見出し画像

【ブックレビュー】 『日本語学習は本当に必要か』 〜就労の日本語について考える(その①)

2024年6月14日「育成就労制度」が、参議院で可決、成立し、3年後の2027年までに施行されることになりそうです。この制度が施行されると、今までより就労分野での日本語教育の重要性が増してきます。そこで、今回は、今後の就労分野の日本語教育のあり方について考えてみることにしました。

今回は、以下の書籍を元に考えてみます。

村田晶子・神吉宇一編著(2024)『日本語学習は本当に必要かー多様な現場の葛藤とことばの教育』明石書店

なかなか刺激的なタイトルです。

「日本語学習は本当に必要か」という「問い」に基づいて、多様な現場に関わる人の葛藤がリアルに描かれており、共感しながら読みました。今後の日本語教育のあり方を考えるとき、この「問い」は必須のものであるように思いました。

同書のまえがきには、以下のような記述があります。

日本語教育の社会的な役割が重視される時代だからこそ、教育や学習に関わる一方の当事者である実践者が、自らの実践を振り返り、教育現場で起きている変化に向き合い、そのなかで生じている課題、葛藤、矛盾を可視化し、共有すること、そして、状況を改善するために何が必要なのかを考え、様々な関係者と対話、連携して、改善のための行動につなげていくことが求められています。

『日本語学習は本当に必要かー多様な現場の葛藤とことばの教育』(p.4)

そこで、私も、当事者として、この「問い」に向き合い、自分の実践を振り返ってみたいと思います。


「日本語学習は本当に必要か」に変わる「問い」

本書では、第1章から12章まで、様々な現場で葛藤に向き合った実践者の論考が収録されています。大学の英語学位プログラムや海外の大学での日本語教育、就労現場、地域日本語教室、夜間中学や海外の補習校で行われている継承語教育、やさしい日本語、テクノロジーの進化と外国語教育と、その対象は多岐にわたります。

ただ、この中に、私が長年関わってきた国内の日本語教育機関は含まれていません。また、現在私が関わっている海外の送り出し機関が行う日本語教育も含まれていません。両者とも「日本語学習」が制度として組み込まれており、日本語教育関係者も、学習者も、必要かどうかを問うまでもなく、「日本語を学ばなければならない」という状況の中で日本語を教育、学習しています。同書で、このような機関を対象としなかったのは、「日本語学習は本当に必要か」という問いが立ちにくいからかもしれません。

私はこれまで、「日本語を学ばなければならない」という状況にある学習者を対象としてきたためか、「日本語学習は本当に必要か」を自分自身に問いかけたとき、割とシンプルに、以下のような答えが出てきました。

「日本語学習が必要かどうか」は教師が決めるものでなく、学習者自身が決めることだ。

学習者が必要だと思えばすればいいし、必要だと思わなければしなければいいというのが、この問いに対する私の考えです。

ただ、私にとって大きな問題になるのが、「日本語学習とは何か」ということです。「日本語学習」と言って、学習者がイメージするものは、人によってかなり異なるのではないかと思います。

ある人は、「文法や語彙をたくさん覚えること」や「試験に合格すること」をイメージするかもしれません。別の人は、「日本人と日本語で会話ができるようになること」であったり、「日本のアニメや漫画が理解できるようになること」であるかもしれません。このような日本語学習に対するイメージは、おそらくそれまでの学習経験が大きく影響するのではないかと思います。

その学習経験に影響を与えているのが、私たち「日本語教育関係者」です。だとすれば、「日本語学習とは何か」を私たち自身が考える必要があります。

冒頭にも書いたように「育成就労制度」が施行され、これまであまり重視されてこなかった就労分野での日本語教育が制度に組み込まれようとしています。これまでの「必要だと思えばやればいい」という状況から、「やらなければならない」ものに変わるわけです。だからこそ、学習者にとっての「日本語学習」を、日本語教育を提供する立場の私たち自身が捉え直す局面にきているのではないかと思いました。

そこで、私は、同書の問いを「日本語学習とは何か」という問いに置き換えて、読み進めてみることにしました。

就労現場での日本語教育

本書で就労分野について書かれている章は、第5章と第6章です。

第5章 就労の日本語教育は本当に必要か ーいわゆる「業務」と日本語の関係について考える(神吉宇一)

第6章 就労現場で学ぶべきは「介護の日本語」なのか ー技能実習生にとってのことばと学習(小川美香)

どちらも、ここ数年私が関わってきた分野です。そこで、この2つの章を中心に、「就労の日本語学習とは何か」という「問い」に向き合いながら、読んでみたいと思います。

「日本語」とは何を指すのか

5章では、「就労の日本語教育は本当に必要なのか」という「問い」に基づいて書かれていますが、「いわゆる「業務」と日本語の関係について考える」という副題がついています。

