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「みそひともじ」と6月のまとめ。

 無彩色の薄いカーペットが吸収する足音。天井に届きそうな本棚の所々で生じる木板を摺る音。筆記具が机を滑る音。紙と紙が優しくこすれる音。それをめくる音。控えめな言葉の交差。弦を張るような少しの緊張に身を任せ、私はここにいる。通い慣れているはずなのに、不思議と浮ついた自分を見つけるのだ。しかし彼は対照的にこの空間の一部となっていた。例えば、ここは学校の図書室で、彼はそこに置かれた「分厚い本を捲る男子生徒」の絡繰人形で、毎日、この時間、象牙色に塗られたコンクリートの壁と窓際にもたれながらこの席に置かれている。私は、スマートフォンの画面、彼、という天気のような曖昧さでふたつを交互に見ていた。今日はカーテンが閉めてあるので窓の向こうの桜の木も、その向こうのボールを追いかける男子たちも見えない。遠くから空気が駆け寄ると、砂の匂いを運びながらカーテンを膨らませ彼にまとわりついた。そして、悪戯に誰かの開かれた本を捲っていった。
 彼が本を閉じた。前屈みだった姿勢を正しながら表紙を覗くと、視線に気づいた彼が神話の話だと教えてくれる。星座にまつわる話だと。そして満足そうに背表紙を撫でながら、何か知っている星座はないか尋ねた。私は夜空を思い返す。
「オリオン座。オリオン座なら知ってるし、見つけられる。」
「いいね。それも書いてあるよ。」
本をぱらぱらと捲り、机の上でくるりと回して私の前へすべらす。ほら、と小さく言葉を漏らしながら、彼は自分の世界に私を巻き込む。
「オリオンには恋人がいましたが、彼はその恋人の兄に嫌われていました。ある日、オリオンの恋人は、兄に遠くの石を弓で撃ち当てるよう挑発されました。彼女はそれにのって矢を放ち見事命中させましたが、それは実はオリオンの頭だったのです。オリオンの恋人は兄に騙されてオリオンをころしてしまいました。」
彼のあどりぶ込みの読み聞かせに、私は「なんて無茶苦茶な。」と肩をすくめた。
「神話ってそんなもんだよ。」と彼は微笑する。
スマートフォンでオリオン座を調べる。彼の言う通り月と狩りの女神アルテミスという恋人にそんな殺され方をした話が出てきた。他にもさそり座と仲が悪い話もある。何を読むでもなく検索結果を眺める。
「オリオン座流星群ってのもあるんだ。」
「ああ、あるね。今くらいが時期じゃないか。」
「そうだね。すごいよ、今日だって。」
「へえ、それはすごい。今日か。」

 インディゴの空にクロマツがこれでもかというほど傘を広げている。私たちの背丈が今より半分の頃、地に広く深く捩じ込められたようなこの根っこをひとつの遊具としてバランスを取りながら駆け回ったり、力一杯に幹を蹴り上げながら高くへ登った。それをしなくなったのは遊び方が変わったからだけではない。いつの間にか、松の足元がポールと鎖でぐるりと一周囲われたからだ。この立派なクロマツを誰かが保護しようとしている。私はこれ以上に美しい松を見たことがない。思い出と少し景色が変わる寂しさはもちろんあったが、愛着あるものが大切に扱われている便りのようでとても嬉しかった。同時に、私自身も私には見えないものにいつも守られている、ということに気づいた。松も町の人々も悠々と私たちがこの土地と体で交わることを見守ってくれていた。何もないこの町がすきだ。
 彼はその松の隣でひとつの街灯を頼りに文庫本を読み進めていた。これは彼の悪い癖だ。どれだけ人に目が悪くなると注意されても一向にやめない。このせいで眼鏡のレンズは分厚くなっているのはわかりきってるのに、いつもは物分かりがいいのに、これだけは頑なに認めない。
「本!目が悪くなるよ。」
声をかけると彼はこちらを見て、文庫本をズボンのポケットにしまった。
「そんなことないよ、街灯が明るいし。結構薄着で来たんだね。大丈夫?」
やっぱりと思いながら、私は「平気。」と返した。
 夕方の図書室で私は「オリオン座流星群って、オリオン座の星たちが流れていくということ?オリオン座はどうなっちゃうの?」と聞いた。彼は少し考えたあとで、本を閉じてにんまりとして言った。
「じゃあ、確かめに行こう。」
 待ち合わせの場所から離れるにつれ、街灯は間隔を空け、ぽつんぽつんとあった一軒家も無くなっていく。黙々と歩く、畑と田んぼの間を、虫たちの声に耳を傾けながら。図書室と違いここに緊張はない。草の香りの風が首元を通り抜ける。ひんやりとくすぐったい。明るさが遠のくのに、空はだんだんと青みを増し、てっぺんはオリエンタルブルーに澄んでいく。お楽しみを後にする為、私は夜空からなるべく目を逸らして彼の後ろを歩いた。
「この辺にしよう。」
 真上を見上げる。てっぺんから澄んだオリエンタルブルーが広がり、家々が並ぶ裾にはインディゴが染みている。駅の辺りであろう、そこだけが酸化したかのように赤みを帯びていた。星たちは洞窟の宝石のような色味で、ふるふると光を放っている。3つの星が直線に並んでいることに気づくとそのまま私の誕生石のトパーズも見つけた。オリオン座の左肩だ。毎日ここにあるはずなのに、今日は何故だか自分のために用意されたように思える。そのとき、視界をすっと白い線が横切り一瞬で消える。
「流れ星!」
思わず、声が出る。
「始まってるみたいだね。狩人オリオンの健闘を祈ろう。」

