大学ってなんだ(その3) ゼミ編

おそらく完結編。

私のいた大学の文学部は1年次は専攻に分かれていない。一般教養と専攻に関係する講義をとって2年次の専攻を決める。人気のある専攻だと選考があったようなかったような。私は英米文学に進み、2年次は専攻の必修選択を中心に講義をとっていく(アメリカ文学史、イギリス文学史、古英語、英語史、現代英語学、原典購読など)。で必修選択とりながら所属するゼミを考える。3年4年の2年間でゼミで卒業論文を書く。ゼミはおおきくアメリカ文学、イギリス文学、英語学に分かれていた。私はアメリカ文学のゼミに入った。

ゼミは週1回、学生が研究を発表し、教授、院生(参加していれば)、上級生・同級生が質問する。1回の授業で2〜3人が発表していた。発表して、ディスカッションして、論点を整理し、論文に生かすという流れは、卒業論文をアウトプットすることをゴールにしたときにそこから逆算して設計されていた。といまなら思うが、当時は、よくわからなず見よう見まねでやっていた。参考文献(ビブリオグラフィ)の記載方法の指導をやたら受けたが、自分の論を組み立てるには先行研究抑えないことにはどうにもならないのだと気がつくのにも、これまた時間がかかった。このへんのアカデミック・ライティング(の作法を含めた)スキルは学部と修士の4年でそれなりに身についたと思うし、その後も役に立っている。

で、ゼミは自分にとってどんな場所であったか。第一に、へんな先輩がたくさんいた場所であった。特に大学院に入ってからは、まーみなさん頭が良い、そしてまーみなさんへんだった。「へん」というのは「良い意味で」というのを急いでつけるが、つけたところでどうなるか。まあ、へんだったな。テキストを読み、要約・発表し、それに基づきディスカッションするという一連の流れは自分に大変あっていたので、なんというのだろう、知的バトルというとちょっと不穏な感じもしなくはないが、要はプロレスだった。もちろんちゃんと準備をしてこないと、大怪我をする。かといって、ハッタリという名の知ったかぶり(読んだ振り)がまったく禁止されていないわけでもない。(見破られていたとは思うが)この手の技も使った(し身についた、そして今でも役に立つ…)。

最初の大学院ゼミに参加したとき、ある先輩が延々と自説を論じ始め、終了のチャイムがなったところでさらにスピードをあげはじめたのにはびびった。修士の2年間で大学院を辞めた(退院した!?)のはひとつにとっとと働き出しだいというのがあったは、もうひとつに自分自身が誰かを触発するような「へんな人」になれないなあ、と思ったからでもある。

ゼミの人とはよく遊んだ。主に、酒飲んだ。酒飲みながら、文学の話ができたので、これは非常に幸せな時間であった。学生なので自分の研究の話をするのは当然といえば当然だが(文学以外の話もしたんだけど)、酒飲みながら文学の話することって、大学を卒業した今となっては実はあんまりない。私は文学が好きで文学を研究していたわけだが、それについてどれだけ話てもOKという環境は、やはり大学(ゼミ)なんだなあと思う。

3人で飲んでいて、その時とっていた哲学の講義で勉強していた現象学の話になった。「東京タワーが自分に見えるというのはどういうことか?」を90分かけてていねいに話すその先生は、他大から出講している先生で、とにかく雰囲気が「哲学の先生」っていう感じで好きであった。「東京タワーが見えるというのはどういうことだろう?」とチェーン店の居酒屋で、終電過ぎの酒を飲んでいたゼミ仲間に私は力説した。そしておそらく、そのまま、歩いて東京タワーに行った。
そうなのだ私の大学からは東京タワーがみえ、歩いていっても15分くらいで着く。昼にもいったし、夜にもいった。東京タワーには登らず、ただ近くをうろうろして、ぶらぶらして、帰るだけだったが。だから哲学の先生も例として東京タワーを出したのだろう。朝まですることもないので私たち3人はたらたら東京タワーまで歩いたのだった。「東京タワーが見えるというのはどういうことか?」

でも、この記憶は混濁している。ひょっとしたら別の日に、別の誰かと行ったのかもしれない。卒業してもう15年以上。楽しかったことは覚えいてるが、たいていのことがそうであるように細部が思い出せない。エピソード的な断片はいくつも浮かんでくるのだけれど。そしてそのエピソードは、必ず場所と分かち難く結びついている。私の大学での経験はディスプレイの向こうにあり、それはとても幸福なことであった。大学はもちろん研究する場所で、学生も研究する(勉強ではない)。そういう目的をもった場所なのだが、その目的自体が脱臼されつづける。目的と手段が容易に脱構築されていく。というか、本質的に学問というのはそういうものなのだろう。目的と手段が変化し入れ替わり続けるなかで、変化しないものがあるとしたら、それは場所だ。「後期もオンライン」の可能性が高まり、一部の学生たちは「キャンパスライフを取り戻したい」と訴える。講義をオンラインで提供しているから、問題ないのだろうか。あるいは、学生たちの考えるキャンパスライフが、研究的なものではない、大学のそもそもの目的と合致しないからといって、むげにしてもいいのいだろうか。

どうしたもんだろうか。コロナ禍は収束しそうにもない。


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