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ガンダムユニコーンが誰に向けて作られているのか?

あんたもアニメーション好きかい?

俺は大学生の頃に、アニメーションにどっぷり浸かった生活を送っていた。
子供の頃にハマって見続けていたんだが、高校生のころはあんまり見ていなかった気がする。

ところが、押井守さんの作品に触れることで一気にアニメーションの世界にハマることになった気がするんだよね。
押井守さんの作品群は、とっても頭を使わせてもらえる。
見るたびに何かを与えてもらえる気がするわけだ。

でもそんな押井守さんの作品でも誰でも楽しめるものかって言うと、そんなことはない。

その作品一つ一つが「誰か」に向けて作られているわけだから、それはそうだよな。

今回は、作品が「誰」に向けて作られているのかって言うことを考えてみる回だ。

まあ、俺たちオッサン世代は狙われているからな。
せっかくなら、俺たちを狙った作品を楽しもうじゃないか。

若者が受け入れることが出来なかった「ユニコーン」

この間、アニメーションが好きな奴らが集うオフ会に参加させてもらった。

ものすごぉく堪能させてもらったんだが、そのときの学びってやつもあった。

世代によって同じ作品を違う目線で見るって言うことだ。

何を今更言っておるのかと言われるかもしれないが、改めて違う世代の感覚を言葉で共有してもらうことで、実感できる事実ってやつもあるじゃんか?

印象的だったのが、機動戦士ガンダムユニコーンが20代の若者にとってあまり共感できるものではなかったということだ。

どうも「よくわからない」という印象のようだ。
確かにフル・フロンタルの言っていることは抽象的だし、とりあえずサイコ・フレームの万能感たるや、ちっとなんだそのチート設定と思わなくもない。

ただ、その印象もさることながら、俺たちオッサンはユニコーンという作品について、そのサイコ・フレームやらユニコーンがコロニーレーザーを止めるところに共感しているわけじゃないって改めて思ったんだよね。

作品としての結末には、それらの要素がものすごく関わっているのはそのとおりだと思うんだが、俺たちオッサンはそれらのスーパー展開よりも、別のものに共感してユニコーンという作品を堪能していたんだと思う。

それはジンネマンであり、ダグザであり、カーディアス・ビストだったんだと思う。

つまり、俺たちオッサンは機動戦士ガンダムユニコーンという作品を「若者が成長する物語」としては捉えていないんだ。
「若者を成長『させる』物語」として堪能しているんだと思うんだよね。

ユニコーンに見るオッサンどものあがき

ユニコーンには、びっくりするくらい多くの「あがくオッサン」が描かれている。
ジンネマンを筆頭に、ありとあらゆるオッサンが自分の置かれた「立場」に翻弄され続けている。
あ、オバサンもね。

ポイントは、自らその状態を望んで居るヒトが一人も居ないってことなんだと思う。
フル・フロンタルは望んで自らの立場になっているように感じられるかもしれないが、彼の場合は、究極その立場に居続けるように遺伝子的にデザインされたようにも思えるしな。

誰もが不自由な状況の中で「自分の思い」と対峙していく物語。
それが俺たちオッサンにとってのユニコーンなんだと思う。

ところが、普通に作品を見ると、主人公目線で考えることになると思うので、これらのオッサンどものあがきってやつはスパイスくらいにしかならない。

作品の主旋律としては捉えないのが普通だよな。

主旋律はあくまで「サイコ・フレームすげぇ」だし「ユニコーン半端ねぇ」なんだと思う。

でも、たしかにその主旋律で捉えてしまうと、何とも大味な印象を受けてしまうんだよね。ユニコーンって作品は。

そう考えて、改めて思うのが「ユニコーンという作品は誰に向けて作られた作品なのか」ってことなんだ。

主旋律として「スーパーロボットか」と言わんばかりの展開をしておきながら、オッサンどもの悲哀をスパイスにする作品が誰に見てもらいたがっているのか?

多分、答えは俺たちオッサンってことなんだろう。

事実、俺自身、ユニコーンという作品のオッサンどもに惹かれているしね。

さて、あんたはどう思う?

あの作品は俺たちオッサンに何を表現したかったんだろうか?

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