テレビ時代のリアリティとは?ーー筒井康隆『48億の妄想』(文春文庫)

「放送開始以来二十三年、カラーテレビは普及し、人間にとってテレビは、空気や水と同様の生活必需品になっていた。そしてテレビを見ることは、呼吸や食事同様の自然な生存方法だった。五百六十万台のアイが日本全国にばらまかれた。しかし、だからといって、テレビに出たいという人間の数が低下することはなかった。」

本書より

筒井康隆のデビュー長編。1965年の作品。テレビ時代に突入した私たちがリアリティを変容させた/させていく様子を、時にバカバカしく時にグロテスクに、とにかく執拗に描き出す。特徴的なのは「アイ(カメラアイ)」という小型カメラが全国に配置され、政治家や有名人、事件・事故が即座に中継されるようになったこと。これにより、人々はカメラアイを意識した振る舞いをするようになる。たまにカメラ目線になり、リアリティがないとテレビ局員に判断され、カメラが切り替わることもある。一方、事件・事故の再現ドラマは、現実以上に演出され、もはや捏造の域である。しかし、スタッフが迫真の演技をすれば、それはそれでまた別のリアリティが発生しているわけで、視聴者は満足し、視聴者が満足すればテレビ局員も満足する。

面白いのは、テレビとテレビ局員に権力が与えられていることだ。大衆の欲望をイメージ化するテレビ(局)は、大衆をバックに政治家に迫る。もっとも、政治的な主張があるというよりも、ただただ面白いものを見たいという欲望に忠実なだけだ。これは現代風に言い直せば、アテンションエコノミーの先兵である。テレビ局員では、大衆の欲望をコントロールすることなどできないのだが。

事件をありのままに伝えること。そんなことはできるのだろうか? 「もう何十年も前から、そしていつの世でも、マス・コミュニケーションの第一の理想と、大衆の第一の要望とは、不思議に一致していた。それは事件と報道との同時性だった」 テレビは事故をその瞬間に報道したい。だからカメラアイをばらまく。もし、肝心なシーンをアイが撮り逃していたら、本物より本物らしく再現すれば良い。だいいち、アイが事件そのものを運よくとらえていても、それをただ放送するだけでは「報道」にたりない。「事件と報道の同時性」とは、大見崇晴が「テレビリアリティ」と呼ぶものと共鳴する。

筒井康隆が露悪的に描き出すテレビ時代のリアリティは半世紀たった今でも面白く読めるが、今やインターネット時代に突入していて、さてこの時代にネット的リアリティとはどんなものかと、私は考えるのだった。


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