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ダム関連
大西暢夫さん

水になった村 大西 暢夫 情報センター出版局 2008 amazon 購入
大西さんが1998年に出された「僕の村の宝物―ダムに沈む徳山村 山村生活記」にその後の徳山村での出来事を追記している。
ご存知に様に既に徳山村は湖になってしまった。そしてその歴史は神山監督の「ふるさと」大西監督の「水になった村」で映像としても記録されている。あまりにも切ないそして考えさせる歴史である。
そしてこの本にも爺婆達の凄く良い表情と凄く切なく悲しい姿がモノクロで埋め込まれている。
大西さんの写真は「山里にダムがくる」で初めて見て、多くのムラになんて良い爺婆の顔があるんだろうと思っていた。その後、増山たづ子さんの写真集なども見せていただいたが、徳山村の爺婆の表情もまた素晴らしい。心が顔に表れるのだ。

ムラを壊していく我々は一体それ以上のモノを得られるというだろうか。

山里にダムがくる 菅 聖子 文、 大西 暢夫 写真 山と渓谷社 2000
北海道から九州までの9箇所のダム建設の現場でルポ。
本当に必要なダムや堰堤ってどのくらいあるのだろう。代替案はないのだろうか?
自然の恵みで生かされている人間がその母なる大地の森林を切り刻み、人間で言えば消化管のはずの川を一方的に堰き止める。
是非本書の写真だけでも見て欲しい、建築計画のある地域の爺ちゃん婆ちゃんの顔を。
都会の人の顔と違うよ。凄くいい顔している。それに眼がねをかけている人は殆どいない。
自然は人間の心も作り出す、そしてそれが顔に現れる。

僕の村の宝物―ダムに沈む徳山村 山村生活記 大西暢夫 情報センター出版 1998
写真家である大西さんが、徳山村に通って、ダム建設が決まり村人が移転しても、そこに住み続ける爺婆達との交流をまとめたエッセイ。
すでに大西さんの写真集や徳山村以外の作品も見ていたが人の表情を撮るのが実に上手と言うか素直な感じがする。
今回は徳山に通う中で、そこに住み自然と共に生きてきた村人の生活を共有することで得た大西さんの心の叫びであろう。
ダムにより我々は何を得て、何を失ったのか?
徳山の爺婆は失うものばかりだったのではないだろうか?お金などで買えない自然の恵みの中で生活するものにとっては。
お金なんか無くてもそこに人に迷惑をかけることのない幸せがあったのだ。


故郷 増山たづ子 じゃこめてい出版 1983
図書館本
副題:私の徳山村写真日記

ピッカリコニカで記録した春夏秋冬。
凄い。鳥肌が立ち、涙が出ました。
普通のおばさんが村人や風景を撮っているだけなんです。でも、どうしてこんなに凄いんでしょうか。人の顔は生き生きとしています。肉体労働をして疲れていても、こんなに素晴らしい顔。肉体労働だからでしょうか?都会よりは大分遅れた過疎の地域でしょう。ダムに沈む村でしょう。でも、人間が生き生きとしています。

徳山村は戦時中、疎開の人々が来ても飢える事はなかったそうです。森や渓流が自然の恵みを人々に与えてくれたのです。


ありがとう徳山村―増山たづ子写真集 影書房 1987
図書館本

写真は本当は魂まで写せるのでしょう。撮る側も撮られる側も自然の中にいると、こんなにも美しくそして悲しみが画像に表れるのでしょうか。この写真集が出版されて20年が経っています。増山さんも昨年亡くなられています。しかし、徳山村の風景、人々は今も多くの人の心の中に行き続けているます。ダムで村が消滅しようとも。
下流域で種々の恩恵を受け続けているおいらは、徳山の人々に何の恩返しが出来たのだろうか?補償費と言う税金からのお金だけで、素晴らしい歴史も風景も民俗も買えるのだろうか。
涙が止まりません。
画像は増山さんの友達の「木」 自然と会話が出来る人でもありました。
ちょっと大きいですが、文章も読んでいただければ幸いです。

この本もすでに絶版の様ですが、増山たづ子 徳山村写真全記録 はまだ購入できるようです。

国が川を壊す理由(わけ)―誰のための川辺川ダムか 福岡賢正 葦書房 1996

誰のための公共事業か 高橋ユリカ 岩波ブックレット 2000
図書館本

高橋ユリカ(1956-2014)水俣病との出会い(原田医師ら)が、環境問題や川辺川周辺の農民の皆さんと係るきっかけ。

熊本の川辺川ダム利水裁判 本書が出た後に勝訴

2000年9月8日、熊本地方裁判所は原告農家敗訴
同月22日、原告農家の9割は控訴
2003年5月16日一審判決を変更して利水事業・区画整理事業について取消すとの判決を下した。
上告断念
2008年に蒲島郁夫・熊本県知事が劇的な「川辺川ダム計画白紙撤回」宣言

