落とし穴は僕を知らない

穴に落ちたことがないから、僕は挫折という単語を、単語としてしか知らなかった。

裕福でタワーマンション最上階の一つ下に住まい、小学校は公立に通ったけど、市井を知るべきという父の考えだったらしいけど、僕には『住む世界がちがうんだよな』なんて思う日の繰り返しだった。

中学からは大学までの一貫教育を受けられる場所。勉強にあまり自信はなかったけど、父と母は自信満々で『ぜったいに落ちないから安心しなさい』などと言う。
僕もバカではない。でも、バカじゃないからこういうときはバカなふりをする。
『絶対なんてあるわけないだろ。勉強してくるよ、父さん母さん!』

そんで、ゲームをしているうちに、入学が決まった。僕の人生のレールは生まれたときからガタンゴトン前進をする。うまくいくよう、うまくいくことしか、道がない。

あの女に再会したのは、大学を卒業するころだ。付き合っている彼女もいて、社長令嬢で、僕の父の会社と彼女の父の会社はそのうちに合併するんだろう。彼女とは、父が僕を誘ったパーティで出会う……いや、お膳立てをされて、たまさか運命の人だった、という演出をされてお見合いをした。

特に不満はない。彼女は裕福なだけあって美人だし身だしなみも所作も完璧だ。僕の住む世界の住民、そのものだった。

あの女。

小学校でたまたまずっと同じクラスになった、あの女。

最終学歴がどこまでかは知らないけど、大学は出ていないだろう。パーティのケータリングでやけにうるさい怒鳴り声がして、ふり返ると、あの女をすぐに思い出して気がつくほど、女は真っ青な顔で震えていた。

叱られている女に、なにを思うのか、僕は仲裁に入った。正しいのか、正しくなかったのかは、そんな評価はもはや僕には無理だ。

あの女は僕には気づかなかった。腹立たしい女だ、と、思った。
次のパーティのケータリング会社は、でも同じ会社に、同じ部署にしておくよう、部下に告げた。

あの女はもたもたゆるゆる鈍臭い。見ているだけで頭痛がした。そう、この感覚。なつかしい。

どうしてか、僕は、あの女を囲うためのマンションを空き時間ごとにスマホで検索するようになった。あの女、彼女、父母、誰にも相談していない。ただあの女にはそのうち言うことになるだろう。

断る?
そんなことは、させない。

僕をイライラさせるんだから。
責任を取ってもらうのだ。その人生、すべてで贖って。僕の為に捧げてもらう。住む世界の境界線を先に踏み越えたのはあの女。あの女のことだから、おそらく早死にする。その前に片付けなくては。あの女を檻にいれておかなくては。

僕は準備をすべて終えて、あの女に電話した。あの女はひどく驚いたようすで、しかし僕の誘いに応じた。
ほらな、と勝ち誇れた。あの女はもう消えることなどできず僕の囲いのオモチャになるのだ。ざまあみろ。僕をイライラさせるから。

週末、会員制の旅館にて、あの女の職場解雇と、新しいカギをやった。僕のカギだ。あの女は、それはもうリスみたいに驚いて、くちをあんぐりさせた。バカな女だ。

本当に、バカなことを言った。やはり住む世界が違う、程度の知れた会話だった。

「し、篠崎さん、も、もし、もしかして、あた、あたしンこと、好きなんです?」

「そんなワケある訳無いだろう」

僕は、即答した。
事実に過ぎない。


END.

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