「所有」が贅沢な時代でのプレゼント
あんたも誰かにプレゼントをすることってあるかい?
俺たちオッサンにとってはプレゼントをする機会ってやつは思いの外あるよな。
妻や息子の誕生日プレゼント。両親と義理の両親に対する誕生日プレゼント。お世話になった人が部署異動になる時のプレゼント。
このプレゼントってやつは、今という時代では「邪魔者」になる可能性がどんどん高くなってきていると思わないか?
俺たちは「所有する」ということに対してリスクを感じ始めている。
今回はこの「所有する」ということについてちょっと考えてみようと思うんだよね。
これからの時代の俺たちの生きっぷりについて一緒に考えてみようや。
な?
「所有する」という成功モデル
俺たちオッサンが子供の頃は、今ほど物やサービスが満ち溢れている印象は無いよな。
コンビニだって近所にはなかったし、食べるものに困りはしなかったけれど、こんなにも多種多様な娯楽が提供される世界観ではなかった。
子どもたちはメンコやらベーゴマやらに興じていたし、大人たちもみんなで同じような娯楽に興じていた。
まあ、今だってゴルフやらカラオケやらの定番のオッサン遊びは脈々と生き続けているとは思うけれどね。
昔の娯楽の大前提って「所有」にあったような気がする。
ゲーム一つとっても、「俺んち、ファミコン買ってもらったんだ~」からクラスの人気者になるケースが普通にあったよな。
持てるものが社会的な地位を得ていたって構図だ。
この事そのものは否定することでもなんでもなくて、俺たちが子供の時代は高度成長期という物を生み出す過程にある時代だったから、その出来上がった物やサービスを必要とする一人というのは、ある意味、時代にとって必要なメンバーだったんだと思う。
「所有しない」というライフスタイルを許す社会
そして、時代は流れる。
俺たちが社会を回し続ける中で、ついに社会の供給力は俺たち一般人の需要を超えてしまった。
デフレ社会の到来だ。
俺たちが満足するために必要な物やサービスは本当に当たり前のようにすぐ手に届く場所にある世界になった。
歩いて5分のところにあるコンビニには、なにか食べたいと思った時にその場で食べることが出来るようになったし、今週号のジャンプを読みたいと思っても、そのニーズにコンビニは答えてくれる。
俺たちは俺たちが「欲しい」と思う前に「欲しいだろ?」と問われる社会に生きているってことだ。
そうなってくると、俺たちは俺たちの「欲しい」ってやつについて、厳密に考え始めてくる。
「いやいや、お前本当にそれ欲しいのか?」
そう自分に問いかけ始める。
何しろ、俺たちの住処は狭い。
ものを所有しても、それを格納しておくスペースに対するコストってやつを馬鹿にできない環境に生きている。
俺たちは「所有する」という贅沢について真剣に考え始めているってわけだ。
そうなると、俺たちはどんどん「所有しない」という選択を選び始める。
「そんなの借りればいいじゃん」で済ましていくというスンポーだ。
例えば車。
俺たちのヤンチャなころは車を持つというのは一種のステータスだったよな。
やれ86がスゲーだの。セリカの音はいいよな、だの。
今の世の中。若者は車を持たない。
っていうか、そのニーズが無い。
移動手段は首都圏であれば、普通に用意されているし、車を持たなくても、時間貸しでのシェアリングエコノミーが発達しているから、必要な時に必要なだけ車を使うって言う選択肢も出来てきている。
所有しない贅沢が成立しているってわけだ。
所有しない世界観でのプレゼント
そうなってくると、プレゼントってやつについての意味が変わってくる。
プレゼントってやつは、いわばものを押し付けるって行為そのものだからな。
プレゼントをするって行為は相手に喜んでもらいたいというシンプルな思いからすることだ。
もちろん、世間体だのなんだのというシガラミチックな何かはあるとは思うが、基本は相手の喜んでもらうことが直接の目的だよな。
ところが、プレゼントが「相手の所有を強いる」という側面がある以上、そこには今まで無かった考慮が必要になってきているってことだよな。
普通に考えるとお菓子とか食べもののような「消費される」プレゼントってやつがある。
そこをもうちっと進めていくとこんな選択肢も出てくるよな。
ギフトをメールで贈るってサービスだ。
これなら必要な時に必要なものをゲットしてもらえる。所有させるということを強いるって側面をちょっとでも緩和できるってもんだよな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは俺たちの人間関係の作り方の変化に対応できると思うかい?
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