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自己責任など存在しない説

「自己責任なんてこの世に存在しない。だから自己責任論は間違っている」これは私の主張であり、価値観です。一見、極端に聞こえるこの主張。その理由に迫ります。

前回の投稿で、私は「そもそも自己責任論は良くない」という主張をさせていただきました。

特にその理由の3つ目として述べた「自己責任論は正しくない」という主張は私の人格や人生観の根底となる価値観です。しかし、なかなか強烈な主張なのだとも自覚しています。それを主張するにはあまりにも字数に制約がありました。説明不足は否めません。そこで今回はこの主張を補足したいと思います。

1. そもそも「自己責任論」とは

 自己責任論とは「個人(自己)の選択において努力しなかった結果の不利益は、その本人が悪いのであって、そこに国(他者)は手を差し伸べる義務がない」とする考え方で、近年、貧困や非正規雇用など、経済状況に苦しむ方々などを対象の中心に、ネットなどで浴びせられています。また、前記事で指摘した通り、実際の国の制度も他国と比べ、過度にこの自己責任論に基づいているのではないかという指摘があります。

例「非正規なのは就活や能力面で努力しなかった本人が悪いから税金で助けるな」
例「自分から高卒になったんだから苦しい生活をして当然だ」
例「苦しいのを我慢をしないで職場を辞めたのだから、本人が悪い」

でも、それって正しいんですか?私たちって、そんなに自分のことを「選択」できているんでしょうか。そうやって考えを深めて行くと「実は全ては運で決まっている」ということに気付きます。どういうことでしょうか?

2. どんな能力や属性をもって生まれるかを本人は選べない

 人間の能力の多くは遺伝によって決まるとされ、外部環境の影響も大きく受けるとされています。

2010年のニューヨーク州立大学の研究によると、IQの少なくとも6割は遺伝によって決まることがわかっています。体格や顔の9割も遺伝。依存症になるか否かも4割が遺伝の影響。数学力や集中力も、ほとんどが遺伝で決まるのです。いわば、「あなたが今何をしているかは、生まれたときにある程度決まっていた」といっても過言ではありません。

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今、苦しい境遇にある人は、選択の結果そうなったのではなく、生まれた時にそうなることがすでに決まっていた可能性があります。逆に今、比較的恵まれた環境にいる人は、素晴らしい選択の結果そうなったのではなく、たまたま恵まれたものを持って生まれたに過ぎないかもしれません。全ては「自然のめぐりあわせ」が決めたのであり、あなたが悪くて苦しいのでも、あなたの力で恵まれているのでもないのです。

3. どんな能力が活きる環境に生まれるかを本人かは選べない

 多くが遺伝で決まるとはいえ、人にはそれぞれ優れた点があります。それをそれぞれが活かせば皆幸せになる。しかし、実際には世間で活かせる能力は限られています。

だいたいは学力や社会性といった能力が求められており、それがある程度あれば生活には困りません。脚力や美術力や肉体美に優れていても、それは並外れて優れた物でもない限りはお金にならないのです。かつては狩猟能力が生存のために求められた時代がありました。戦闘能力が求められた時代もあります。世界を見ればダンスや歌の能力が求められる社会もあります。このように、その人が生まれた社会において、どんな能力が求められているかは、それまでの社会の動きや文化の移り変わりが決めるのであり、本人が決めるのではありません。

例えば、数学力と語学力に大変優れている人がいたとしましょう。今の日本社会ではそれは大いに活用できます。その人はきっと恵まれた生活を送れるでしょう。しかし、同じ人が狩猟やダンスの能力が求められる他の国に生まれてしまえば、その人はあまり恵まれた生活を送れないかもしれません。この時、どちらに生まれるかをこの人本人は選んでいません。たまたま、自分の能力が活かせる社会に生まれたのです。

4. 努力できる性格や環境に生まれるかも本人は選べない

 しかし、どんなに人生のスタートが恵まれていなくても、どんなに遺伝で物事が決まろうとも、それは「努力」によって覆すことが極端な話、ほぼ全てにおいて可能です。数学力も、語学力も、集中力も(?)、努力で補うことは可能です。今、いくら厳しい状況におかれていたとしても、努力によって状況は変えることができます。実際に、苦しい境遇におかれた人が並々ならぬ努力をした結果、恵まれた将来を勝ち取るという物語はこの世に溢れています。

しかし、「必要な時に正しく努力できるか性格か否か」も遺伝が決めます。努力できない性格に生まれてしまえば、当然「努力して努力できる人間になろうとする」なんてできません。だって「努力できない性格」に生まれてしまったんだから。

