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自殺した魂は救われるという希望

この記事は自死遺族体験が含まれます。センシティブな内容のため、無理のない範囲でお読み下さい。また、死後の世界やスピリチュアルについて記載があります。あらかじめご了承下さい。


“自殺した人の魂は救われない”

という言葉を、よく聞きます。


“自殺したら、ラクになれるどころかもっと地獄が待っているから自殺はしない方がいい”

とも、聞きます。

たしかに、そうだろうなと思います。


けれど一方で、自死遺族としてはこうも思います。


せめて死んだあとくらいは、ラクになってほしい。

自殺した人の魂であっても、救われてほしい。


それは、亡くなった人が死ぬよりもつらい思いを抱えていたということを、

本人の死によって思い知らされたからです。


そこには、自死遺族として“贖罪”や“懺悔”にも似たような苦しみがあります。



同じ家族でも共有できないつらさ


「安らかなお顔をされていますよ」

姉が自殺したとき、姉の死に顔を見た納棺師の方に言われました。

それは、気遣いからくる言葉だったのかもしれませんが

私はどうしても、そう思えませんでした。

姉は眠っているようでしたが、

なんとも苦しそうな顔をしているな…

そう、私は思っていました。

もちろん、私の主観が入っての印象ではありましたが、

“安らかな顔”には、とてもじゃないけど見えなかったのです。



姉の遺影をどれにするか選ぼうとしたとき、

母が「これがいいんじゃない?」と見せてきた写真に写っていたものは、

全体的に疲れ果て、それでも懸命に笑顔をふりしぼっている姉の姿でした。

…これが遺影?本当にそう思ってんの??

私は、あぜんとしました。

確かに微笑んではいますが、目がうつろで全然笑っていないのです。

やせ細って疲れきった、別人のような姿なのです。

結局猛反対したのち、私が選んだ写真が遺影に決まりました。

同じ自死遺族なのに、こんなにも感覚が違うのか。

私は、心の中でがく然としていました。


姉が亡くなった後に感じた“浮世離れ”感の正体


身近な人の死を経験すると、なんとも言えない感覚に襲われます。

それまで絶対だと思っていた“生”が、いとも簡単に失われることに直面させられ、なんとも言えない恐怖を刻み込まれます。

私は姉の死を経験してからというもの、どこか自分が世間から切り離されたような感覚でいました。

“生”が当たり前の社会にいると、どうしても違和感を覚えてしまうのです。


なんでそんなくだらないことで笑えるんだろう。

なんでそんなどうでもいいことで怒れるんだろう。

もっと大切なことは他にあるのに。

まわりに対して、そんな風に思っていました。

自分がひどく世間から浮いたような感覚に襲われていたのです。




そんななか、NHKの100分de名著という番組に、ハイデガーの『存在と時間』が取り上げられているのを見ました。

そこで、“世人”という言葉が使われていました。

世人とは

わかりやすく言うと「世間」、あるいは、その場の「空気」のようなものに近いと思います。 誰かにはっきりとそう言われたわけではないけれど、何となく「みんなもこうしている」「こうしたほうがいい」という規範をもたらすもの。それが「世人」です。

NHKテキスト 100分de名著 ハイデガー『存在と時間』より引用

とあります。

“みんな一緒でみんないい”
“赤信号、みんなで渡れば怖くない”

みたいな意味なのかなと、個人的に解釈します。

基本は、世の中の人はみんな“世人”だそうです。

それが、大きな病気にかかり余命が宣告されるなどして、“死ぬこと”が自分の現実に差し迫ったものであると認識したとき、

人は“世人”ではいられなくなります。

つまり私たち人間は、自分の死と向き合うことを通じて、初めて自分を「唯一無二の存在」として理解することになる、ということです。自分の死の可能性を前にしたとき、私たちはもはや、自分が他者と交換可能な存在であるとは思えなくなります。

NHKテキスト 100分de名著 ハイデガー『存在と時間』より引用

自分の人生をどう生きるのか、自分が何のために存在しているのか、という問いへと私たちを誘う、この死の可能性に直面することを、ハイデガーは「先駆」と呼びます。

NHKテキスト 100分de名著 ハイデガー『存在と時間』より引用


私は、自分自身の死に直面したことはありません。

特に大きな病気にかかったこともなく、抑うつ状態に陥ったときも死にたいとまでは思ったこともなく、それまで死を身近に感じずに生きてきました。

しかし、

姉の死を経験したことで、ある種間接的に・・・・死の可能性に直面しました。


そこで、ふと、

私が感じていた“浮世離れ感”は、この間接的に死の可能性に直面したことが原因だったのではないか、

身近な人が死んだという経験が、自分が世人であると自覚をもたらしたのではないか、

そう思うと、とても腑に落ちる感覚がしたのです。



自殺した魂は救われるかもしれないという希望


自死遺族には、さまざまな苦しみがつきまといます。

同じ家族の死を経験しても、そのとらえ方はそれぞれの関係性によって違ってきます。

そこに、家族であっても完全に共有しあえない寂しさがあります。


また、身近な人の死を経験することで、世間から切り離されてしまい、

なんとも言えない孤独感を覚えます。

覚えるというより、突然やってきて持たされる・・・・・といったほうが正しいかもしれません。

世の中がこんなに平和で明るいのに、自分だけやけに真面目で深刻で、まるで自分の頭がおかしくなってしまったように感じてしまう。


けれど、そうではないのです。

それは、自分が“世人”であることを自覚したにすぎなかったのでした。

(※厳密に言うと、自分自身の死が差し迫った状態でないと“死への先駆”とは言えないそうなのですが、身内の死によって、世人であることの気づきは少なからずもたらされるのではないかと感じています。)



そんな気づきを得るなかで、最近ある動画に出会いました。

その動画では、人は亡くなった後に霊界にとどまると紹介されていました。

そこで何をするかと言うと、遺された人たちが何を感じどう生きるかを見ていて、そこでもまた学び続けるというのです。


これは、私にとっては驚きでした。


つまり、亡くなった人の魂は霊界にとどまり、その間に生きている私たちの行いを見て、学んでいるというのです。


私はその動画を見て、

“ああ、姉が亡くなってから考えてきたことは、無駄じゃなかったんだ”

と、思えたのでした。


姉が亡くなってから自分が感じたことは、もうすべて手遅れで、無駄で無意味なものだと思ってきたからです。


しかし自死遺族の思いが、亡くなった人の魂を救うことになる。


目から鱗でした。




たとえ事実ではなかったとしても、自死遺族にとってはこの考えが少なくとも救いになると思うのです。

そして、自死遺族にとって救いになることは、少なからず亡くなっていった人たちにとっても供養になると思うのです。



つらかったんだね。

苦しかったんだね。

寂しかったんだね。

その気持ちが、亡くなっていった人の魂を癒し、救うのではないか。

なにより、この考え自体に私自身が救われた気がしました。



おわりに


つい最近、夢に姉が出てきました。

そこで、私はしみじみと思いました。

“ああ、私たち家族は、姉の心の拠り所になることはできなかったんだ”

と。


それは家族としての責任放棄のように聞こえるかもしれませんが、

姉の死に対して私自身がこれまで感じてきた、“憤り”や“怒り”や“悲しさ”に対する、一つの答えなのではないかと思うのです。

そしてその答えもまた、救いや供養の一部になるのではないかと思っています。





公開するタイミングがつかめず、書き終わってから3カ月経ってしまいましたが、

ちょうどお盆のおわりなので、公開します。

この記事がどなたかのお役に立てれば幸いです。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました🍀




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