引き出しと教養と経験と表現
あんたは自分が教養をある程度身に着けているって自信を持てているかい?
ぶっちゃけ、俺は教養って言葉で俺の中になにかがあるって感覚はない。
情報量はもしかしたら持っているかもしれないけれどね。
なに?
教養と保有している情報量って何の違いでしゃべってんだって?
そらそうだ。
まずはだよ、こんな記事を読ませてもらったわけよ。
沼野さんは若者らしいみずみずしい文章でそのことを語ってくれていると俺は感じた。
今回は沼野さんの記事を読んで、そもそも教養ってなんなんだよって話を考えてみる回だ。
俺たちがどうすればもうちっと先に進めるのか、考えてみようぜ。
いろんなテーマに対する引き出し
沼野さんの記事で、俺が「こいつはパワーワードだな」って思ったのが、教養とはいろんなテーマに対する引き出しを持てることだってことなんだよね。
ぶっちゃけだよ。
俺は日々のnote投稿でノージャンルでいろんなテーマを書いちゃいるんだけれど、「引き出しを持っている」って状態にたどり着けているか?って言われると「うぐぅ」って唸るしかなくなる。
まあ、半世紀生きてきた中で言語化出来たこともいっぱいあるし、そう言う経験値だけで積み上げられる何かは持ててるのか持っ知れない。
ただ、それ「引き出し」か?
もう、なんつーかものすごく良く捉えても「誰かへのヒント」でしか無くないか?
だって、どんだけ言葉を連ねても「答え」なんてものを俺は誰かに提供出来ていないんだから。
そう考えると、俺の言葉ってのは「引き出し」じゃなくて「辞書」ってことでしか無いんだよな。きっと。
自分の役割
そう考えたときに、俺の役割ってのは教養を保持することなんだろうか?
つまり、誰かに「何かを出来る方法」を伝えるってことなんだろうか?
多分違う。
そもそも何かが出来る方法ってのは、この変化の時代では千変万化していくのが大前提で、俺たちが獲得した成功手段なんてものは数年で使い物にならなくなる。
そんな手段にすがっていたら新しい世代は速攻で立ち行かなくなる。
だからこそ、各々の世代で必要なものは何かって話だよな。
多分さ。
考えることだよな。
どうすれば、多くのヒトを幸せに出来るのか?
どうすれば、周りのヒトを幸せに出来るのか?
どうすれば、仲間と達成感を共有出来るのか?
俺のような経験値だけは積み上げたやつの役割って言えば、その「考える価値」ってのを伝えることなんだと思ったんだ。
考える価値
でも、そもそも考えるってなんなんだ?
沼野さんの記事を読んで「教養とは何か?」を考え始めたけれど、それを考える意味ってなんだ?
いったん、その問に対して「考える価値を伝えること」としてみたは良いが、じゃあ考える価値ってなんだ?
多分、考えるって行為は自分以外の誰かの感情を想像するって行為だ。
じゃあ、俺は誰かの感情を想像出来ているってのか?
そんなわけないじゃん。
そうか。
想像しようとしているって姿勢が「素敵だぜ」って言うのが俺の役割なのか?
多分、想像した結果ってのは10人いたら10通りの結果になると思う。
それでも「眼の前にいる誰かの気持ちを想像する」って行為そのものはなんかしらの意味を生み出す気がしたんだよ。
例えば、このnoteを書いていて沼野さんの記事から俺は沼野さんの気持ちを想像している。
その想像が沼野さんになんかしらの意味を伝えることもあるかもしれないし、沼野さん以外の誰かに何かを感じさせることもあるかもしれない。
それもこれも沼野さんの「引き出しを持っている」というワードから生まれたものだ。
沼野さんが「引き出し」という言葉でなにかを紡ぎ出した結果だ。
これってさ。
誰かが何かを発信するって行為が生み出した何かなんだよな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは俺たちの中にあるなにかを表現することで、誰に何を渡す事が出来るんだろうな。
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