかとか、色々考えたことはありますが、それらは別の記事として載せたいと思います。

それでは、みなさんも情報中毒にご注意を。










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