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暗い森の少女 第二章 ④ 業苦の座敷牢



業苦の座敷牢


夢のような春休みが始まった。
週の半分は瀬尾の家に招かれて、花衣は応接室にある本を読んだり、自分の持っている本を瀬尾に貸したりして過ごした。
自宅にいることが少なくなると、花衣の心は凪のように静かに落ち着く。
叔父たちは、本の虫の花衣が外で遊んでいると誤解していて機嫌がいい。
祖母だけが、「瀬尾の息子と遊ぶ」ということに不安を感じているようだ。
村では浮いている家庭の娘が、村の一番影響力のある分限者の息子と遊ぶことで、よくない噂が立たないか、それを心配していた。
「なにをして遊んでいるの? 瀬尾くんのおじいさんに迷惑はかけていない?」
何度もそう聞かれる。
瀬尾の家に行っても、いつもいるのは瀬尾の母親と妹の千佳、そしてお手伝いの夏木だけだ。事業を幅広くやっている瀬尾の祖父は、村にある本宅ではなく、便利のいい町のマンションに住んでいるそうだし、父親も花衣が遊びにいっている時間に帰ってくることはない。
小さな千佳はすっかり花衣に懐いて、花衣を見つけると最近出来るようになったはいはいで近寄ってくる。
応接室で瀬尾の家族でくつろいでいるとき、瀬尾の母親がグランドピアノを弾いてくれることもあった。
「直之も少しは練習しないとね」
千佳のための子守歌を奏でながら、母親は言う。
「3歳からはじめたピアノをまさかこちらに来てやめてしまうんなんて思ってもみなかったわ」
瀬尾がピアノを弾けることを知らなかったから驚いた。
農村で楽器を習っている生徒は少なく、ピアノを習っている女の子が数人しかおらず、卒業式や全校集会で合唱の伴奏をすることが名誉と思われている。
人気者の瀬尾がピアノも弾けると皆が知ったら、どれだけ騒ぎになるだろう。
「たまにしているよ」
千佳を抱きながら瀬尾は言う。
「指がなまらないように毎日しなくちゃ」
「そうだね、千佳に教えられるくらいにならなくちゃ」
瀬尾の言葉に母親は破顔した。
「おじいさんが、僕がピアノを弾くことを嫌がっているんだ」
千佳の昼寝のため、母親が席を外したあと、そっと瀬尾が花衣に囁く。
「男の子らしくないって。男の子は山を駆け回って怪我をして帰ってくるようなたくましい子がいいんだって」
そう言いながらピアノに手を伸ばした。
瀬尾の細い指が、軽快に鍵盤を叩く。
その明るい音楽にそぐわない、真剣な横顔だった。
「やっぱり間違えちゃった」
弾き終わった瀬尾は、自分の手を見て舌を出して笑う。
「おかあさんの言うとおり毎日練習しないと駄目みたい」
「そんなことないよ」
花衣は言った。
「すごい上手。どうして学校で弾かないの?」
「ありがとう」
瀬尾はピアノの蓋を閉める。
「学校で弾くとね……。おじいさんにばれちゃうかもしれないから」
ふたりは黙った。
瀬尾の祖父は、1代で村の小さな惣菜屋だった店をスーパーマーケットにして、町に数店舗展開し、現在はショッピングモールまで建てている。
分限者である瀬尾家の主のことを悪く言うひとのことは知らないが、我の強い暴君なのかもしれない。
ずいぶん回数は減ったが、叔父たちの暴言暴力にさらされ育った花衣には、瀬尾の気持ちが分かるような気がした。
「あれ? もうピアノやめちゃったんですか?」
しんと静まりかえった部屋の空気を変えるように、明るく夏木が入ってくる。
手にした銀の盆には、オレンジジュースとプリンが乗っていた。
「直之さんのピアノ好きなのに」
売っているジュースではない、夏木がオレンジを搾る生ジュースをはじめて飲んだとき、花衣はおいしさにびっくりしたし、オーブンで焼くプリンもカラメルが苦くて美味しい。
「千佳が起きちゃったら大変だからね」
そんな風に瀬尾は誤魔化す。
「花衣さんはピアノは習われないの?」
夏木がジュースを手渡しながら聞いている。
「私は……」
村にピアノ教室はなく、習っている女の子はみなバスに乗って町まで行く。
