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読書記録 『たべもの芳名録』

 筆者が味わった美味しいものたちの記録。昔の文章はどうしても埃臭さがぬぐえないものも多いけれど、そのデメリットを補うのにあまりあるほど文章が美麗なものが多い。特にたべものについての随筆は、品良く書いてもらうに限る。最近は食漫画で、性的エクスタシーを感じているかのような直情的な表現が目立つけれど。

 しかし、青春時代が戦中であったような人の文章だから、少し今の時代に合っていない表現も散見されて鼻についた。読んでみて気に入ったら買おうと思って図書館で借りたのだけれど、その表現が気になって購入の決意ができない。要は女性蔑視傾向が強いということだ。

 筆者の奥様がどこかに出掛けていって食事をしてきた際、筆者がその味を聞いて家で再現しようとしたのに、奥様はただ美味しかったというだけで、その店のその料理がどういう味付けをしていたか判然としなかった。そこで筆者は「女に味はわからない」とこぼすのだ。

 それが本当なら、筆者が毎年春に待ち望んでいる、知り合いの奥さんが作った絶品の鮨は誰が味付けをしたのか。また、筆者の祖母は、鮨の味付けを使用人には任せず、手ずからやったのではなかったのか。私はそこに、普段から口うるさい主人をはぐらかして、話題の店の料理の美味しさを共有させてやるまいとする奥様のささやかな意趣返しを見た。

 また、「稼いでいないと味がわからない(だから女には味がわからない)」という言葉もあった。後半の()は除いて、稼いだ金で食べないと味がわからないというのは本当だろうか、と考えてみると、それもまた誤りであるように思われる。

 たとえば、一国の王は自分の手で金を稼ぐということはしていないだろうが、ありとあらゆる山海の珍味を食べていて、おそらくその国で一番の美食家であるはずである。

 稼いだ金で食べると美味しいという心情は理解できる。しかしそれは、その料理そのものの味がわかるというよりも、意味付けされた味と料理の味を一緒に味わっているということであって、本当に食べ物の味を分かって食べているということとは少し違うのではないか。「稼いだ金で食べないと味がわからない」と他者を貶める行為は、「稼いだ金で食べる時しか味がわからない、その程度の舌の持ち主なのね」と言われてしまう余地が生まれてしまうと思う。

 しかし、そういう風に、自分が持つ性ゆえに、男性が言論も政治も、要はなにもかも主役であった時代の文章を読んでひっかかってしまうことを、本当はうるさいことだと思う。なにもひっかからずに、美麗な文章だけ味わえたらよかった。男性はどうなのだろうか。私がひっかかるほどには、抵抗なく読めてしまうのか、今の時代なら炎上ものだよなあと気付くのか、チクリと胸になにか刺さるのか。しかし刺さり方は女性のそれとは違うだろう。

 と、こんな思考実験をする程度には、本書を楽しんで読んだ。なにもひっかからない文章を読んでも、得られるものはほとんどないのだし。筆者の心配は杞憂に終わり、大根は二十一世紀の今でもなくならずにスーパーに並んでいる。

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