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文章が書けないという話

 四、五か月前くらいから、文章、特に日記が書けない。

 何を言っているんだお前は。

 最近も日記だかエッセイだか分からない代物をnoteに書いているし、創作だって少なくとも二週に一回は書いているじゃないかと自分でも思うのだけれど、自分の中では書いたことになっていないのである。別に認知機能が低下した訳ではない。正確に言うと、書こうという積極的な意欲に従って書いていない。

 曲解されるリスクを甘受して言うと、私は長らくnoteを特定の人宛ての私信として書いていたらしい。

 私信という書き方をしたが、私はその特定の人が読んでくれることを想定して書いていたわけではない。そういうウェットな期待は、四、五か月と言わず、もう二年?もっと? していない(少なくとも、自覚レベルでは)。自分では、自分のために、自分の心が赴くままに書いているつもりだった。

 Web上に無料で記事をアップしている以上、誰でもいつでも記事が読める状態にはあるから、その人が全く読んでいないとは言い切れないとは思うが、「もしかしたら読んでいるかも」と期待して書いてはいなかった。しかし、心の奥底で、その人を第一読者において、その人宛てに書いていたみたいだったのだ。

 私が好きなバンドのリーダーが、自分は自分のことばかり歌詞に書いていてうんざりしているということを話していた。「君」と歌っているのは、歌詞を受け取る他者を置かないと、歌詞が成立しないからだった、みたいなことを話していた。私はそのインタビューを読む前、その歌詞を読んで、「ああ、この人にも特定の愛する人がいて、それを『君』と呼んでいるんだ」となんとなく淋しい気持ちになったのだけれど、その「君」は、架空の存在だった。それと似たようなことを、私はnoteの記事を書く時にしていたらしい。架空の第一読者を置くこと。私の場合、一応実在する人がもとになっているけれど。

 しかし、何故だか分からないが、いよいよその第一読者が存在しない(その人はこれまでも、これからも読まない)ということが自分の中ではっきりした、というか、自分が第一読者としてのその人を期待できなくなった。それが、「文章が書けなくなった」という体感につながったのではないかと思う。

 まだ小説はその人以外にも意味がありそうな気がするから書けるけれど、日記を書けない。最近書いていたエッセイや日記は、自分の心の中に堆積した何かを排出しないと苦しいので書いている。あるいは、毎日何かしら書いていないといけないという義務感から書いている。第一読者感が機能していた時だって、その人に報告するつもりなどなかったし、自分の日記に意義なんてないと思いながら書いていたけれど、少なくともその時は書こうという意欲はもう少し前向きだったのだ。その前向きさ、戻ってくるんだろうか。第一読者がどうかとか、そんな理屈っぽいことじゃなく、ただ仕事が忙しいからではとも思ったけれど、仕事が楽になっても前向きさが戻ってくる自信がまるでない。

 今の講座の講評の返却が、コロナのせいで遅れていたのだけれど、先日まとめて届いた。その中に、「登場人物をチャーミングに造形することが出来ればその作品は九割方成功する」とあった。全くその通りだと思うし、ここでチャーミングという言葉遣いをする今の先生に乗り換えて本当に良かった。一方、人でもモノでもいいのだけれど、何かをチャーミングだと感じるためには、私に欲というか熱というかがないと難しいと思う。第一読者に対するささやかな熱さえ失った私が、チャーミングさを見付けられるのか。あるいは、全て白い灰になったとしても、なお私自身が持つ何かから私固有のチャーミングさを備えた主人公が立ち上がってくるのだろうか。あるいは、第一読者がもし戻ってきたとしたら、私はそれを喜べるのだろうか。喜べるかもしれない。わからない。これは多分「怖い」だ。

 ちなみに、タイトルと冒頭の数行を出す課題で、他の講座でも出し、師事していない人に見せてえらく貶された過去応募作を出してみたところ、少し、いや、結構褒められた。だからって、貶した人を見返してやったとか、そういうことは全然思わないし、過去作を褒められたことに意味なんてない気がするけど、作品に時間をかけて頭をひねったことは見る人が見れば伝わるのだなと思った。本当は、一番最近書いた話が一番評価が高かったら良かったと思うのだけれど(だって進歩がないみたいじゃないか)。

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