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地域のコミュニティ/ネットワークの発展に関する理想と現状、および空隙のデザイン

コミュニティの発展について。

ネットワークモデルの理想形は、分散型オープンネットワークだと思っている。身体感覚に手繰り寄せて言えば、いろんな想いを持つ、いろんな団体やコミュニティがあって、それぞれにいい関係性があって、それらがグラノヴェターのいう「弱い紐帯」で紐付いているようなネットワーク。(P.S グラノヴェターの論についてはこれがわかりやすそう https://www.yutaka2much.com/archives/1325

(それがなんでいいのかというのは不勉強ながら、なんかありそう。多様性の確保と、小さな成功体験の確保という視点で言語化できそうな気もするけれど、よいキーワードやセオリーがあれば教えて下さい)。

今日は、地方コミュニティ/ネットワークの発展という視点から、はじめは「もっとこういうサークル/集団/団体/ベンチャーがいっぱいでてきたらいいな!」という想いを持つ人が多い一方で、「なかなか次世代が出てこんよね」的な構造になってしまっている、という話をします。

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理想的な地域ネットワークの発展形

地方(コミュニティ過疎という意味)を見ていると、ネットワーク発展のジレンマがあるように思う。

分散型オープンネットワークを前提とすると、地方のネットワーク発展の理想形は、いくつかのコミュニティができて、ある程度それが大きくなっていくと、本来はそこにより小さなコミュニティができて(構造的空隙を埋めるような)、徐々にフラクタル構造が生まれていくというモデルだと思う。

(実はこれってクリスタラーの「六角形理論」にもやや近そうな気がして、地理学とのアナロジーでみたときの接近、みたいなことは重要な気がしている)

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例えばどういうことが理想のネットワークだと思っているかというと、みなさん各々、自分のフィールドに持ち帰って想像してほしいのだけれど、例えば農業に着目した5,6人くらいの集団Aなのか、サークルのようなものがあるとする。そこが5年ほど経ってある程度成功し、また周囲の人たちもその人たちに仕事を頼んだり、行政の人が着目してくれたりして、ある程度のネットワークができてくる。

すると、その"先輩"たちをみならって、より若い世代…例えば集団Aが35くらいになったとすると、27前後の集団Bみたいなものが3,4つくらい生まれてきて、次のコミュニティを作っていく…みたいな。それがどんどん繰り返されながら、地域のネットワーク空間が発展していくといいのだろうと思う。

なんでそのほうがいいのかといえば、このあたりは僕自身の中央集権制への過度な忌避意識(イヴァン・イリイチの脱官僚化社会)に関連している。つまり、その空間全体の多様性を確保しつつ、誰もが「自分がやってる」感を得られる感だとか、いろんな考えを持っている人がたくさんいる、みたいな状況をつくれるからかな、と思ってる。

もうちょっと身体感覚に紐付けて言うならば、要するに「小さなクラスタがいっぱい」あったほうが、何かをはじめるときに「役割」(=居場所と言い換えても良い)を作りやすい、という話をしている。

例えば3人くらいのチームでトークイベントをやるなら、ほぼ3人にとって、トークイベントは極めて「自分ごと」なものになる。誰を呼ぶべきか?いくら集めるべきか?どんな想いを伝えたいのか?

一方、これが100人のチームでトークイベントをやるなら、そこにはトップのリードしたい想いがあり、その中でトークイベントをやる3人は、前例を見て、トップの想いを聞いて、悪い言い方をすれば「手足」的に動かざるを得ない。

もちろんそれ全体を悪いという気はまったくないけれども(スケールメリットであったり、社会的インパクトを考えると、大きくなることの意義を否定することはできない)、少なくともその「小さな3人」みたいなものが生まれる空隙(余白)はすごく重要。

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しばしば起こる、中央集権ネットワークへの発展

さて、上記のような形式を目指したい一方で、ネットワーク空間はしばしば逆の、中央集権ネットワークへの移行をみせてしまう。

つまり上記の事例でいえば、"農業の先輩"である集団Aが、どんどん人を取り込んで、大きなクラスタになってしまうというモデル。

これは結構あるあるで、ある程度成功したがゆえに、まわりの人も行政も、何かおもしろいことをしようと思ったときに、とりあえず集団Aに頼ってしまうという安易な関係性になってしまう(これは本当に多い)。

あるいは、すでに集団Aのレベル感が高いがゆえに、次に芽を出すべき若者(集団B未満的存在)が、「あんなにハードルが高くてすごいことは僕らにはできない」と思い込んでしまったり…。集団Aも、はじめは本当に、小さな小さな一歩目を踏み出していたはずなのに。

更には、次世代集団側もある意味安心してしまって、まあ彼らについていけばいいかと思ってしまうということもある。

そうしたいくつかの構造的要素が集合した結果、集団Aばかりがどんどん肥大化し、更に上述したような要素が強められるということが起こる。こうなると肥大化はとめられなくて、どんどん「次の世代」集団が形成されないということが起こる。

