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追悼 川添象郎 唯一無二の自伝『象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー』刊行に寄せられたコメント&プロローグ全文掲載。

2024年9月8日、川添象郎氏が永眠されました。川添氏は80年代、YMOで世界を巻き込んだ社会現象を巻き起こし、アルファレコードにて、いまなお世界でシティポップとして評価される数々の音楽作品をプロデュースされてきました。
自分の信じた若き才能に惜しみなく、予算とご自身の人脈(国際文化事業に尽力されたご尊父、川添浩史氏の人脈も)と若き日々に学んだ舞台芸術とミュージシャンとしての海外興行の経験を注ぎ込んできた川添氏の功績をたたえ、『象の記憶』に寄せられたコメントとプロローグを掲載いたします。
本が完成したとき、まるで子どものように大喜びで、はしゃいでいた、キュートな川添さん。その場でたくさんのお知り合いに「おひさしぶり。ボクの本を買ってね」と電話されていた元気でパワフルな川添さんのお姿が忘れられません。(編集部 稲葉)

※タイトル上の写真は友人でもあったデヴィッド・ベイリーによるスナップ(『象の記憶』より)

象郎には、正直、ナンニモしてもらったことがない。
でも、何故かほっておけない奴だ。
川添と聞くと、象ちゃんよりも、父上の川添のパパが蘇る。
“ブラボー"
1965年、日生劇場「オンディーヌ」初日。
川添のパパは、誰よりも先に立ち上がり、喝采をくれた。
1960年、飯倉キャンティの初日、象郎に引っぱっていかれた小娘に、当たり前に椅子を引いて、大人扱いをしてくれる、パパの本当の育ちのよさ。
1964年、カンヌ映画祭、川添のパパの心配りで、飛行機から下りたばかりの“女優"に、大きな花束とフラッシュ。遊び気分が吹っとんだ。東洋から来た、名も無い女優に、喝をくれたのだ。
「人類多しといえど、殊更に我に悪敵はなきものなり。恐れ憚ることなく、心事を丸出しにして飄々と応接すべし」
この言葉のままに生きた、この父と子。
他人と自分をくらべたりせず、心の底から、笑っていろと教えてくれた。
それが川添家の血なのだろう。――加賀まりこ(女優)

川添さんはスパニッシュ・ギターのアーティストであり、同時に欧米スタイルのショービジネスを日本で展開し、YMOの世界ツアーを仕切った恩人でもあります。その頃の話はいつ聞いても面白く、感心してしまい、そういうことが詰まった本を待っていたので嬉しいことこの上ありません!
――細野晴臣(音楽家)

出鱈目?
それとも啓示?
15歳の私も、六本木の街角で川添さんのマッドなヴァイブスに巻き込まれたひとりです。 いつまでも、そんな存在でいてください。
――松任谷由実(シンガーソングライター)

洋も和も、あらゆるアートに精通し、センスは抜群!
いろいろあったが、なぜか憎めないやつ。
こんな男とはそうそう出会えるもんじゃない。
――ミッキー・カーチス(歌手、俳優)

超絶型破りなこのお方、転んでもただでは起きず、それが底の知れぬ水溜まりであったとしても、絶対にその手の中に世間があっと驚く宝物を掴んで起き上がる、言わずもがなのお方なのです。そのアドレナリンの量と記憶力は他に類を見ず、時代がどう変わろうと一切ブレない品格のある筋金入りの審美眼には、ただひたすら平伏するばかりだ。最後の本だなんて言わないで、「美しさ」の不可思議な成り立ちを、どうかその毒舌で語り続けていただきたい。こんなに極上で素敵な人とは、もう二度と廻り逢えないのだから!
――吉田美奈子(音楽家)

川添さんと私の出会いは、学生から社会へと飛び出すのにいろいろと思案していた時期であり、まさに川添さんは私のその後の人生を決定づけた師匠であります。当時はまだその内容が広く理解されていませんでした「プロデュース」という仕事のイロハをお教えいただきました。その後アルファレコードの立ち上げやYMOに関われたのも川添さんのおかげです。私はYMO以後「デジタル」という分野に進み、現在はインターネットに関わる仕事についておりますが、今でも川添さんから学んだ「プロデュース術」とも言うべきナレッジは私の中で生きております。
――小尾一介(Google株式会社執行役員などを経て、クロスロケーションズ株式会社代表取締役社長)

最後の東京のお坊ちゃんというイメージで僕たちは象ちゃんを見ていました。 やんちゃな一面、教養もあり、音楽プロデューサーとしてのクリエイティブの能力はすごく高い。二人で仕事をしたのは空間プロデューサーという言葉がバズワードになっていたバブル時代に、私がプロデュースしたビアホール。象ちゃんにはホールの中のレストランのプロデューサーをお願いしました。この本は戦後からバブル時代の記録としても面白い。キャンティというサロンを通して、ロバート・キャパや、ピエール・カルダンなど、グローバルで豊富な人脈が象ちゃんという才能につながっていきます。そしてなによりも象ちゃんは最高に楽しい遊び仲間です。
――坂井直樹(コンセプター)

1968年の東京で誰よりも欧米の音楽、アート、ファッション、エンターティンメント、フォトグラフィーに関して、生のグローバルネットワークを持っていたのは、川添象郎さんです。象ちゃんに紹介された未来学者、思想家、哲学者、歴史哲学者である仲小路彰さんは、僕の人生の指針を示してくれました。
――シー・ユー・チェン(CIA Inc. Piii Founder & Executive Chairman)

この本に書かれているショウちゃんの若い頃のハリウッドやラスベガス、グリニッジ・ヴィレッジやマドリードなどでの修業時代の話は本当に面白い。海外でこんな経験をしてきた日本人はあまりいないと思う。この本を読むとその修業が後のYMOの成功をはじめ数々のプロデュ―ス作品の成功に大きく役立っていることがわかる。
僕がキャンティに行くようになった1960年代はじめ、ショウちゃんはグリニッジ・ヴィレッジでフラメンコ・ギターに熱中していた。時折弟の光郎に手紙を書いて様子を知らせていたのだが僕はキャンティでその手紙の一つを義母のタンタンやみっちゃんと一緒に読んだことがある。本書にでてくるグリニッジ・ヴィレッジの暮らしのことが書いてあった。その頃のショウちゃんは読書家でドス・パソスの『U.S.A.』なんかを読んでいてその感想や時間と空間をどう考えるかなどという哲学的な事も書いてあったことを思い出す。ショウちゃんが一生の締めくくりに本を出すことができて僕もうれしい。
――村井邦彦(音楽家)


本が出来上がってサインを入れる川添象郎さん(2022年7月22日)
『象の記憶』のカバーデザインのディレクションは川添さんが自らおこなった。

プロローグ

 象はすべての動物のなかで最も記憶力が優れているそうだ。なんでも、二十年前のこともおぼえているらしい。自分の群れの仲間や、大切な水場の位置など忘れない。西洋では、象と言えば素晴らしい記憶力の象徴である。その象にあやかって、記憶をたどりながら自分の人生の物語を書き綴ってみることにする。
 僕はプロデューサーである。音楽、演劇ほか、空間プロデュース等、自分が興味をもった分野のプロデュースをしてきた。人は、僕のことを破天荒なプロデューサーであるという。人間が自身の体臭を自覚できないように、僕は自分のしてきたことが人の興味を引くほどのことか、またどこが破天荒なのかわからない。
 しかし、自分のしてきたことを書き始めてみないとそれこそわからないので、ともかく
 書き始めてみることにする。

***

続きはぜひ、本書で読みいただければ幸いです。


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