同章の主張は以下のようにまとめられています。

現在取り組まれている就労者に対する日本語教育を批判的に検討し、いわゆる「業務」のための日本語教育の必要性は限定的であるということを主張する。そして、共生社会の実現に向けた就労者に対する日本語教育は、人々のつながりやかかわりを生み出すためにこそ必要であることを述べる。

『日本語学習は本当に必要かー多様な現場の葛藤とことばの教育』(p.85)

この章では、外国人労働者を雇用している企業の社長や実習生の管理の仕事をしている人、インド料理の料理人へのインタビューを通して、業務と日本語の関係や日本語の使われ方をもとに、上記の主張をまとめています。

このインタビューデータの中で特に興味深いのは、実習生の管理の仕事をしている張さんへのインタビューです。筆者とのやりとりの中では、「日本語」がさまざまな表現を伴って使われています。

「日本語を勉強する」「日本語できる」「通じる」「通じない」「日本語必要」「日本語いらない」「日本語がしゃべれる」「日本語が話せる」「日本語力を重視」

ざっとみただけでも、このような表現がありました。これらの表現にある「日本語」とは何かについては、このデータからははっきり読み取ることはできませんでした。しかし、これらの「日本語」が指すものは、それぞれに異なるのではないかと感じました。

例えば、「本国で勉強させてたのに、ここに来て何も通じない(p.88)」と言った場合、勉強させていた「日本語」と、「ここ」で使われている「日本語」は別のものである可能性があります。国での「日本語学習」の目的が、試験に合格することだとしたら、「試験のための日本語」になるでしょう。現場の日本語とは異なるものです。

また、「採用時に日本語力を重視している」といった場合の「日本語力」は、面接の質問に答えられる「話すこと」に重きを置いた日本語になるのではないかと思います。しかし、「仕事上だと問題ない」といった場合の「日本語」は、理解が中心の「聞くこと」に重きを置いた日本語になるのではないかと思います。

さらに、「現場ではいらないけど、自立して日本で生活できるように必要ですね(p.89)」と言った場合、現場で使われる日本語が「聞くこと」であれば、「(話すための日本語は)現場ではいらない」という判断になりがちです。筆者の指摘にもあるように、現場では業務に支障がないように人の配置等がされていることも多いでしょう。

一方で、自立した生活を送るには、聞いて理解するだけでは不十分です。インタビューで例として出されている病院などの場面では、問診票に記入したり、自身の症状を説明するなど「読む」「書く」「話す」日本語も必要です。

実際にインタビューでは、「もっと日本語がしゃべれる職場がいいですって言われる(p.90)」ということばもあり、業務で使われる日本語は、「聞くこと」が中心であることを窺わせます。

実際に、現場で使われる日本語は、「話す」といっても「声かけ」のような決まった表現が多く、自分の考えを表現できるようなアウトプットの機会は限られているのではないかと想像しました。

興味深いのが、もう一人のインタビューの対象者である企業の社長の発言です。この企業では、「考える社員の育成」を目指していて、業務の改善活動のため、改善提案の仕組みを作っているとのことでした。改善案を動画で提案し、よかったと思うものに投票するという活動だそうですが、このように、積極的に日本語を使用するアウトプットの機会が与えられる現場というのは、少ないのかもしれません。

もう一人の対象者である料理人は、日本語社会と接する機会も非常に限られているのが窺えます。

「就労の日本語」とは何か?

インタビューで語られた内容を踏まえ、私の問い「就労の日本語学習とは何か」に立ち戻って考えてみたいと思います。

筆者は、「就労の日本語」(いわゆる「業務」の日本語)について、以下のように説明しています。

就労者に対する日本語教育というと、一般に想像されるのが、職場で使う語彙や表現を学んだり、業務にかかわる文書作成のスキルを学んだりし、それを業務に活かしていこうという、いわゆる「業務」の日本語である。

『日本語学習は本当に必要かー多様な現場の葛藤とことばの教育』(p.93)

ここで、指摘されている「いわゆる「業務」の日本語」は、業務を理解するための日本語で、「日本語学習」という観点から見ると、インプットが中心の学習になるのではないかと思います。しかし、筆者は、このような業務の日本語教育の必要性は限定的であるとします。

筆者は、「日本語が必要ない」理由として、以下の三点をあげています。(要約しています)

