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日記 20220926

 相変らずリア活が充実していてネット活動が滞っている。

 いや、そんなことはないな。リア活と私が言ったものの中には、「メルカリでビカクシダの出品を延々眺める」というのがあるのだし。

 メルカリをずっと見ていると欲望が増幅するばかりなので、この辺りで有名な、ビカクシダも扱っている植物店に実際に行ってみた。週中にはまた仕事が増えるし、来年以降平日の昼間は忙しくしているかもしれないし、と言い訳しながら。

 とても良かった……のだけれど、メルカリで買うのを躊躇していた額よりもはるかに高いビカクシダを購入してしまった。それも散々(一時間は店にいた)悩みに悩んで、もっと安価なもので手を打とうと何度も思った末に。「この安い子も胞子葉の出方といい、貯水葉の立ち上がりといい素敵だけれど、ここでこの安いのにしたら、きっと十分満たされずにやっぱりメルカリで色々物色し、買ってしまうだろう」と思って、当初目当てのものにしたのだ。この結果、今のところ吉と出ているけれど、ただ植物に関する金銭感覚が狂っただけなのではという気もする。

 実験中の栽培方法に限らず、ビカクシダ全般について無知すぎると思って、情報収集のためにInstagramまではじめてしまった。オススメにあがってくるアカウントの、知り合い率の高いこと! さして仲良くもなかった、新卒入社時の会社の後輩の名前が出てきたのにはたまげた。そしてなぜ皆実名でSNSやってるの? Twitterでオススメされるアカウントだって怖いのに(知っているアカウントの裏垢がそこで分かっちゃったりする)、名前も何も分からなくても、文章や写真などから「あ、これはあの人だ」と推測できてしまうのがまた怖い。独身時代に心の底から好きだった元恋人が、十人並みの容姿・服装のオッサンになっているのを知ってしまった(本人は以前「あの頃と変わってないよ」と言っていたのに)。電話番号で登録したからなのかな。Facebookとも人知れず連動しているのか(Facebookのアカウントはあるけれどずっと放置している)。とにかく怖すぎる。当然、知り合いを探す機能は切った。

 しかし、世の人は、私のように昭和世代でも、デジタルで人とつながろうとするものなのだね(詠嘆)。私がFacebookを放置しているのも、監視されているみたいで嫌だから、あるいは既存の人付き合いがより強固にならざるをえないようにさせられてしまうのが窮屈だからなのに。もちろん、新しく始めたInstagramでも、少なくとも現実の私と結びつけるようなアカウント名にも投稿にもしない(植物専用アカウントにするつもりだし)。
 私はデジタルでも、そうでない場でも、人とつながろうとする発想そのものがない、または極めて少ないんだなと気付かされる。デジタルの場とリアルとを使い分けるというと今っぽいように聴こえるけれど、そんなカッコいいことではなく、単に人付き合いにプライオリティーを置いていないコミュ障なのだ。しかし世の人がこんなに牧歌的にデジタルの場に自分をさらけ出しているとは思わなかった。私みたいに、デジタルの場は別人格でしょJK(表現が古い)、という人ばかりなのだと思っていたけれど、自分が思う常識は常識ではなかったのだ。


 ビカクシダに関連して、「みどりのゆび」という児童文学を読んでいた。この物語に出てくるガーデナーのおじいさん、「SPY×FAMILY」の「ガーデン」の店長の元ネタなのではないだろうか。

 昔の小説を読むと、教訓めいたことが書いてある。児童文学は特に顕著で、私はそれを親切なことだと思う。大人になると、だれもものの道理を教えてくれなくなるから。

あるかんがえが頭のなかに住みつくと、つぎにはそれは決心になります。いちど決心すると、その決心を実行にうつすまでは、心がやすまらないものです。

 そうやって知らされるものの道理を、でも子供たちは読み飛ばしてしまう。そして大人になって読みかえした時、「ああ、ここにちゃんと書いてあったのに、私は自分でじたばたしてそれを実感することしかしてこなかった、なんて時間をむだにしたんだろう」と思う。

 ビカクシダ沼にはまろうと思ってメルカリを閲覧している間は、実行に移していないのでずっと心が休まらなかった。……と、冒頭の話とオチがつながったところで、今日はおやすみなさい。

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