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虚構と言う言葉を必死で考える

あんたは虚構によって俺たちヒトが生き延びることが出来ているって話を聞いたことがあるかい?

俺のnoteではこの虚構ってやつについてちょいちょいかかせてもらっている。
俺自身はサピエンス全史って本からこの虚構によって成り立つヒトという生き物の力って考え方を仕入れたんだ。

まあ、有名な本だから結構色んなヒトがこの概念に触れているんだと思うんだ。

でも、サピエンス全史に触れたことがないヒトにとったら「ナンノコッチャ」って話だよな。そらそうだ。

今回は改めてこの虚構ってものについて整理してみようって回だ。

ちっと概念チックな話になっちまうけれど、付き合ってくれよな。

エヴァンゲリオンと虚構

昨日のnoteでエヴァンゲリオンTV版第13話の話と虚構により成り立っているヒトが作り出す世界って話の関係性についてかかせてもらったんだよ。

ざっくり言えば「第11使徒って群体で一つのATフィールドを共有しているのに、同じ群体のリリン=ヒトはATフィールドを共有できない。それ故にヒトは虚構をもって団結している」って書いたわけだ。

うん?言っている意味がわからないって?
まあ、ちっと上のnoteを読んでみてくれよ。
わかんなかったら、ぜひコメントで教えてくれ。
ちなみにわかっても、コメントもらえると飛んで喜ぶぜ。

宗教を例に虚構を考える

でさ。
上のnoteを読んでくれたヒトからメッセージもらったわけよ。

「そもそも宗教や政治が虚構って概念がないと意味不明だよ」ってさ。

確かに。
いや、そもそも虚構って言葉をサピエンス全史から俺はそのまんま持ってきているわけだけれども、その言葉の意味って俺はどう理解しているのかって因数分解をしたことがなかった気がする。

ここはいっちょ整理してみるのもオモロイかもしれない。

そもそもサピエンス全史で用いられている「虚構」とは何なのか?

自分の理解だと「客観的に観測ができない共有事項」って感じなんだよな。

この「客観的に観測できない」ってのがポイントなんだよな。
例えば宗教。
宗教ってなんだべ?とか考え始めると沼にはまるので、とりあえずコトバンクに聞いてみる。

神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系
出典:上記サイト

はは~ん、信念の体系ときたか。また哲学的な。
いや、宗教が哲学的なのはメチャクチャ自然なのか。

んじゃ信念ってなんだ?

ある事柄についてもたれる確固として動揺しない認識ないし考え
出典:上記サイト

……頑固なやつの認識ってことか。
いや、言い方どうなんだってあんたは言うかもしれないけれど、まあ、そう言うことじゃんか。
逆に言えば、誰しもが信念を持っていると言う仮定をすると、誰しもが譲れない頑固な部分を持っているってことなんだな。
それはなんか納得だ。

つまり、宗教が虚構だというのがサピエンス全史の説明を前提とすると、「虚構とは信念を持って共有されるなにか」ってことになるんだろう。

客観的という言葉

これって俺の「客観的に観測ができない共有事項」ってのと同じなのか?って考えると微妙に違う気がするんだよ。

なんでだって?
だってよ。「客観的」ってのがすでに虚構ってことになるじゃんか。

いや、もうそうなってくると虚構じゃないものの方が難しくなってくる。

「そこにりんごがある」

そのことすら、あくまでそれは観測者の網膜に与えられた刺激から、観測者の経験則に基づき「りんご」だって判定したに過ぎない。

観測ってことそのものに客観性がないからだ。

そう考え始めちゃうと、虚構がヒトの特殊能力って話とずれてきちゃう。

だって川の鮭が「熊が来た!逃げろ」ってコミュニケーションしているとして、熊って概念すらも「虚構」って話になっちまう。
そもそも感覚によって認識されるものである「熊」を「虚構」としてしまっていては、世の中の全てが虚構になっちまう。
こいつはよろしくない。

なので、「客観性」には別の定義が必要になる。

主観を離れて独立していること。いつ、誰がみてもそうだと認められる性質。
出典:上記サイト

今回はコトバンクに頼りっきりだな。
主観から独立しているってか。

いかんな。どこまでも細分化していくと、どうしても主観ってのが根っこにある気がする。
でもその感覚は何も生み出すものじゃない気がするし、かつサピエンス全史で表現されている「虚構」の説明にはつながらない気がする。

きっと「誰が見てもそうだ」ってのがポイントなんだろうな。

じゃあ、その代表格ってなんだ?
きっと「数字」だ。

数字で表現できるってことは、少なくともその時点での「何か」を共有するこれ以上ない状況だ。

でもなぁ……。
俺は数字ってものそのものが「虚構」だと俺は思っているんだよ。
だって数字そのものは観測できないし、世の中に観測できる形で存在しているものじゃない「概念」そのものなんだもんよ。

ところが驚くべきことに、この数字って概念は疑いようのないものだって誰でも思っていると俺たちは考えてないか?
だって1+1=2だってことに対して「信じられない」ってやつがいたら、ちょっと距離置こうって思うじゃんか。

もしかしたら、この数字ってやつが俺たちに「客観性」を担保してくれるのかもな。

つまり虚構とは数字で存在を表現できないもの。
そう言うことか。

何?貨幣は数字だろって?
確かに硬貨や紙幣の存在は数字にできる。
でも硬貨にも紙幣にもなっていないお金ってあるじゃんか。
銀行口座の残高とかね。

あれはコンピューター上のデータはあるけれども「存在」はあくまで概念で価値が存在することはやっぱり数字では表現できない。

そう考えると「虚構とは数字で存在を表現できないもの」って定義はなくもない言葉かもしれない。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはそれでも「共有」することで前に進んでいくしかないなら、何を持って「共有」を実感して、なんのために「共有」すると思う?

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