  1. 従事する業務が言語に依存しない作業が多い

  2. 日本語と他の言語を仲介する役割の人が配置されている

  3. テクノロジーが活用されている

業務を理解するために、何らかの方策がとられているのであれば、確かに日本語は必要ないと判断できるかもしれません。しかし、そこでは、何らかの日本語が使われているはずで、全く日本語が必要ないということではないと思います。特に、「聞いて理解する」という日本語は、指示通りのパフォーマンスができていれば、問題視されません。

「理解」のプロセスは、外から見えないだけに、日本語力によるものなのか、経験によるものなのか、仲介者の役割によるものなのか、テクノロジーによるものなのか、外からは判断できません。これらの組み合わせである場合も多いのではないかと思います。むしろ、「日本語」だけで業務内容を理解させようとするほうが難しいのではないかと思います。

つまり、「日本語」だけを取り出して必要か必要でないかを判断するのは非常に難しいのではないかと思います。

このような現場環境において、どのような「日本語学習」が必要なのか、もう少し考えてみたいと思います。

どんな「日本語学習」が必要か?

筆者は以下のように指摘します。

実はこのような(*交流・雑談的な)日本語使用をもとめている外国人は少なくないのかもしれない。日本語でやりとりすること自体が職場の循環のよさにもつながっているといえる。

『日本語学習は本当に必要かー多様な現場の葛藤とことばの教育』(p.90)

先に指摘したように、「業務」の日本語というと、専門用語などのインプットが多いのではないかと思います。また、使用するといっても、「声かけ」や「文書作成」のような、決まった形式のものも多く、「Can do」を設定して課題が遂行できるように練習を繰り返すという学習方法とも相性がいいと思います。

しかし、「日本語でやりとりする」ということを考えると、インプットだけでなく、アウトプットの機会が重要です。業務で使われる専門用語をただ覚えるだけでなく、わからないときに適宜確認したり、質問したりというスキルも必要です。しかし、実際の教育現場で、そのような「やりとり」を学習の対象としているのかは疑問です。

「交流・雑談」でなくても、日本語でやりとりをする機会は、業務の中でも十分にあると思います。しかし「やりとり」の十分な経験がなければ、聞いて、ただ「わかりました」(わかっていなくても)と言う反応しかできないでしょう。

筆者は、以下のようにも述べます。

日本語教育の専門家は、関係者間での対話を開き、就労現場全体でコミュニケーションや業務のあり方を考える契機を提供しなければならない。

『日本語学習は本当に必要かー多様な現場の葛藤とことばの教育』(p.93)

この指摘には、非常に共感できますが、企業から報酬をもらって日本語教育にあたる日本語教師がここまで踏み込むのはなかなか難しいことです。私も、業務委託という形で日本語教育を請け負っていますが、「ヒラサワさんのやりたいようにやっていいよ」という信頼を得られるまで、1年以上かかりました。それでも、未だに組織の中まで踏み込むのはハードルが高いです。

だからと言って、業務の日本語が理解できるように、業務で使われる表現やスキルを教えるだけでは、業務が遂行できれば十分という企業側の認識を問い直すことは難しいのではないかと思います。

なぜなら、仕事を依頼する企業側は、先のインタビューにあるように「日本語」ひとつとっても、曖昧な認識しか持っていません。シンプルに、業務で使う日本語を理解することが「日本語学習」であると考えているケースも多いのではないかと思います。

今後、「就労育成制度」という制度の中に日本語教育が位置付けられた場合、雇用する側が無意識に求める「日本語学習」をそのまま請け負っているだけで、果たして、日本語教育の専門家と言えるのか、もう一度、よく考えてみる必要があるのではないかと思いました。

Can-doをたくさん提示し、業務がどれだけ遂行できるようになったのかを目指すという日本語教育は、学習効果がわかりやすく、就労分野では受け入れられやすい学習方法であるように思います。雇用する側のニーズに応え、「仕事のできる労働者」という側面を強化できるでしょう。しかし、私たちは、職場という環境であっても、指示された業務を遂行するためだけに、時間を費やしているわけではありません。

慢性的な労働力不足が経済的な課題に発展しつつある労働供給制約社会において、労働者の確保は大きな課題です。外国人労働者であっても簡単なことではありません。このような状況を踏まえ、外国人にとって働きやすい職場とはどのようなものかという提案が「日本語教育」という分野からもできるのではないかと思いました。というか、こういう提案ができる専門家になりたいと思いました。

5章の最後には、共生社会について触れられており、考えさせられることも多いのですが、あまりまとまらないまま、結構な分量になってしまいました。6章のレビューもしようと思っていましたが、今回は一旦、ここまでにし、引き続き「就労の日本語学習とは何か」について考えてみたいと思います。

今回も、最後までお読みいただきありがとうございました。

続きを書きました👇 こちらも併せてお読みいただけるとうれしいです。

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!