こうなってしまうと、もう次の世代はなかなか出てくる余白を見つけられなくなってくる。人口が有限である以上、ネットワークにある空隙(余白)はそこまで大きくないから、ひとつのクラスタに大きく絡め取られてしまうと、そこから身動きが取りづらくなってしまうようにも思う。

こうした構造によって、本来は独立した分散型オープンネットワークのモデルが理想形であったはずの地方という場は、意外とこうしてひとつの巨大な、強い肩書(いわゆる「色がついた」)場になってしまいがちなのではないか。

実はこれって「村的」な共同体コミュニティだ。見田宗介は「社会学入門」のなかで、旧来の村的コミュニティは、「つながりがあるんだけど、自分では選べない(意図せずにそこに所属しなければならない)」ものだ、と述べた(これを「共同体」Communityと名付けている)。一方で彼は「交響体」Symphonicityという概念を提唱している。これは「つながりがあって、かつ自分でえらんでいる」ものだと。例えば「友達うち」などがそうだという。

見田宗介はこれ(共同体)を批判するようなことはしていないのだけれど、個人的には、いかにこの「村的共同体」を「意思的なもの、選択できるもの」に変化させていくか、ということは、私たちの所属に関する、アマルティア・センのいうケイパビリティを拡張するうえで非常に重要なものなだと思ってる。

つまり、要するにせっかく現代に向かってきたのに、私たち自身が肥大化させすぎてしまったコミュニティがでかすぎて、所属せざるを得ず、そして勝手に色がついたり、ビジョンを強制させられたりしてしまうならば、それって「村社会」と同じだよね、と言っている。

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異なる領域による新規ネットワーク空間の創造

それを防ぎ、小さな分散独立型のコミュニティが自由に生まれるためには何が必要なのかというと、そこにはまだ解はない。ので、ここからはなんとなくで書く。

一例としては、鯖江を見ていると、それが「領域」が異なることによって新しい可能性を拓くということは重要なヒントだと思う。「ものづくり」という領域、「学生連携」という領域、「IT(ビッグデータ)」という領域…。結構それぞれで動いている。

例えば僕は「フリーランス、移住者、シェアハウス」みたいなキーワードで大雑把にくくられるようなコミュニティを鯖江で作ったと思っていて(あんまりこういう大きな言葉で自分をくくるのは好きじゃないけど)、それはいい意味で独立しつつ、それぞれとのネットワークを形成している。

その意味では年齢空間を超えることによる、全く異なる新規ネットワーク空間の形成ということも重要な気がする。

上の年齢の人達が、過度に若手を「所属させる」ようなことをしない、だとか。下の年齢の人達が、過度に上の年齢の人達の営みに憧れて、「所属する」方向にいかない、だとか…。

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空隙のデザイン

ただ、「まちづくり」みたいな大きな言葉に収束させるときに、鯖江には「鯖江」という大きなクラスタがあることも確かだ。そしてそのとき、そこにネットワークの空隙は見出しづらくなってしまう。

…例えば、僕が徳島県神山に行ったときに抱いた感想は「僕がここでできることはもうないなあ」という気持ちだった(それはまた、見方を変えればそれくらいすごかったということでもある)。

たぶん、鯖江に同様の感想を持つ人も決して少なくはないと思う。

しかし、その「空隙がない」状態は全く良いものではなくて、それは端的にいえば、変化が生まれにくい(ということと同義だ。もちろんそれが世代とともに固着化して余白に変わっていくということもあるのだろうけれど…。

今話しているのは、きっといかに「空隙」をデザインするかが重要だ、みたいなことなんじゃないか。

次の世代が出てこないんだよね〜みたいなことを言うとき、そこにはたぶん空隙はないのであって、あるいは全く別のネットワーク空間で新しいクラスタが形成されているような気もする。てか、そのとき「僕らが知らないんだから(聞いたこと無いんだから)、頑張ってないってことだね/いないも同じだね」的な発言も僕らは厳に控えるべきだろう。

ある意味、そこには意識的に弱さ、ゆるさ、余白をつくるような営みが必須になってくるように思える。うーん。ここから先はお手上げ。

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より大きな視点でみれば、今、若者世代が感じる閉塞感も、要するにより大きなネットワーク空間における「空隙がない」という感覚なのではないか。別に何もしなくても、とりあえずなんとなく生きていけてしまう。その空隙のなさは、即ち上述したような「役割=居場所」のなさそのものであり、またその空隙のなさは、イヴァン・イリイチの自立共生社会=Convivialityと真っ向から対立するものだろう。

わかんないなあ。空隙のデザイン。色々皆さんの意見聞かせてください。


P.S. 加藤さんより、これらひとつひとつを熱点とみてエントロピーを発生させ、イリヤ・プリゴジン「散逸構造」理論で解釈できるのではないかというコメント。散逸構造についてはこちらがわかりやすそう http://zip2000.server-shared.com/ilyaprigogine.htm 





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