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教育で得た常識を更新する

子供の勉強について、あんたも日々何かを考えたりするかい?

我が家の息子は小学2年生。今、学校でやっている勉強といえば四則演算に漢字の書き取りという、日本人として必ずやっておかなければいけない勉強だ。

この辺の勉強は非常にシンプルだ。数をこなすことが何よりも大切。
勉強という作業をいかに量をこなすかがポイントって感じで日々その作業に四苦八苦って感じだね。

ただ、こっから先の勉強については、絶対に知っておかなければならないものではなくなってくる。
理科で台風は北半球では反時計回りに回るのがコリオリの力の影響だって習ったとしても、そのことを社会に出て仕事で使うことはまず無い。

それでも、義務教育やその先の教育で俺たちは様々な知識を叩き込まれてきたよな。

今回は、これからの激動の時代に向けて勉強をどうしていくのがいいのかをあーだこーだ考えてみる回だ。

子どもたちだけではなくて、俺たち自身の勉強についても考えてみようぜ。

仕事で使っているスキルの中で勉強から得たもの

実際、俺たちは社会に出て様々な出来事に対応していっているわけだけれども、その対応で勉強で得たスキルを使っているかって考えてみたことあるかい?

まず、漢字の読み取りは必須スキルだよな。
漢字は書けなくても読めればだいたい仕事ではOKだ。
なにしろ、大体の文章はパソコンで正式な文章だったりメールだったりチャットだったりで表現されるので、正確な漢字がこれだと選択できるだけで事足りる。

そして、四則演算。コレも必須スキルだよな。
消費税が軽減税率っていう複雑怪奇な状況になった今となっては、きっちり計算できないと、満足に買い物もままならない。
って言うか、買い物のときに正確に計算することを俺たちは放棄しているのが普通だよな。
でも、計算をアバウトに出来ないと、ありとあらゆる仕事が成り立たない。

今の仕事が予定に対してどのくらい前倒しできているのか、もしくは遅れているのかって判断をすることすら計算を伴う。
実際の計算はExcelなり計算機なりがするとしても、その計算をするっていう感覚はものすごく重要だと思う。

仕事には直接使わない知識

でもそれ以外の勉強って俺たちは仕事で使うスキルにつながっているんだろうか?

歴史一つとっても、趣味や雑談で使う知識はいくらでもあるけれども、極端な話、織田信長って人物がいたことを知らなくても、俺たちは仕事は出来ると思うんだ。

理科にしたって同じだよな。
別に湿度ってのがその時の温度で空気に溶け込める最大の水分に対して、今どのくらい溶け込んでいるかって率だって知らなくても、仕事には何の差し障りもない。

それでもそれらの知識を「義務教育」で常識として俺たちは叩き込まれてきた。
キーワードはこの「常識」って言葉なのかもしれないな。

常識を必要とする状況

俺たちは義務教育で「常識」を叩き込まれてきた。
その意味はあったのか?

結論からするとそれはあったと思う。

インターネットで知識の細分化が極端に進んでしまっている現代では特にその意味が大きい。
つまり、「誰でも知っている共通の認識」ってやつが持つ価値だ。

テレビすら万人が見なくなっている現代。
同じ知識をベースに話すことがどんどん困難になってきている。
誰もが自分の興味の赴くまま知識を蓄えていき、その蓄えた知識を前提に多くの事柄を判断していく。

個人での判断ならそれで良いとは思う。
だけれども、俺たちの仕事は多くのケースでは個人での判断ではなく、組織としての判断をすることになるよな。

組織としての判断をするためには、組織としての共通認識が必要だ。
なので、プロジェクトで仕事をすすめるケースでは、その共通認識を都度都度文章や記録にしたためて、物事をすすめるのが基本だったりする。

つまり義務教育で叩き込まれた「常識」は俺たちのコミュニケーションの土台になっているってわけだ。

常識をエンハンスし続ける

とは言え、インターネットで俺たちのベースとなる「常識」は俺たちの子供の頃と比べて、意味や形が違う状況になっているのも、なんとなく肌で感じるところだよな。

大化の改新とアメリカの独立宣言とアゼルバイジャンの戦火の歴史。
そいつらがごちゃまぜになって俺たちの知識を形成している。
それだけじゃなくて、新型コロナウイルスの危険性の話題と狂牛病の話題とペストのような過去に克服された伝染病の話題を紐付けて極端に恐怖を感じたりもする。

ポイントは「常識」って言葉が「思い込み」って言葉と共通している部分が多いってことなのかもしれない。

思い込みは、多くの排他を生み出す。逆に仲間の囲い込みって要素もあるだろう。

でも、俺たちがネットで世界中とのやり取りを始めている今となっては、「思い込み」で誰かの行動を判断するのは危険極まりない。
「中国人はいい加減」とかなんにも根拠が無いような感覚で物事を判断していいことなんて無いもんな。

だから、俺たちは俺たちの「常識」を常にアップデートしていく必要があると思うわけだ。

常識のアップデートに必要なもの。
それが何なのか?

きっとそれは客観的に捉える癖ってやつだと思うんだ。
新たな情報を得たときに、その情報を知らなかった昨日の自分に「思い込み」を排除して今日の自分は教えることが出来るのか?
そんなふうに問いかける癖。

その癖を自分のものにできれば、俺たちは多くの人を理解できるようになると思うんだよね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは、子どもたちと一緒に自分を改革し続けていけると思うかい?

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