教養を決めるのは誰かーーレジー『ファスト教養』集英社新書

 「楽しいから」「気分転換できるから」ではなく「ビジネスに役立てられるから(つまり、お金儲けに役立つから)」という動機でいろいろな文化に触れる。その際自分自身がそれを好きかどうかは大事ではないし、だからこそ何かに深く没入するよりは大雑把に「全体」を知ればよい。そうやって手広い知識をもってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、「現代における教養あるビジネスパーソン」である。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は「ファスト教養」という言葉で定義する。(27)

本書は、不安定な時代(VUCA)を生き抜くビジネスパーソンに向けて、まるで脅しのように求められる教養の姿を、現在と過去(主に2000年代前半から)から映し出す。例えば教養系YouTuber中田敦彦や、サッカー選手/ビジネスパーソンの本田圭佑、「新規参入」で時代の寵児となった堀江貴文(主に昔の発言)、1980年前後生まれのファスト教養の供給者たちの言説を検証。「自己責任」「スキルアップ」「公共との乖離」が特徴として抽出される。

そもそも教養を定義することが難しいが、教養には「自分の人生を見直すこと」と「学びたいから学ぶこと(自己目的的で自発的な行為)」の二つの側面がある。前者が「ビジネスパーソンとしての自己の成長」と結びついたときに、それまでビジネスの文脈では無駄(いわば趣味、楽しみの領域)にあったものが、ビジネスのリソース(金脈)として発見され、共有されていく過程がファスト教養と筆者が名づける現象なのだろう。面白いことに、教養としてくくられるものには、多くの人が教養としてイメージするような芸術の古典や傑作(文学なら夏目漱石、三島由紀夫、村上春樹…)だけではなく、かつてであれば教養とはみなされないだろうもの、ポップカルチャー(大衆文化)も含まれている。本書は「教養としての〇〇」という実際にある書籍を羅列していて、この○○には「映画」「ラーメン」「茶道」「落語」「ジャパニーズウィスキー」「マンガ」「アニメ」「ゲーム」「ゴルフ」「腕時計」「ロック」「ビール」「将棋」「アート」「食べ方」「日本食」「写真」「ミイラ」「ヤクザ」「ワイン」が入る。

おそらく歴史的に教養という概念は、知的エリートと大衆を区分するために機能していた側面があるのだろう。即物的な利益を生まないもの、すぐに役に立つわけではないもの、それ自体が目的だと宣言することでそれ自体を目的にできる経済的な余裕あるものたちだけに限定されたもの。ところが、人間的成長がビジネスパーソンとしての成功に読み替えられ、教養の意義に市場的価値「も」付与された結果、儲けにつながりうるものはなんでも教養とラベリングすることが可能になったのだ、と言えそうだ。ここでは「○○が教養として役に立つ!」と言える立場の人と、その言説にコスパを意識しながら追随する(だけ)の人に、階層化されている。○○に入るものを決められるのは、マネタイズに成功しているその道の専門家であって、フォロワーではない。インフルエンサービジネスといえばそうであり、後追いのフォロワーが利益をあげるのは、なかなか難しいのではないか。

本書が誠実なのは、ファスト教養vs古き良き教養という二項対立をたて後者の復権を主張するのではないことにある。ファスト教養が流通・繁茂する現状を理解し、その背景に一定の共感をしめす。ビジネス的な成功(反転させるなら、不安定な時代に取り残されないように、という不安に対処すること)を求める気持ちは否定できないし、この気持ちを踏まえて、どうポスト・ファスト教養を議論している。この筆者の姿勢はなるほど、と思う。

翻ってSF。ここでも紹介してきたが、ここ1〜2年、SFプロトタイピングが人気である。簡単にいうと、SFの発想をワークショップを通じて教育やビジネスなどの場面で活用していこうとするものだ。必ずしもビジネス、必ずしも商品開発、というわけではないが、「ビジネスに役立つSF」という紹介のされ方が、まったくなかったわけではない。大事なのは、「SFが好き・面白い」という気持ちがあり、それが結果として(経済を含む)私たちの社会を豊かにしていく、という順番だろう。その逆ではなく。「よしビジネスに役立てるためにSFを勉強しよう!」というのは、SFが社会に浸透する点では良いだろうが、ビジネスに役立たないSFもあるし、そもそもSFはビジネスに役立つためにあるものではない。繰り返すが、大事なのは順番。(私はSFの可能性も、SFプロトタイピングの可能性も、ともに否定するわけではない。)(2022年11月5日シミルボン投稿)

追記(2024年6月17日)

荒木優太が自身のYouTubeチャンネルで「教養とはむかしから出世(世俗での成功)と結びついていた」と指摘し、本書『ファスト教養』は何も現代的な現象ではないと批判していた。なるほど。言われてみればその通り。ただレジー『ファスト教養』が「教養としての○○」を羅列していることからわかるが、現在、なんでもかんでも教養になりえる。これは、過去にはなかったことではないか。現代で何が教養になり得るかというと、市場でマネタイズできれば教養と呼び得る(少なくともインフルエンサーが)。となると、かつては金を稼ぐために教養を利用していたが、今では金を稼いでいるものを教養と呼ぶようになった、と言えないだろうか。かつては教養的価値は市場原理とは別のものだと、すくなくとも建前上は言い張っていた。市場原理と別だが、教養は金に「も」なるので、教養を金儲けのために利用することは頻繁にあったとして。他方、現在は、教養かいなかは、儲かるか儲からないかで、判断されている。という話。ものすごく広げて薄めれば、貴族がブルジョワジーに取って代わった、ということか。あるいはテリー・イーグルトン『文学とは何か』で、文学が制度的なイデオロギーとして「発見」されたのは中産階級の勃興によって、階級的不安が高まったから、という話ともつながる気がする。

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