コミュニケーション方法の変化への対応
あんたも色んなヒトとのコミュニケーションを楽しんでいるかい?
SNSをツールとして使ったコミュニティが成立するようになっている今という時代、インターネットが一般化する前のコミュニケーションとは全く違う要素が出てきていると、あんたも感じているんじゃないかな?
あんたが今、学生をやっているような世代だとすると、あんたは生まれてきたときからインターネットがあった世界観で生きてきていると思うのでピンとこないかもしれないが、俺たちオッサンにとってはインターネットが出来る前とできた後の両方の世界で生きてきているので、その激変っぷりは肌で感じることが出来ている世代なんだよね。
これって結構レアな世代だよな。産業革命はインターネットの出現のように急激な変化ではなかったらしい。
18世紀中頃から19世紀初頭までかけてゆっくりと産業革命は起こっていった。
対して、インターネットの革命は明確に1995年という年に起きたって言えるんじゃないかな?
そう、Windows95が出た年だ。
今回は、コミュニケーションの変容について考えてみる回だ。
時代の荒波に、乗るのか避けるのか抗うのか。
ちっと一緒に考えてみようぜ?
インターネット出現前のコミュニケーション
インターネットが無い世界なんて、今となっちゃ想像も出来ないかもしれないよな。
多分、今30代のヒトからすれば、高校、大学という時代をすでにどっぷりとインターネットやらSNSを使ってコミュニケーションしていたんじゃないかな?
そう言う学生時代を過ごしていると、携帯もない時代で、学生たちはどうやってコミュニケーションしていたんだって思うよな。
俺たちオッサン世代は、大学時代で携帯やらPHSやらをぼちぼちみんなが持ち始めたってくらいだったので、高校時代は通信手段って言えば家の固定電話に手紙くらいなもんだった。
その状態でどうやって遊びに行ったり、話をしたりしてたのかって言うと、ぶっちゃけ「約束」をしてどこかに「集まって」遊んでたわけだよ。
「なあ、今度の日曜、どっか行かね?」
「おお、じゃあ、新宿あたりぶらつく?」
「なら、南口改札の掲示板前に10時集合な」
で、実際に当日になって体調崩していけなかったりすると、もう連絡手段が無い。
なので、根性出して行くか、相手が出かける前に家の電話に連絡入れるか、連絡なしで行けなくて、信用落とすしか無いって地獄の状況だったわけだ。
そんなふうに、明らかに相手と自分の時間を明確にすり合わせてコミュニケーションするわけだから、多分だけれども、今よりもコミュニケーションに対する期待度が高かったような気がする。
なにしろ、「遊びに行く」となれば一定時間を必ず拘束されるので、楽しい時間にするために結構な努力を払っていたような気がするんだよね。
SNSコミュニケーション
対して、SNSによるコミュニケーションはコミュニケーションによる時間拘束を極限まで短くした。
Twitterは140文字を読んで「イイネ」を押すのに10秒かかんないよな。
このコミュニケーションによる時間拘束の短期化ってのは、結構な違いを俺たちにもたらしていると思うんだよね。
例えば、あって話しているときって、一つの会話が完結しても、次の会話を続けようって思うじゃんか。
ところが、SNSでのコミュニケーションは会話単体を楽しむようなことがあるって思わないか?
時代の変化スピードがシャレにならないほど上がっている今という時代では、こう言う「効率的な」コミュニケーションが求められるってことなのか?
それとも、効率的なコミュニケーションが時代の変化を促しているのか?
その辺はたまひよってやつだからわからないけれども、コミュニケーションに求められるものってのが変化していっているってのは肌で感じるところだよな。
変化に対応する
この変化ってやつが俺たちにもたらすものが「楽しみ」になるのか「疲弊」になるのか。
そいつは、そのコミュニケーションによってあんたが何を得たかってことをキチンとあんたの中に落とし込めたかって事によると思うんだよね。
じゃあ、どうやって落とし込むのか。そいつが課題だよな。
なに?お前はどうすんだって?
まあ、俺の場合はこのnoteみたいに「その時に感じたこと」を記録していっている。
その記録は未来の自分に対する道標にもなるかもしれないし、俺の感じていることがあんたの落とし込みの役に立つかもしれない。
コミュニケーションの細分化は、俺たちに情報の再整理を求めているってことなのかもしれないな。
なあ、あんたはどうする?
細切れになって俺たちを通り過ぎていく情報を、どうやって俺たちの血肉に変えていこうか?
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