人魚屋敷

地元の文献を調べると300年前には町は今ほど発展していなかった。町はずれには、よそ者などがポツポツと家を建てて、勝手に住み着いていたそう。そのうちの一家族の呼称がちょっと異常で僕は黄ばんで乾いた登記書をめくる手が止まった。

『人魚屋敷』

誰かが走り殴っている。震える手で衝動的にペン先を紙にひっかけた感じがあった。僕は、その住所を確認して、200円を払って司書にそのページのコピーをこさえてもらった。図書館からそう離れていない。1時間ほどのバス移動で蛇生道通りにでて、5番地の私道にお邪魔して古い登記書のコピーとスマホアプリの地図を重ね合わせて確認する。

今は、知らない家と家の間の数センチのすきまとなっている場所。ここが『人魚屋敷』があった場所らしい。

300年前に。

なんで人魚屋敷なのか、どうしてこの屋敷が村人から忌み嫌われていたのか、今となっては知るすべがなかった。たがたが50年もすれば記録の大部分は時間によって錆びて虫食いになってしまう。それが300年も前だ。紙の記録が、かろうじて残っていて、さらに記録係による悪口が一緒にメモされていたこと自体、奇跡なものなんだろう。僕は茫然とただ立ち尽くして数センチのすきまを見つめた。

蛇童(みどう)遥(はるか)が、僕の婚約者が消えてから、もう半年は過ぎただろうか?

遥は僕に告白をしてきて、僕としては遊んでる女の子もたくさんいるもんだから、曖昧な返事に留めて彼女もガールフレンドに加えようとした。遥は、変わった子だった。雰囲気が神々しいというか、妙に神憑りな言動を突飛に表すことがあった。

「今日はクラブ行くなら終電までには帰ってきて」

「朝、米を食べなよ。今日はパンを食べたら危ない日だからさ」

「弓鶴くんのともだち、アレ、あのひとだけは相性が悪いでしょ。仕方がないんだよ。血がちがうから」

言い換えれば壊れた電波を受信した、怪しいひとだった。でも僕は女の子に慣れてたからこんな変わり種もおいしくいけた。そこは、自分でもすごいなと思うところ。

蛇童遥は、再び、本気で僕に告白を持ちかけた。僕はどうしてか遥の不思議な魅力が気がかりで、婚約を承諾した。僕たちは結婚する。はずだ、った。

遥は、結婚が決まると、声がだんだんでなくなった。自分の喉を抑えて唇を震わせて沈黙する。内科医、心療内科、神経科、果ては遥は動物病院の先生まで訪れて病原を突き止めようとした。そうするうちに、遥は言葉を失った。そして、ある夜、3週間ほど前に、声なき絶叫をあげてもんどりうちながら泡になるように姿が掻き消えた。キラキラした粒子を残して夜のマンションから跡形もなく消滅した。僕の目の前で。

僕はパニックした。遥のかばんを漁って手帳を見つけて、メモの電話番号に電話した。はじめて話す、遥の母。遥の母は、混乱して泣きじゃくる僕の情けなさや訳わからなさに同情しながら、遥が見せてきたような、超常的な達観と諦めをその溜め息に込めて漏らした。

「それじゃあ、娘は本当に好きになったひとと結婚しようとしてたのね。ダメと言ったのに。うちの家は、本当に相手に惚れてるんなら、結婚したり体の関係をもったり、本当の気持ちを叶えちゃいけないんのよ」

わけが、わからなった。

わけがわからない。

茫然として滂沱の涙を流す僕に、遥の母がつぶやく単語が、ナイフのように突き刺さった。

「私ら、人魚屋敷から産まれた子どもたちだから……」

「遥のこと、残念ね。ごめんなさいね。遥を愛してくれてありがとね」

電話が切れる。僕は、膝をつき、全身を震わせて遥の消えたリビングに一人ぼっちで取り残された。

それから、遥の母親や家族とも実際に顔を合わせた。この辺りに住んでたことを教えてもらった。そして、登記書。『人魚屋敷』の陰口。消えた婚約者。『人魚屋敷から産まれた子どもたち』。


この話はここで終わる。これ以上は、なにも手がかりがなく、なにもわからなかった。

300年前に、一体何があったのか、人魚なんてものが実在するのか、なんで子どもが生まれたのか、なんで。なんで。なんで。

『人魚屋敷』

僕は、お爺さんになっても、この不条理が形を成した怪奇現象の仮名を決して、忘れられないだろう。



END.

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