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【しくじり先生】なぜ、Amazonを辞めて町工場でAIサービスを立ち上げることになったのか。


改めまして!

こんにちは!(株)オーテック 小川広佑(こうすけ)です!
前回の記事では、弊社統括部長の小川大佑(だいすけ)が、なぜ東大法学部入学後、コンサルティングファームに就職し、その後町工場を継ぐことになったかの経緯を個人的なエピソードとともに投稿させて頂きました。

そういえば、私もこれまでの経歴や入社の経緯をあまり話したことがなかったので、ここで投稿させて頂きます。ちょっとした「しくじり」も混ぜながら(笑)

中学・高校時代 (2007年~)

兄の背中を追う

2007年4月に愛知県の東海中学校に入学しました。実は、この時に私は「しくじり」をしていました。というのも、中学受験を決めた理由が端的に言うと「兄が東海中学・高校に入学したから」に尽きるからです。

小学校は、地元の小学校に通い友達と少年野球をしていて、夕方遅くまで外で遊んで洋服は泥だらけで穴空けて帰るようなわんぱくな毎日を過ごしておりました。
小学1年生になる時に6歳上の兄が東海中学校に入学したのですが、その時は中学受験を意識もしていませんでした。そんなある日、学園祭で兄のクラスがお化け屋敷をやるから見に行こうと母に連れられて参加しました。そのお化け屋敷があまりにも高いクオリティで衝撃を受け、「この学校楽しそう!」と感じたのが、初めて兄を意識して将来を決めた瞬間でした。

小学4年生の秋ごろから塾に入るのですが、頭がいいわけでもありませんでした(6年生の直前模試で合格率が10~20%)。これではダメだと焦り、名進研の正月特訓で猛勉強したら、運よく東海中学校に入学することが出来ました。入学後は、相変わらず部活と友達と遊んであまり勉強をせずに中学を過ごしていました。今度は、中学3年生の時に友達と2人で兄の東京の家に遊びに行くことがあり、「東京は何でもあって面白い場所だ!行きたい!」と、また兄の背中を追いかけることを決めた瞬間でした。

挫折

そんなこんなで、次は「兄が東京大学に入学した」というだけで、東京大学を目指して勉強を開始するのですが、ここでも「しくじり」をしてしまいます。大学模試に関しては、東京大学の合格率が60%、早慶の合格率は80%と比較的高いことに安心していたため、「僕は東大に行くぞ!」という想いだけが先行して、早慶の対策はほとんどせずにセンター試験を迎えます。

今考えると詰めが甘かったのですが、センター試験でまさかの事件が起きました。その後もセンター試験の伝説となった「スピンスピンスピン」事件です。得意にしていた現代文でまさかの難問が出題されパニックになってしまい、その後はもう訳も分からずで他の科目も上手くいきませんでした。例年、東大の足切りに通過するためには800点以上が必須と言われていたのですが、自己採点が750点で到底及ばないと思い、ここで東大の受験を諦めて一橋大学に切り替えます。(後々分かるのですが、この年は点数が低い・志望校を変えた受験生が多く珍しく足切りがない年でした)

焦って早慶を受験するために、文系学部全ての参考書を買ったのですが、時すでに遅しで対策はままならず受験は上手くいきませんでした。当時、センター試験が終わった段階で「センター失敗した、終わった」と呆然としていたのですが、父から「自分の思い通りにいかなかっただけで逃げるのか?」と喝を入れられ、ハッと目覚めました。「どこに所属しているかじゃなくて、自分がどこまでやりきるか」と。最終的には、センター試験の点数で明治大学の全学部の入学資格を得たので、政治経済学部に入学することになりました。

大学時代 (2013年~)

学生生活

明治大学では、「中途半端なことはしたくない!」と思い、体育会ゴルフ部に入部しながら、授業やゼミも比較的難しい科目を受講して大学生活を過ごすことにしました。体育会ゴルフ部では厳しいこともありましたが、自分のキャラも受け入れてもらえて先輩とも後輩とも良い関係を築くことが出来ました。今でも一緒に会うと昔話ができる仲間を見つけたのは、非常に良い経験だったと思います。

就職活動

その後、いよいよ大学3年生で就職活動を始めます。中学生の時から将来は父が経営する会社でやり切ろうと考えていたので、就職活動でも必然とそれを意識して就職先を探していました。3年生の夏休みには、父と兄に頼み込んで少しの間だけ現場を経験させてもらったりもしました。

