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ロブスターのビスク(短編小説)


ロブスターは美味い。めちゃくちゃ美味い。まあこんな事は誰もが知っている事だと思う。

では、ロブスターがめちゃくちゃ賢い事はご存じだろうか。海の生き物の中でもトップクラスで賢い。賢いので、人間に捕まると「自分は殺される」事を認識し、恐怖の中で死んでいくことが分かっている。

けれど人はロブスターを食べる事をやめない。イルカは鯨は、賢いから食べないというのに。ある人は言う。ロブスター、お前はあまりに美味すぎる、と。

なぜこんな事を認識しているのか。先ほどまでレストランには動物愛護団体が来ていて、大演説を繰り広げていた。どうやら、このレストランの生簀にあるロブスターを海に返せと主張しにきたらしい。僕は銀行強盗に遭ったように隅で震える事しか出来なかった。団体の人々は言う。ロブスターの気持ちになれ、ロブスターを食べるな、と。結局、団体はロブスターを救う事なく警察に連れて行かれた。

僕の目の前には、ロブスターのビスクがある。団体が来る前に注文した代物だ。メインを注文しようとしたら、団体がやってきたので、スープしかやってこなかったのだ。

ビスクは、ロブスターの殻や身を煮込んだ、濃厚なスープだ。桜色のドロリとしたスープの中心には、ロブスターの身がちょこんと置かれている。スプーンで少し身を押すと、ズブズブとスープの中に沈んでいった。

スープを一口飲んでみる。骸から出る出汁の旨味と身の風味が口の中で混ざり合う。鼻から磯の香りが少しだけ抜けていく。ものすごく美味しい。

しかし、ロブスターの気持ちになれば、確かに悪趣味なものだった。人生最後の記憶は、回転する刃に体を押し付けられる瞬間。体はズタズタにされ、それを煮込まれて、スープにされる。この濃厚なスープは、ロブスターの生命そのものなのだ。

「そんなに気にするなよ。」

声が聞こえる。明確に聞こえる。誰の声だろうか。周りを見渡しても、自分に話しかけているような人は一人もいない。店員は忙しそうに店内を駆け回っている。客は黙々とスマホをいじっている。

「生命は生命を喰らう事で生きてきたんだからさ。俺もそうだろ?」

また声がする。僕は軽く呼吸をした。そして、獣のようにビスクを一気に飲み干した。口元や歯が桜色に染まった。そしてそれを、長い時間をかけて舌で味わった。

僕は生簀を見る。お前の声だったのか。それとも、俺自身の声だったのか。けれど、今となってはどちらでもいい。俺は食う。命を食う。食らわれたとしても、文句は言わない。自分の中で、それを生きると定義したのだ。間違っているかもしれないが、今この瞬間はそう定義したのだ。

俺は店員を呼び、メインディッシュを注文した。「ロブスターのグリル。バターソースで。」

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