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タマシイに安らぎ -マタイによる福音書-

昔、ボクがまだクリスチャンではなかったころ、「神はいると思うか」と尋ねられたことがあった。

ボクはこう答えた。「いるかどうかわからないけれど、いるほうがよいと思う」。


本当に真実で、善で、愛に満ちた神がいるとしたら、いないと考えるよりずっといいじゃないか、と思ったのだ。


でも、そんな風に答えたのも、そのころ、友人からもらった聖書を読んでいたからなのかもしれない。それまでは、神についてのイメージは、そんなによいものではなかったからだ。支配して自由を奪う、従わなければ刑罰を下すと脅かして無理強いする、など。

でも、そういうんじゃない、僕の考えたこともない違った神もあるのかもしれない、という気持ちになり始めていたのかも。


新約聖書の最初にある「マタイによる福音書」は、それまでの旧約聖書を受けて書かれている。どんな神が旧約聖書で描かれていたかを知っている人にとって、本当に真実で、善で、愛に満ちた神が、とうとうこの時期になってこんなことをしてくれた、と読み進めていくことができるような、そんな書き方をしている。


その中から1箇所だけ言葉を抜き出してみると、この言葉が思い浮かぶ。

「だれでも重荷を負うて苦労している者はわたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。」
(マタイによる福音書11章から)

聖書の神は、こんな風にボクに語りかけてくださる神なのだ。


そんな神が本当にいる、ということを知ることだけでも、非常にうれしい知らせとなった。

ボクが実際にそれを悟ったのは、心に隠してある罪も何もかも、神はすべてをご存知なのだ、と知ったとき。そして、そのすべての罪も、神ご自身が負ってくださるのだ、と知ったとき。刑罰を下すのではない。刑罰を自ら受けてくださる。いったい、そんな神があるだろうか。でも、それが、聖書の神だったのだ。


それはボクにとって、本当に喜ばしい、すごい知らせとなった。心の重荷が、すっと消えた瞬間。


と同時に、それまで、無理に自分を作ってきていた心の緊張も緩んだのだろうか、人の前で、いまだかつてこんなに涙を流したことはなかった、というほどに、大泣きをしてしまった。


それが、神がボクの心に触れて、安らぎを与えてくださった時だった。


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