何回かひとりでバスに乗ったことのある花衣は、必ずと言っていいほど痴漢行為を受けて、バスに乗ることが怖くなってしまっていた。
そして、そういう痴漢にあった日は記憶が混濁し、自分の体が自分のものでないような感覚に必ず襲われる。
自分の中にしまってある鏡をのぞき込むと、そこには花衣ではない別の顔が映っている。
幼い頃から何度か見ていたその顔たちは、最初は無表情だったのに花衣の成長に合わせるように表情を変えてきた。
一番よく見る20代の女は、嘲るように、だが妖艶に微笑み花衣を押しのけようとする。
どれだけ親しくなっても、瀬尾家のひとにそんなことを言えるはずもなかった。
気が狂っていると思われて、もう二度とここにはこれなくなるかもしれない。
「葛木さんの手は小さいからな」
何気なく瀬尾は花衣の手に触れた。
「ピアノを習うと、指の動く範囲が広がったり長くなったりするけど、僕はこのまんまの手が可愛いと思う」
「本当ですね。真っ白で小さな手」
ふたりにそう言われ、真っ赤になって花衣は手を引っ込める。
そんな風に瀬尾の家でのびのびと過ごす時間は花衣にとってはかけがえのないものとなっていた。
春休みの間、一度葛木本家に顔を出したとき、当主に最近あったことを聞かれた花衣は、思わず瀬尾のことを話してしまった。
男の子と親しくなっている、という話に、一族の人間は眉をひそめる。
「本を読んだり、ピアノを弾いてくれてあり……赤ちゃんの妹と遊んだりするんです」
花衣の思考がまた二重になる。
体を支配するのは、20代の女だ。
この屋敷の奥にある、忘れ去られた開かずの間にあった写真立ての女は、あくまであどけない様子を作る。
「学校の他の子たちは少し乱暴で……私は怪我をするような遊びが怖いけれど、瀬尾くんもそうなんです」
「瀬尾?」
当主が柔らかい声で聞き返した。
「瀬尾というと、あの事業家の?」
花衣と一緒に来ていた祖母は、平伏するように言う。
「はい、瀬尾の息子さんです。ずっと東京で育っていたそうで、頭もいいし学校のまとめ役になっているような子供さんなんです」
「そうなのか」
当主はふくよかな頬を緩ませた。
「花衣ちゃんは知らないかもしれないけど、おじさんは瀬尾のおじいさんとは何回か会ったことがあるんだよ」
心の底に追いやられていた花衣の気持ちが大きく浮上する。
20代の女が意地悪そうにそれを眺めていた。
「瀬尾さんか……、なるほど」
当主はなにか考えているようだ。
「……悪くない話かもしれませんね」
「瀬尾の跡取りなら葛木家と縁が繋がってもおかしくない」
円座になっている大人がぼそぼそと喋る声が聞こえた。
「しかし、向こうも跡継ぎなら、婿にもらうのは」
「……あそこには跡取りがもうひとりいるしな……」
その言葉にピクリと耳が反応したが、その意味は分からなかった。
その後いつものように宴会になり、酒の席に飽きた花衣は、再びあのほこりっぽい、誰からも忘れられている部屋を訪れる。
鏡台の上に置かれた写真たてを手にする。
今、花衣の心にぴったりと寄りそい、いつでもその身を自由に操ろうとする女の声が聞こえてくる。
(お前は幸せになれないよ)
囁きは脳内で反響する。
(葛木の直系は、みんな不幸になればいい)
自身の中で響く声に、花衣は無駄と思いつつふさいだ。
(このひとはなに? この部屋はなんなの)
今では自由に出入り出来るが、この和室は以前はなにかで隔てれてていたようで、天井に杭をさし、壁でも作ったかのような跡がある。
鏡台のある側の窓には、木で作られた頑丈な格子があり、花衣は本で読んだ「座敷牢」を思い浮かべる。
(あなたはなに)
花衣の叫びに女は答える。
(私はお前、お前は私)
哄笑はいつまでも続いた。
花衣は、瀬尾家の応接間を思い出す。
重厚なカーテン、大きく金色の縁取りのある本棚、黒いピアノ。
(瀬尾くん……)
花衣の心の中は、自分を閉じ込めようとする座敷牢そのものだ。
もはやそこだけが花衣を居場所とでもいうように、花衣の精神は記憶に刻まれた瀬尾家の応接間へ逃げ込んだ。


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