「努力できる環境に生まれるかどうか」も本人は選べません。「お金がなくて、家計のために、いち早く高校を卒業して、すぐに就職しないといけない」「親がどちらも高卒だから大学にいくという概念がなかった」などという人は意外と多くいます。「就職氷河期で、正社員なんて私には無理だと思った」などという人で溢れた時代もありました。このように、「努力をしたいと思えて、実際に努力ができて、それが実を結ぶことが可能な環境」に生まれるか否かも本人は選べないのです。

あなたが努力の結果、今、恵まれているとしても、それはたまたまあなたが「努力の大切さがわかり、努力できる環境があり、努力できる性格に生まれることができたから、努力できた結果」に過ぎないのであって、あなた自身のおかげでも何でもないのです。

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5. 自己責任論で見捨てるのは思い上がりだ

 このように、あなたが苦しい境遇にあるのは、全てがあなたの選択の結果というわけではありません。あなたは多くを(あるいは全てを)生まれる前に決められているのです。あなたは、運が悪かったのです。

あなたが恵まれているのは、隣のあの人より裕福なのは、あなたの成果ではありません。あなたは多くを(あるいは全てを)生まれる前に決められているのです。あなたはたまたま優れた能力をもって生まれ、たまたまそれを活かせる環境がそこにあり、たまたまその能力を努力によって伸ばせる性格や環境がそこに備わっていたに過ぎないのです。あなたは、運が良かったのです。

それなのに、自分より弱い者を「自己責任だ」と言って見捨てるのは、あなたの思い上がりに過ぎないのではないでしょうか?

弱い自分を見て、私が悪いんだと自分を責めて、社会に助けを求めないのは自分を卑下しすぎではありませんか?

「自分は努力したから」「自分は上手に立ち回ったから」そう言って「あいつは努力しなかったから」と、見捨てるのは、運や自然のめぐりあわせによって手に入れたに過ぎないものを、あたかも「自分たちだけの力」によって手に入れたのだと考える「思い込み」に過ぎないのです。

6. 私たちには分配(共助)の義務がある

 私たちは資本主義社会に生きていますので、自分で手に入れたものは自分のものです。しかしこれまで説明してきた通り「自分で手に入れたもの」と思っているもののほとんどは実際には「たまたまそこにあるもの」にすぎません。加えて、「相対的に見てたまたま恵まれている人」が現れるのは「相対的に見てたまたま恵まれていない人」の存在があるからです。こうした差異を生じさせているのは、「たまたま今のような構造をしている、その社会」に他なりません。であれば、社会には、たまたま恵まれている人と、たまたま恵まれていない人との差を埋める義務があります。恵まれた人からは税金をいただき、恵まれていない人にはそれを分配する。そうして、平等を図り、共に助け合う構造を造る義務があるわけです。

7. 現実論との衝突。折り合い。

 しかし、この考え方は現実論と衝突します。分配による完全な平等を目指せば、どんなに努力しても、どんなに怠けても、得られるものが等しくなってしまいます。そうした社会では、人々は努力をしなくなってしまう。そうすれば分配するものも無くなってしまう。それはこれまでの歴史において、ソ連や中国が身をもって実証してくれました。ある程度の競争や不平等は、そもそもの分配するパイを増やす上で必要です。そして、それをどの程度のものにするか、どこで折り合いをつけるかどうかは慎重に調整しなければならないのです。

8. おわりに

 私は「自己責任論」という概念を完全に捨てるべきだとは思いません。それは私たちに競争心や自立心を与えてくれるからです。しかし、それに過度に依拠してはいけません。ちょっと頭の片隅に在るだけで良いのです。

競争により、経済を成長させ、その利益を人々に還元する。この素晴らしい流れを創り出すことができれば、誰もが生活に苦しむことのない社会が生まれます。将来不安は人々から消え去り、持続可能な国家が完成するのです。これは「理想」であり「夢」や「物語」です。しかし、それは実現不可能ではありません。政治の力はこれを実現することができます。

一方で、近年は自己責任論が高まり、台頭し、この理想から遠ざかっているという感が否めません。人々から「夢」や「理想」は消え去り、足の引っ張り合いがこの国に暗い影を落としています。人々は自分より弱い人間を探し、自己責任論で叩き、優越感の獲得と現実逃避に走っています。

しかし、私は以前の記事での言葉をもう一度投げかけたい。

自分より弱い人間を探し、叩き、そして現実の社会問題から目を背け続けることに、何の意味があるのでしょうか。それで日本はよくなるのでしょうか。それで危機に瀕した我が国を救えるのでしょうか。

今こそ、私たちは自己責任論の誘惑から逃れなければなりません。自分より弱い人をいかに叩くかではなく、いかに「共に強くなるか」を考えようではありませんか。社会問題について他人にその責任を求めるのではなく、それを解決する方法を追い求めようではありませんか。

それは正義にかなうだけでなく、これからの100年、200年の将来の日本を救う価値観なのです。

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