覚書:PUBLIC=公共"空間"ではないものについて(公共"精神"のようなものについて)

PUBLICに関するメモ。

どうやら「PUBLIC」という言葉を、即座に公共"空間"だと訳してしまう傾向にないでしょうか。

もちろん、Public=公共空間の図式は、少なくとも現時点で多くの面で正しく、道路、公園、街区…様々な公共空間=Public Spaceを通じて、まちをハックしたり、空間を通じて市民活動Civic Activityを表出させたりしていこう、という流れは心から賛同しています。

一方で、そのPublic=公共空間という端的な訳出によって、逆に"空間ではない側面"がないがしろになっていないでしょうか。

ちょっと今はその中身は良くわかりませんが、二項対立としての物理的なものと精神的なもの、ハードとソフト、タンジブルとインタンジブルというものがあるとしたら、当然公共空間に対し、公共精神、公共意思、公共動機のようなものが想定されるのではないか。(何やら油断すると全体主義的なワードに見えますが、全くそうではなく。)

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Mazio Manzini「日々の政治」の冒頭、訳者による用語解説で公共財=「Commons」に関する記述があります。

Mazio Manziniが利用する意味でのCommonsは「物理的から社会的までをも含む」そうです。物理的Commonsとは、当然道路、公園、街区…いわゆるPublic Spaceのことを指します。一方で社会的Commonsとは「人々の関係性、相互信頼、協働のあり方、居心地の良さや安全性」などだと。

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きちんとこの公共という言葉を僕自身が正式に定義できていないことが根本的な問題なのだろうけれど…。

例えば「Public Space」が自分の所有物を超えて所有権がにじみ出て重なり合うところにたち現れる「みんなの場所」、みんなが自分のものだという認識を持っている場所だとすれば。

他方「Public Mind」というものは、自分ひとり、ということからにじみでた、もう少し社会に対して自己認識が拡張されるような、曖昧な言葉を使ってしまえば「まちに対する主体性」に近いものなのだろうと思います。それは正にアマルティア・センのいう「エージェンシー」(訳出するならば、「社会的主体性」)のことではないか。「日々の政治」で述べられる通り、それは内側からにじみでるものだろうと。

それらが重なり合うとき、はじめてPublic Mindというものが表出する。

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こうしてPublicというものを考えてみると、Publicというものが本当に、上から「"みんなの"公園だからね!」と手渡されるような概念とは全く異なるものであることがよくわかります。

Publicとは「みんなの」的な意味ではありますが、それは「みんなで共有している」というよりも、「それぞれの」に近いのではないか?(多元主義的なことを言いたいのかもしれません)

…Public Mindを「みんなの気持ち」と訳出してしまうとき、(まさにPublic Space=「みんなの空間」とのアナロジーとして見ると)、「みんなの気持ち」のルールを「定めて」「守って」いこうという、甚だ気持ち悪い結論に達してしまいます。

そこで、Public Mindを「それぞれの気持ち」と訳出してみるとまた違う捉え方がみえてきます。Public Spaceと比較して考えればわかりやすそうですが、「それぞれの空間」は、管理の対象ではなくむしろ、「尊重」…それぞれの居方を、お互いに尊重しあおうとする対象であろうということが即座に了解されるでしょう。

ちょっと、上記主観的に書いてしまいましたが、自己拡張から発露するPublicというものは、そもそもはじめから、なにかおおきな「みんなの」から始まるものではなく、あくまで「それぞれ」であろうと。

全く異なるそれぞれの個の内発的動機の発露によってはじめてたちあらわれる存在であるPublic Mindとは、そもそもが多元主義的であり、その自由の相互承認上ではじめて機能する考え方なんだろうと思います。

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今、PUBLICで色々と調べているとすごく素敵な本がたくさんあって、PUBLIC HACKとかマイパブリックとかいろいろなワードがあるのだけれど、それらを全て「空間」から「精神性」に読み替えてハック/涵養を試みるとき、一体どんなことができるのか、どんな可能性がありえるのか、本当に心から興味がある。


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