神聖さとセンシビリティ

11月12日。
今日、お昼間に、日本中で静かに特別な行事が行われていたのをご存知でしょうか?


2日後の14日は、大嘗祭。
国の平安と繁栄を願い、天皇が即位後はじめて執り行う、最重要祭祀です。

その2日前に、下準備として、国内の清浄のため日本全国8万社以上の神社で一斉に行われるのが、臨時大祓。

今日、全国の神社でこれがなされ、日本全体が、人知れず深い祈りの中にありました。


だから、何?
そんなこと自分には関係ない、という方もいらっしゃるかもしれません。
けれど、神聖さ、という日常で感じづらい感覚は、やはりとても大切だと思うのです。


たとえば、いくつもの宗教や哲学で、私たちの体は神聖なものである、と教えています。

体は自分のものであり、好きに使えるから、出来る限りメンテナンスなしに酷使しよう、というのが現代的な考え方かもしれません。

けれど、宗教的な考えでは、体は単なる入れ物、乗り物としてではなく、もっと大切に扱うべきである。
なぜなら、それははもっと大きなものからの借り物だから、といいます。


自分のものなら多少粗雑に扱っても、目上の方から貸していただいたものなら、扱いも丁寧になるというもの。

体もそれと同じで、自分とはかけ離れた、はるかに高いところから、私たちに一時預けられているだけの、大切にすべきものだというのです。

自分の体に注意を払い、常にいたわらなければならない。
それをないがしろにした時、怪我や病として、そのまずさが露見する、とも。


心の持ちよう、考え方が、病気を生み出す、というのはある程度認められている考えです。

体のどこかに問題が起こる時、それは潜在・顕在意識が表層に現れているからだ、という見方をする医師や研究者もいるほど。


例えば、頭痛や腰痛が、肉体的なことばかりでなく、心理的な不安や苦痛から来ていたり。

自分の思いをうまく伝えらず、ため込むタイプの人が、喉の病気になったり、首周りや胸ががちがちに凝り固まったり。

足が止まるという言葉の通り、心配事や不安感の強い人が、足のトラブルに常駐見舞われたり。


紀元前から続くインドの古代仏教には、現代にも伝わる「八支則」という知恵があります。
その一番最初の項目が、してはいけないこと、禁戒。 

さらに細かく、そのルールのひとつめであり、最重要のものが、非暴力。

素晴らしいのは、これが他人のみならず、自分にも当てはまるということ。
自分を傷つけないということが、まず守るべき大前提になっているのです。


自己批判や自己嫌悪、暴飲暴食、休養不足、病気の放置。
無気力や、投げやりな生き方。

これらは全て、自分への暴力といえるでしょう。


とても大切な人や、子どもにはさせないことを、自分には平気でしてしまう。
倒れる寸前まで無理をするとか、感情を押し込める、我慢をして周囲に合わせるとか。

こんなことを続けるうち、様々なものが損なわれていくのは想像に難くありません。


私は特定の宗教の信者ではないものの、生きる上での「サムシンググレート」への信仰心は、とても大切だと思っています。
それは決して怪しいものでも、嘲笑すべきものでもないと思うのです。

アインシュタインに、レイチェル・カーソン、南方熊楠や、宮本常一。
ジャンルは違えど、多くの人々が共通して育み、伝えてきた感覚、センス・オブ・ワンダーを意識して生きることは、重要だと感じます。


日常と自分自身に、ほんの少しの神聖さへの意識を。

日本中が祈りに包まれた一日の午後、そんなことを考え過ごしていました。

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