
旅することと脚下照顧
「身の回りに美しいものがないのではない
美しいものを見つける目がないだけだ」
ヴァン・ゴッホが弟あての手紙に書いた、私の好きな一文です。
ときおり自戒の意味も込めて思い出すこの言葉を、ここ数日、特に強く意識していました。
それというのも、旅先であまりに美しい景色を見たためかもしれません。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、11月初めの連休を使い、紀伊半島に出かけてきました。
そこでは、温泉コーヒーのお店を出店したり、人に会ったり、まだ行ったことのない場所を尋ねたりと、様々な経験を重ねました。
その間、訪れる場所すべてが美しく、どこも自然豊かで、完璧な風景のように見えました。
もう帰りたくない!と思うほど。
けれど。
私が訪れた、紀伊半島の美しさは特筆すべきものですが、果たしてこの地だけが特別なのか。
ほかのどこにも、ここと同じほどの魅力はない?
きっと、そうではないはずです。
ここにしかない美しさがあるのと同様、よその土地には、やはりその土地にしかない魅力があるはず。
それは日本全国、世界中で同じでしょう。
それなのになぜ、自分の暮らす街にうんざりしたり、よその土地ばかりを、極めてほめそやすようなことになるのか。
それは、おそらく近視眼的になっているため。
あまりにその土地になじんだために、もはやそこを、客観的には見られなくなっているから。
遠方から観光客がやって来るような土地であっても、それが当たり前の景色であれば、美醜を感じるスイッチも、オフになるものかもしれません。
人は慣れ親しんだものには鈍感になり、改めてその価値を問う、などということは、滅多にしないものですし。
外からやってきた人の方が、よほどその土地の魅力に敏感で、細かいところまで注意して見ていたり。
そういった意味で、外側から、あらためて自分の暮らす土地を見つめ直す、ということには、大きな意義のあるはずです。
たとえば旅に出て、いったん普段の生活から離れてみたり。
よその土地を知ることで、自分の暮らす土地を知る。
旅とはそんなものかもしれないと、ずっと考え続けていました。
それは「旅の裏面的効用」を感じさせるほどに、素晴らしい土地だった、と言い換えられるのかもしれません。
美しいものを見つける目を持ってさえいれば、どこでも美を感じられるというのは、とても素晴らしいことだと思えます。
たとえどこへ行き、何を見ようが、いたるところ、美しさにあふれている。
そんな目を持つことは、この上なく幸福なことであり、きっと、そうあれるはず。
そんな風に感じながらの旅でした。
とは言いつつ…
大阪は、もちろん素晴らしい。
けれど、熊野の風景を思い出し、深いため息をついてしまう、という朝のひと時です。
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