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働く

私が幼稚園くらいの頃、父は既に会社員を辞めていました。毎日朝寝坊して、パジャマにドテラ姿。友達の家のお父さんとは明らかに違うなあとは思っていましたが、仕事部屋に遊びに行くとゲラ刷の裏をお絵描き用にくれたり、母には禁じられている砂糖入りの甘いほうじ茶を作ってくれたり、平日の空いている公園で鉄棒を教えてくれたり、毎晩お風呂で湯船のお湯を勢いよく溢れさせて大笑いしたり(これももちろん、母に見つかれば叱られる!)後にも先にも父と最も密接だったのがこの頃です。
 今から20年ほど前、河出書房で長く父の担当をして下さっていた方をお訪ねしたことがありました。思い出話をする中で、父が小説を書く傍らあれこれとライターのアルバイトをしていたことをお聞きしました。中でも面白かったのが、雑誌でのインスタントラーメンの味比べという連載です。確かに我が家には常にインスタントラーメンが大量にストックされていました。そして父は毎晩のように深夜になるとラーメンを作って食べていたのです。単に好きだからだろうとしか思っていなかったのですが、実は仕事の為だったのでした。小説だけではとても家族4人は生活できないから、父なりに必死に働いていたのですね。時折どんぶりから麺を数本ひっぱり出しては、足元で待ち構えている猫に分けてやっていた姿の記憶が少し違う色合いを帯びてくる一方で、子供だったとはいえ私は父のことを何にも知らなかったんだなあと改めて思ったものでした。
 文筆業に入るまでは、広告代理店の博報堂でコピーライターとして『ドストエフスキーではありません、トリスウイスキーです』という幻の迷作をひねりだし、(当然ボツです)その後平凡出版(現マガジンハウス)に移り週刊誌の編集者をしていた頃結婚したのですが、当時銀座の『銀巴里』で歌っていた美輪明宏さんに「ゴッちゃん、結婚してこぎれいになったわね」と、お祝いに“愛の讃歌”を歌ってもらったりと、なかなか賑やかな毎日だったようで、この辺りの経験は読者の方はご存知の通り、特に初期の作品で生かされています。
 20年余にわたる専業作家生活を経て、1980年代末から近畿大学での職を得た父は、久しぶりの組織人としての立場に大張り切りでした。自分の創作のペースは落ちたものの、学生への指導や学部の業務に熱心で、時々会うと楽しそうに大学の事を話していました。まだまだやりたいことがあっただろう60代半ばで発病、入院し、大阪に移住する前に関東と関西を行き来していた頃の経験をベースにした小説『この人を見よ』は絶筆となり、未完のまま幻戯書房より刊行されました。
 一生ひたすら働く人だったと思います。常に小説を携えて。気ままなようにも見えたけれど、働き抜いた人。どんな時も小説を手放さなかったことに、敬意を表したいと思います。


珍しくこぎれいな写真です。撮影時期不明ですが、恐らく就職してまもない頃?真ん中分け、テクノカット!
博報堂時代。机に足を乗せない!
多分博報堂時代?マニアックなコピー量産中か。
平凡出版時代。企画会議中でしょうか。後ろの黒板に企画案が。煮詰まり感迫る表情です。
近畿大学時代。それらしい顔つきですが、毎日母手作りの弁当を事務員さんに見せびらかしていたそうです。

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