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世界創造目的のトンデモ理論


その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
(エペソ書1章9-10 節)

新改訳聖書2017


神はなぜこの宇宙を創造し、地球を創造したのだろうか。なぜ、神のかたちに人間を創造したのだろうか。なぜ、この神のかたちに創られた人間が、神のきよさを失うにまかせ、神ご自身の顔に泥を塗るような事態に陥るのをよしとしたのだろうか。エデンの園の中央に禁断の実の木をわざわざと創りつけておいたのは、神の積極的な目的があったのではないだろうか。

そんなことを考えるのも、パウロが牢獄の中で比較的自由な時間を与えられて書き連ねたエペソ人への手紙の一フレーズにみられる、神の壮大なご計画の片鱗に触発されてのことだ。

その計画とは、「天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあってひとつに帰せしめよう」ということ。分裂し、崩壊した世界――しかもそれは「天」をも含む世界――の秩序を回復しようとする神のとられた方法は、神のかたちを失った人間によるものだった、とこの手紙から読み取れるように思われる。


―天使の反逆―

サタンと呼ばれる悪の霊がどのような起源を持つのか、明確には聖書に記されていない。ただ、旧約聖書にある一人の王についての記述が、人間では解釈がつけられない内容を含むものであるため、それが、サタンの起源を示すものだろうと考えられている。

このサタンの出現で、天使たちの間に亀裂が入る。神に仕え続ける者たちと、サタンに付き従う者たち。なぜか、神は、この反逆分子たちを一撃に打ち倒すことはしない。言い逃れることのできない証拠がそろうまで待つつもりなのか、それとも、サタンが心を入れ替えるのを待っているのか。


―世界の創造・堕落ー

サタンの反逆によって宇宙が破壊されたのか、その後で宇宙が創造されたのか、これまたはっきりしない。そもそも、時間の観念が通用するのは、この宇宙の中だけのことであって、それすら宇宙の広がりの中では何を基準に確たることが言えるのか、わからない。

まあ、それはともかく「はじめに神は天と地とを創造された」のだ。そして神は、非常に良い出来上がりであったこの地にサタンが影響力を及ぼすにまかせられた。地上に、また人間のうちに、サタンの爪跡がしっかりとしるされることになったのだ。

現在の人間のうちに同居している、善なる神の性質の片鱗とサタンの罪の性質。私たち自身、決して消すことのできない両方の性質。いや、善なる性質を消したいと思うわけじゃないので、後者の、罪の性質のことになるわけだけれど、消すに消せない、まさに刻印とも言える性質。それは、神を無視しようとする性質。

聖書の言う「罪」とは、創造主である神への反逆であり、無視することなのだ。だから、いかに善性の片鱗があると言っても、神を無視している限りは本来の善性ではありえない。それで、聖書に記される教えは、実行不可能な理想に過ぎない、としか思えなくなってしまっている。

実際、「神の律法」を受け取ったイスラエルの歴史も、律法に従わない歩みに満ちている。地上の誰一人も、この刻印から逃れて生まれてきたものはない。神の愛によって結び付けられることから遠ざかり、おのおの自分勝手な道を歩む者となっている。ただ一人の例外を除いて。


−イエス・キリストによるターニングポイント−

そんな世界に、宇宙の時空の外から、つまり天から、キリストがこの世界に入ってきた。この宇宙を創造した神が、今度は人間の形をとって、地上に生まれたのだ。それが、ただ一人の「例外」。同時代の人々は、イエス・キリストに罪を見出すことはできなかった。

罪のない者が、十字架刑に処せられる。こんな理不尽、不条理なことはないと思ってしまうが、罪がないからこそこの十字架刑が意義あるものとなった。その血によるあがない、すなわち罪過のゆるしが可能になるのは、本人に罪がないからだ。そして、神は天にあるものも地にあるものもことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。

十字架で死なれ、三日目によみがえったイエス・キリストの姿は、すぐには弟子たちに認められなかったほどに変貌していた。けれども、手と胸にある、十字架刑でついた傷跡は、残ったままだった。永遠のあがないとして十字架上の犠牲となったキリストには、その傷跡は永遠に残る。世の終わりには、「ほふられたとみえる小羊」(黙示5:6)が花嫁の婚姻の相手であり、「血染めの衣をまと」っている王が世を裁く(黙示19:13)。

新しい天と新しい地が出来上がったそのときにも、最後まで「小羊」が中心にいる。傷は残ったままなのだろうか。はっきりそうは書いていないけれど、傷がなくなっているとも書いていない。おそらく、キリストの傷は残ったままなのだろうと思う。永遠のゆるしのしるしだ。


−傷をもつ神によって、傷を持つ人間が用いられる−

これらのことは、人の手によって書かれた聖書にすべてあり、人の集まりである教会によって伝えられ続けている。しかし、聖書は神の霊感によって書かれた神の言葉そのものであり、教会はキリストのからだとして地上で神の働きを実行する使命を帯びている。神がキリストにあって天にあるもの地にあるものを、ことごとく、一つに帰せしめようとされた手段として、聖書があり、教会がある。

いとも簡単に傷を受けてしまう人間。それが、永遠の神の働きをするようにと、命じられている。私たちを招いていてくださっている神ご自身が、傷を持っているお方だ。この神が共にいてくださって、私たちのなすべき分を教え、そのための力を与えてくださる。罪の結果である傷を抱きながら、働くのだ。この傷こそが、はじめにサタンがなした反逆の結果であり、逃れられない証拠として突きつけられるものだ。

世の終わりに、すべての人はのいのち書に書かれてあることに従ってさばかれるのだけれど、その書に名前すら記されない人もある。その人々は、さばきを受けることもなく火の池に投げ込まれる。サタンは、その筆頭として、最後の戦いのときに、さばきも何もないままに、火の池に投げ込まれるのだ。

取調べが不要なほどに、証拠が挙がっている、といったところだ。もちろん現行犯であり、世の初めからの罪のいっさいも、世に残されている傷跡として、神の目にはあきらかなのだろう。ほかに、何かに書きとどめる必要もないほどに、多くの傷が、サタンのしわざの証拠として、残っている。

サタンではなく、人々のうちでいのちの書に名が記されないのは、なぜか。同じように傷を持つ人々だったのではないのだろうか。けれども、サタン同様に、神に対して反逆し続けた人々、神が触れて下さろうとしていたのにそれを拒否した人々。そうならないための、「傷」の癒しの証言者が、教会であり、根拠が聖書。

福音を全世界に伝えるようにと命じられている教会だけれど、その実行によって、今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会を通して、神の多種多様な知恵を知るにいたる。サタンが、神の御手から逃れることが出来ないことを知るのは、傷を持ちながらも使命を全うし続ける教会によるのだ。

傷を受け、傷が後々まで残るような世界と人間を創造なさった神の目的は、ひとえに、サタンを滅ぼし、天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめるためであると、聖書からうかがえる。

どうなんだろうか。とんでもない話のように思えるが、、、


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