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ゆらぎ


ロジカルで感情を失いそうになる。それでもそれはそこにある。

今日は日曜日。

いつもならジムに行って、サラダを食べて、カフェに向かってウトウトしながら作業している時間だけれど

今日は渋谷発の電車に乗って、揺られること20分。
"旗の台北公園"という、滑り台とうんていがポツンと置かれた公園のベンチにセブンのコーヒーを片手に。

「白血病」

日常のやりとりの中に飛び込んできた、見知らぬ漢字。
高校の友達から突如発せられたその言葉は
もやもやとした夢の世界から現れたピエロのように

過去の思い出と、自分自身の知識が不気味さを纏い出す。


昨日まで当たり前にそこにあった日常が
彼は一瞬にして奪われてしまった。

これから始まる彼の死ぬほど辛い生活を考えたとき、
果たして何ができるだろう。
どんな顔で会えばいいんだろう。

そんな心の声に蓋をして
まだ実感が追いついていないまま、彼の病室の前にたどり着く。

ガラッ。

扉を開けると、そこには平然とした彼の姿。
いつもどおりの会話を交じわす。

「元気?」
「1ヶ月ならすぐっしょ。頑張って。」
「漫画持ってきたよ。」

薬のせいか、病気のせいか、視力が著しく衰えてしまった彼の目には
その光景がどうやって写っていたんだろう。


もし
自分の大切な人が同じ状況にあったら、
僕は何を感じるのだろう。


「心配」? それとも「心配している自分」?
「やるせなさ」? それとも「やるせないと思いたい自分」?

じわじわあふれる合理さに包まれた感情が
自分の醜さを表しているようでイライラしてしまう。


話は仕事に戻ります。
仕事に挑む過程で、僕は何度か自分自身を抑え込んでしまう瞬間に気づくことがあります。
何を抑え込んでいたのか。なんで抑え込んだのか。本当はどう有りたかったのか。
コーチング会社で勤める友人に、その瞬間に感じた違和感を話しながら目を向けるのですが
殆どのケース、抑え込んでいるものは「心のゆらぎ」自分自身を阻害している要因は「思い込みと自分自身のあるべき姿像」です。

「心のゆらぎ」を抑え込む自分自身の行動はその後仕事に挑む自分のスタンスに大きく影響を及ぼしています。
蓋をすることで、どこかで他人事化が促進し
気づけばその心のすきまは大きなものになっている。

本当はこうしたかった。
こうするべきだと思ったのに。

でも、それを本当にしたかった姿にできるのは、心のゆらぎを無視しない自分自身でしかない。
わかっているはずなのに、合理的な判断を下そうとする脳は、簡単に「心のゆらぎ」にフタをする。

合理性はビジネス上で誰にでも分かりやすく伝えるための強力な手段だけれど
その発信点は心のゆらぎにあるはずなのに。

もっと心の声を大事にできる自分自身になりたい。
その声を、誰にでも伝える武器を身に着けたい。

だからこそ、発信の下期。
仕事に限らず、自分の人生においてゆらいだ瞬間を切り取っていく。


... 日曜日に戻ります。

彼のこれから始まる日常は、
僕にとっての非日常だけど、
僕にとっての日常は、
彼にとっての非日常にあっという間に変わってしまった。

いつ、この日常が非日常になってもいいように
枠に閉じ込められたゆらぎに耳をすませて
そっと手を差し伸べてあげたい。


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