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へっぽこお遍路日記53「結願。経験とは、見ている世界に自分の思いが刻み込まれること。」

1月14日 23.6km まわったお寺87番札所〜88番札所(結願)

4時半に起きてサッとパッキングを済ませ歩きはじめる。ちょうど国道のところにマクドナルドがあって、そこでブログを書きながら朝食を済ませ、明るくなりかけた町を歩きはじめた。

地図で見る限り、山道に手こずらなければ今日88番札所の大窪寺まで辿り着けるだろう。いよいよ2ヶ月歩き続けた道のりが区切りを迎える。

南に向かってまっすぐに伸びる県道は通学路になっているようだ。待ち合わせをしている小学生、遅刻しそうなのか一心にぺダルを漕ぐ男子学生。左側の山には線路とともに、山を切り崩したのであろうオレンジタウンと書かれた住宅地がある。きっとニュータウンとして開発されたのであろう、その前には池があって、ちょうど住宅街の先にある山から出てきたお日さまを写してオレンジに染まった。

遍路最後のお寺となる88番札所までは20km以上先。山のなかにあってそこからまた町まではしばらく距離があるので、適当なところにあるコンビニで2日分の食料を買い出しておいてからまた歩く。だんだんと山へ向けて登っていって、目の前にダムが現れた。ダムの山側と、ダムの湖面に沿う国道と道が分かれているようだ。最後だもの「道は険しいが絶景ルート」と書かれた山側のルートを選んだ。

車とはすっかり離れて、静かなダム道路を抜けた先に小さな集落があって、そこから山道に入った。最後の大窪寺も標高が高い。しばらく登っていくと雪が残っていた。


静かに。静かに。山道を登っていく。道には誰もいない。

唯一の人気といえば、雪道について誰かの足跡くらいだ。今日大窪寺に向かった人がいるのだろうか、それとも数日前のものだろうか。特徴あるカタチをしているソウタの足跡は見当たらないから、きっと彼はもうひとつの道を歩いているのだろう。


最後は鎖をつかみながら体を押し上げるところもあって、最後の遍路道にふさわしい景色と道のりだったと思う。頂上から、整備されている山道をくだっていくと、遠くに集落が見えた。ずっとそうしてきたように、下り坂は慎重に足を置く場所を選んでくだる。荷物が重いから、下りのほうが体を支えるためにふんばらなくてはいけないのだ。

よくもまあここまで足もくじくことなく歩けたものだと思う。靴じゃなくて草履だったからだろうか。靴と違って、足をななめのまま、おろして踏ん張ることができないので、草履はほんとに足の置き場に気を使った。ソールもやわらかいので岩のとがったところに足をかけることもできないから。

年をまたぐころにはすっかり丈夫になっていたと思っていた足も、ここしばらくはずっと足の裏がジーンとしびれるような感じで、どちらかというと騙し騙し歩いてきた感じだ。僕の足が貧弱だったからか、それともこの荷物と草履では限界だったのだろうか。

旅や何かへのチャレンジでは、自分ができる最善の準備をしてきた。旅をともにする道具だから、なるべくカラダを助けてくれるものを。けれども今回は、これまでとは違った旅のつくりかたをした。

コーヒーの道具も、身に付けるものも、自分の決めたスタイルのためにカラダへの負担は目をつぶったから。

誰かに何かをするということは、余裕を自分で持つことだ。

けれどもその余裕を削ってまで、自分のスタイルを確保した。その先に遍路を歩いてコーヒーを点てさせていただいた。

「コーヒーいかがですか?」

と声をかけることができなかったことも何度かあって全部覚えている。それはそのまま自分の余裕のなさ。自分の行動を犠牲にしてまで相手に時間を使うことができなかった。もしくはただ面倒だと思ってしまった。そんなことが何度かあった。


やっぱり旅を終えてから書くと、その景色に自分の思いがセットになっているのでこうして書きながら話が脱線してしまう。それが経験というものだろうか。それは紛れもなく自分のカラダとココロが体験したもので、それこそが自分のものなのだろうと思う。


だいぶ山道を降りただろうか、というかカラダがクタクタになってきたころに大窪寺の屋根が見えた。あぁ。ついにたどり着いたんだ。

ちょうど門からの階段を登ったあたりのところに、おじさん夫婦がお参りをされていた。そのほかに参拝客は見当たらない。もう午後の日が傾きはじめたころだからだろうか。1番札所とともに、ゴールのここはいつだって人が溢れていそうだけれども。

自分で感慨にふけるのにはちょうどよい、静かな終わり。

しかし記念を残すにはあまりに人気がない終わり。

88番札所と書いてある門のところで休憩がてら人を待つものの20分ぐらい経っても誰もやってこないので、仕方がなく片付けてをはじめられた下のお土産もの屋さんのお兄さんに声をかけた。

「すみません!お忙しいところ恐縮なのですが、結願の記念に写真を撮りたいのです。お願いできませんか?」

「もちろん!せっかくの記念ですから!撮りますよ!」

よかったぁ。とっても優しいお兄さんだった。手前と奥と、ふたつの場所で写真を撮ってくださった。ありがとうございました。


最後のお参り。最後のお経は少し詰まってしまった。まだまだ。

大師堂で経を読み終えた。最後は願い事ではなく、これまで無事に歩かせてもらったこと、ご縁をたくさんいただいたことに感謝の言葉を唱えた。思わず声がうわずって涙がにじんだ。ありがとうございました。


最後の納経。納経帳を両手で受け取ってくださった、お坊さんは、書き終えたあとに頭のところまで納経帳を掲げてから、返してくださった。彼にとってはたぶん毎日書くもの、けれども僕にとってはこの2ヶ月間が詰まったもの。その納経帳を大切に扱ってくださったこと、本当に嬉しかった。ありがとうございました。


お土産もの屋さんのお兄さんにも改めてお礼を告げに行き、お隣にある東屋さんで野宿させていただくお願いをしたら、ちょっと待ってくださいねーと奥に行かれた。

「ちょうどひとつ残っていたんです。うちで出している満願いなり食べてくださいね。」

満願というのは、結願と同じ意味でも88箇所をまわり終えて願いが結ばれることを約束するもの。それにちなんだお赤飯が入ったお稲荷さんをいただいた。

暗くなってきた東屋さんで野宿の支度をしていると、トイレの管理をされているおじさんが「お疲れ様でした。今夜も冷えるから気をつけて。電気はここにスイッチあるから、好きに点けたらええからね。」と声をかけてくださった。


お土産もの屋さんが数軒並ぶほかには家のない大窪寺。
きーんと冷えた空気を感じながら、寝袋にくるまった。


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