評論家は何をする人なのか――辻田真佐憲『超空気支配社会』(文春新書)

さいきんSF評論家を名乗っている。評論家には医者や弁護士や教師のように免許があるわけではない。自分で名乗れば評論家になれる(はず)。だから問題は、評論家とは何を提供する仕事であり、自分がそれに相応しいかどうか、という二重のチェックをクリアしているかどうかだ。名乗っておいてアレなのだが、評論家が何を提供するのか自分でもイマイチわかっていない(いなかった)。

評論はアカデミズムとは異なる。でもアカデミズムの知見は参考にする。文体・媒体はマスに開かれている。難しいこともいう、でも面白いこともいう。つまり、難しくて面白いことをいう。評論は「新しい価値」を提供する。なんとなく、そんな定義を自分ではしていた。で、自分がそのような「新しい価値」を提供できているかどうかはともかく、本も出すことになったので、肩書きあったほうが話が早いだろうということで「SF評論家」と名乗るようになったのである。

という前置きはさておき。辻田真佐憲『超空気支配社会』は、ウェブや雑誌で2014年から2021年に発表された時事評論をまとめたもの。オリンピック、コロナ禍、安倍・菅の両総理大臣を経た今読むと「答え合わせ」とも読めなくもない。そしてその「答え」がけっこうあっているように思うのは私だけではないのではないか。辻田の評論は鋭いのだ。

なぜだろう? それは辻田が評論家たらんとしているからではないか。「右でも左でもなく」と彼はいう。これはネットでは中立を装う主に右の人が好む文句だ(類語に「ふつうの日本人」もある)。どこかの政党もよく好むこのフレーズは、中立を自称することで自分を批判するものを党派へとくくれる「バリア」のように機能する。これはスタンリー・フィッシュの透明性論でも指摘されていた(‘Transparency’ is the Mother of Fake News)。本当の中立など存在し得ないので、さきに「中立」を自称したもん勝ちになってしまう。

もちろん辻田はそのような空虚な「右でも左でもない」にのっかるわけではない。現在、SNSを中心に吹き荒れている「Aか反Aか」の党派的な争いから距離をとり、ひとつひとつの問題に向き合う態度として「右でも左でもない」を唱える。そもそも私たち人間は不完全な生き物で、全部のことを知って全部のことに満足して決断することなどできない。人生はあまりに短い。不完全な生き物は、それでも不完全なりに考えることをするわけで、その時の参照点となりうるのが評論家が提供する「総合知」ではないのか。アカデミズムの専門知とも異なり、狭いコアなファンのみに迎合した党派的=劣化した評論とも異なり、「右でも左でもない」総合知としての評論。

なるほど。具体的には? それは本書に書いてある。本来的な「右でも左でもない」を貫くには、まず右(保守)とはなにか左(革新)とはなにか、という歴史的な知識がなければならない。歴史化=現在の相対化の視線があってはじめて「右でも左でもない」が可能になる。教育勅語を暗唱させる某幼稚園は「戦前回帰」ではなく戦後の保革対立を前提とした「戦前のコスプレである」というのは評論家としての指摘といえる。あの理事長があっちからこっちに180度変わったことも、なんのことはない「コスチュームを着替えただけ」とも言える。

辻田の本を読むと、評論家も大変であることがわかる。(当たり前か)自分でSF評論家と名乗ってみたのだから、もう少し自分なりに「評論とは?」と言語化した方が良いな、と強く思ったのであった。(2021年9月4日)

追記(2024年7月10日)

辻田真佐憲は以前からぽつぽつと著作を読んでいて、『「戦前」の正体』も面白かった。しかし、何より面白いのはYouTubeでの活躍である。最初はポリタスTVの辻田回から入っていったのだが、辻田自身のチャンネルもあり、「君が代」回なんてげらげら笑いながら見た(聞いた)。動画だから文章より質が劣るなんてことはなく、本を何冊も書けるリサーチをしているからこそ中身のある動画になっているので、面白く&ためになる。本はなあ…と言う人でも、動画ならどうだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?