希望と言う名の道
あんたは輝ける将来ってやつを想像できるかい?
残念ながら俺はその手の想像がものすごく苦手だ。事あるごとに最悪を想像しちまう。
そして、世の中は俺たちの想像の斜め上を行く。
俺たちの想像なんてものは、たかがしれているってことだな。
それほどまでに俺たちの住むこの世界ってのは読み難い。
20年前、インターネットってやつが世の中に出てきはじめの頃、俺たちはスマホが俺たちの生活にこれほど食い込んでくるなんて想像できたか?
今回は、そんな想定しきれない未来に俺たちはどう臨んだらいいのかってのを考える回だ。
ちーっとゴニョゴニョ考えようぜ。
想像できない未来
さっきのスマホもそうだが、俺たちは未来ってやつを見透かすことはできない。俺たちは株価一つとってもその予想を正確にすることはできないからな。
つまり俺たちは明日どうなるかわからないってことを理解しながら、そのことにひたすらに鈍感になることで生きていられる存在ってこったな。
そう、生きていくためには俺たちは「明日何があるか」なんてことを知ってしまったらダメなんだ。
何があるかわからない。だから出来るだけ考えて計画するし、出来るだけ準備を整える。
まあ、それでも現実はその斜め上を行くわけだが、何もしないよりもマシだ。俺たちは、「何かをする」ってだけで救われているってわけだ。
問題は何をすると俺たちはより今を幸せに感じることが出来るのかってことだよな。
未来は想像できない。過去の事実は変えられない。
なら今をどうするか。それに尽きるからな。
何のために「今」を過ごすか
結局の所、俺たちの人生ってのは絶え間なく続く「今」を続けることにほかならない。
厳密に言えば一瞬先の未来ですら俺たちはコントロールすることはできないからな。
ではそんなコントロール不能な未来のために「今」を俺たちは使うべきなんだろうか?
多分違う。
俺たちはあくまで「今」のために「今」を使うってのが基本なんだと思う。
それはなにも享楽的に生きようぜって言っているわけじゃない。
今さえ良ければ全て良しってほど俺たちはシンプルにできていないからな。
予想できない未来に対して、俺たちはありとあらゆる手を使ってなんとかしようとする。そうでもしなきゃ守りたいものも守れないしな。
じゃあ、俺たちに等しく与えられている「今」。
それをどう使うか。いや、なんのために使うかだ。
ただ、今を楽しむことに邁進する。それも時にはいいだろう。でもそれだけじゃ俺たちは俺たちの「今」に満足できないんじゃないか?
俺たちは今の瞬間を味わっているだけで幸せになれるほど強くはないからな。
俺たちに必要なのはやっぱり未来。言い換えるなら「希望」なんだろう。
だから俺たちの「今」は俺たちの「希望」に向かっていかないといけない。
「希望」と言う名の麻薬
でもその希望ってやつは麻薬のように甘美で危険なものだ。
希望があるからこそ、俺たちは奪い合う。
戦争の歴史を紐解けば、そこにあるのは希望の奪い合いだ。
自分たちの家。自分たちの土地。自分たちの国。
それらを奪われたくない。だから戦う。
人間の歴史はそんな戦いの日記でいっぱいだ。
でも俺たちは「希望」を捨て去ることはできない。なぜか?
俺たちは希望に向かって生きるって方法しか知らないからだ。
歴史は希望がどれだけ人を残酷にできるかを記録している。
それでも俺たちは「希望」を捨てることはできない。
それ以上の価値を世界の中で見つけることができないからだ。
だから認めよう。
俺たちは希望という麻薬なくして生きていることすらできないってことを。
明日死ぬかもしれない。
その恐怖におびえて生きるより希望という麻薬で人生を過ごしたほうが100倍マシだ。
それでも俺たちは思う。俺たちの希望じゃなく、誰かの希望の一部になれたらってさ。
俺たちは俺たちの好き勝手で世の中に「希望」を振りまきたい。
そうは思わないか?
あんたはどんな「希望」に「今」を託す?
俺たちはどんな未来に「希望」を託そうか?
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