就職活動を始めた当初、私は「これから何十年もクルマ業界に身を置くのだから、今後触れる機会が少ないことに挑戦しよう!」と、当時○○ x ITという言葉が流行っていたこともあり、IT系の仕事に就こうと考えました。また、将来的に経営や人事など組織について学びがある会社がいいと考えて、必ずインターンを受けて「ここで働きたい!」と強く思った会社しか受けないと決めていました。最終的に、5社ほどインターンの機会を頂き、レシピサイトを運営する企業や名刺データ管理システムを運営する企業等、様々な業態の会社から内定を頂いたのですが、Amazonは、①ITだけではなく物流機能を持って現場主義であること②創業者がトヨタ式の「kaizen」を取り入れていることが将来的に活きてくると考えて、Amazonに就職することにしました。

Amazon就職 (2017年~)

Amazonに入社した時は、ECサイトの機能しか知らなかったのでバイヤーか、FC(フルフィルメントセンター)のサプライチェーンマネージャーの職に就くのかと想像していたのですが、会社からの辞令はそれまで聞いたことがなかったAmazon Adsの営業職でした。

Amazon Adsでの奮闘

今では、「眠れる巨人」からEコマースメディアの先頭を走る組織へと成長しておりますが、当時のAmazon Adsのメンバーは全ての部門合わせて50人程度で少しベンチャーっぽい雰囲気があり、毎週フロアの片隅で全体会議ができるほどの規模でした。
今振り返ると、Amazonという大企業の中で設立して間もなく成長フェーズにいた組織に配属されたのはラッキーでした。当時は、今では運用しないアカウントがないほど人気のスポンサープロダクト広告が立ち上がった年で、初めの半年間は電話営業をしていたのですが「Amazonです」と話した瞬間に「結構です」と電話を切られるようなことも多々ありました。

当時、同じ部に配属された同期4名がとても優秀でついていくのに精一杯で成績も特段目立つほどではなかったのですが、どうせなら人があまりやっていないことをしようと決めて、当時では珍しかったCustom Solutionという1から企画を作りこむ大型案件を毎年1回以上やると目標を決めました。どうにかクライアント様に恵まれて、入社1年目の3月に担当カテゴリーで初のカスタムソリューションを実現することができました。
その後は、攻めの姿勢を評価頂き、徐々に大企業のクライアント様も任せてもらえるようになりました。2020年に東京ゲームショウの史上初のオンライン開催、2022年にPokémon GOのカスタムボックス企画を担当する等、大型案件・社内プロジェクトの立ち上げ~広告運用まで様々な経験をさせて頂き、約7年間在籍しておりました。

引き続き、Amazonでの仕事はやりがいがあったのですが、クルマ業界全体の流れが変わっていき、電動化やカーボンニュートラル・DX等、これまで以上に多角的な視点で事業をしなければならないフェーズに来ていたことと、先行的にIoTの導入を進めていた当社の付加価値をさらに引き上げなければならないと思い、30歳になった今年に入社することを決めました。(←今ここ)

そして、いま現在

こうやって振り返ってみると、紆余曲折ありながらも運に恵まれてここまで来ているのですが、私の中でのターニングポイントは大学受験での挫折でした。この時の父の言葉がなかったら、今の自分はなかったと思います。

現在、私はこれまで当社が蓄積してきたDXの知見を活かして、新たにAIサービスを立ち上げようと開発の責任者をしています。AIのブームに乗っていると言われるとそれまでなのですが、中小企業が抱える経営課題の1つとしてITの専門人材を雇う体制・土壌が整っていないためにDXや業務効率化に苦戦していること、新規事業や新製品の開発など付加価値を引き上げる仕事にリソースをかけられないことがあると考えています。
生産性に直結するか見極めが難しいIT領域に経営判断を下すことは非常に難しいですし、どこから手を付けるべきか分からないとDXに対して苦手意識が生まれてしまうのが現実です。
そのため、我々はいつからでも始めることができ、誰でも使うことができ、製造業の現場に貢献できるサービスを作ろうと日夜サービスの開発を試行錯誤しながら進めています。

今後、サービスの開発も進んできたら、noteにも投稿していこうと思いますが、改めて決意表明という気持ちも込めて投稿させて頂きました!

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