 およそ2時間、狩人オリオンは星のにわか雨を浴び続け、一度も体勢を崩すことはなかった。恋人のアルテミスを待つべくそこに立ち続けた。強い男である。私はその間に、どうやらこの雨はオリオンのあたりでのみ起きているようだと気づいた。彼にこの発見を知らせると「正解だ。」と喜んだ。オリオン座は私たちの夜空の目印だったのだ。
空を見上げたまま彼が私に言う。
「流星は 宇宙で塵が 燃えていて、僕らはごみを 観にきてるんだ。」
「塵が燃えるって?星じゃないの。」
「宇宙を漂う塵たちが地球が持ってる空気の壁にぶつかって燃えるんだ。僕たちは今それを見て喜んでいたんだよ。」
綺麗だと見惚れていたものの正体がそんなものだったと知り、少しだけがっかりした。でもそんなものがこんなに綺麗だという事実と、これをこれまでの長い時間に多くの人が愛でてきたであろうことにじんわりとした嬉しさもあった。
彼は立ち上がりながら言った。
「綺麗だったね。それに久しぶりにふたりでこの町を見た気がする。」
服で手をはたき、腰を下ろしている私に手を差し出す。私はそれを強く握り締めた。掌と掌の熱の衝突、微かな脈動、それらを確かめるように感じていると、ぐっと全身を引き上げられる。二本足で体を支え、私たちは軽やかに何の意識もなく手を離した。そして、私だけが大気越しにもう一度その手を握り直す。
「楽しかったね。」
「楽しかった。」
 再来年には、私たちは別々の人生を始めることになる。というか、最初から人生は別々なのだけれど、そうじゃなくて。進学を機にこの土地を離れるのだ。この土地が、この時間が、この関係が、思い出に変わる。その地点が確実にあることを不意に思い出した。頭を振って思考を散らす。
「よし、帰ろう。」

 クロマツのことを思い出して「本、今日は何読んでたの。」と聞くと、彼は「今日は内緒だよ。」とまた微笑した。
「なにそれ。」
「そういう日もあるってこと。」
「つまんない。そういえば書いたりしてないの。前は書いてたじゃん。」
「受験あるし、さすがに勉強しなきゃ。それに僕は書く才能は全然ないんだよ。僕は平安時代じゃモテないし、夏目漱石にもなれないよ。」
「夏目漱石には、なれないよ。」
そりゃそうでしょ、と笑う私に、「そうなんだよね。」と彼も笑った。
 叙情的に描かれる半球体で月とオリオンが重なる。私たちは赤錆色の空に向かって帰っていく。今日が閉じていくのを確かに感じた。

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友人から、宇宙というテーマをもらって書いたフィクションです。
今回は推敲する遊びを覚えました。たのしい。
出来栄えはともかく、気に入っています。


以下6月のまとめです。

いとめちゃんお誕生日🪅🪅
海に走る
友達と文春川柳
ロブスター(映画枠)
ヒューマンボイス
31年目の夫婦喧嘩
ファンタスティックビーストダンブルドアの秘密
パプリカ
恋する惑星
新城市

実は具合悪いなどで寝つぶしてあんまり行動できてないけど、7月からは改めてガンガンお出かけするぞ〜!
かりねこもたくさん動く!よしなに!(今日の文春川柳もめちゃくちゃ楽しかった、ありがとう〜!!!!)

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