本書ではいかに川辺川ダムが農民のためでも地域住民のためでもないと言う事が地道な取材で明らかにされている。そして、行政の卑劣なやり口も。

備忘録メモ
1996年裁判開始 梅山団長 意見陳述「公共事業の美名のもと農家の心を踏みにじって強行されようとしている国営川辺川土地改良事業は、下筌ダム闘争の室原さんの言葉を借りますが、「理にも、情にも、法にも叶って」いない。起業者である国が地方自治行政機関に介入して、住民を蔑にした官・政・業癒着の農民不在の事業計画であります。故に、あえて提訴に踏み切り農民の真の声を法廷に評価して頂きたい」

需要よりも工事さきにありきの指摘「国が川を壊す理由」毎日新聞社記者 福岡賢正
1999年6月施行 環境影響評価法(環境アセスメント)の対象にもなっていない。

あらためて心よりご冥福をお祈りいたします。
清流に殉じた漁協組合長 相川俊英 コモンズ 2018 クラウドファンディング入手
ダムによらない治水は可能だ 
天然アユの宝庫・最上小国川を守れ! 花伝社 2017年 と合わせて読んで欲しい。

なぜ漁協組合長は自死せねばならなかったのか?
川を愛し自然を愛していた沼澤さんが。

日本全国、どうしてもダムを作りたい人、新幹線やリニアを作りたい人がいる。
北陸新幹線などは、新幹線が欲しい訳でなく工事が欲しいから話が進むと指摘した鉄道専門家が居た。
住民の命や財産のためだと根拠が不十分な費用対効果データなどを駆使して進む全国のダム計画。
それ以外にも治山ダムやら砂防堰堤等、本当に公共事業として必要なのか?単に雇用対策として
公共事業ではないかとの指摘はこれまでも多くされてきた。
そして、自然や環境は破壊されていく。
本書は綿密な資料の読み込みとインタビュー等を通じて明らかになった、地方自治と民主主義の
暗部を読者に示してくれている。これは単に一地域の問題ではなく、広く全国の地方自治体共通
の問題、そして税金の使い方の問題だと著者は指摘している。

不条理、不正が滓の様に自治の底に溜まってヘドロになって行く様である。

下筌ダム反対闘争での室原知幸さんの言葉
「公共事業、それは理に叶い、法に叶い、情に叶うものでなければならない。
そうでなければ、どのような公共事業も挫折するか、はたまた、下筌の二の舞をふむであろうし、
第二の、第三の蜂の巣城、室原が出てくるであろう。」

備忘録メモ
ダム建設生き残りのための「穴あきダム」計画
河川改修を後回し
吉村新知事(女性)はダム推進?
民主党政権下での国交省有識者会議のメンバー選定の不透明さ(今も同じ)
多目的ダムから治水ダムへの変更
川の中に設置した堰(県による)の河床上昇の可能性
漁業権更新とダム建設 メディアの忖度?
県試算の河川改修費の不明瞭さ
川は誰のものか? 流域として住民の参画が不可欠
赤倉温泉の河床問題と金山荘のクレーム(湯温低下捏造?) 賠償金 政治の関与?
忖度しない学者の排除
ダム建設最大の功労者である県職員は異例の出世
舟形町 官による支配と統制 談合
見返りとしての新孵化場
反対派の問題 上から目線 地元外の人々
川を守るだけ? 流域住民の視点の欠如
ダムで赤倉温泉は活性化しない 
山形県の7つの嘘・ごまかし
1.河川中の堰の問題
2.河川改修で温泉源を壊すというウソ
3.赤倉温泉影響調査のウソ(離反した専門家)
4.事業費試算額のウソ 小さく生んで大きく育てる方式
5.漁協へのウソ ダムと漁業権はセットでない
6.穴あきダムの構造的問題
7.穴あきダムは内水被害への根本的解決策にならない
ダム反対派の問題点 相手を啓蒙するような態度(高齢メンバー、官公労OBなど)


ダムによらない治水は可能だ 天然アユの宝庫・最上小国川を守れ!  花伝社 2017 購入
パタゴニアの支援による書籍

全国各地でダム反対運動が続いている。(石木ダムなども酷い)
論理的に破綻している計画がなぜ続くのか?
小国川漁協組合長の自死(2014年2月)からも見えてくる建設推進側の強硬姿勢。

本書では、いかに計画が杜撰であり、ダムありきで進んだ計画を検証している。
そして、穴あきダム(流水型ダム)による自然破壊の危険性を指摘している。

私たちは自然を征服したりてなずける事など出来ないのだ。
いかに自然を利用させてもらうか、自然災害をいかに自然破壊しないで防ぐ事が出来るのか。
コンクリートで固めるだけのダムで治水が出来ると思っている事自体が人間の愚かなおごりである
あることをそろそろ認識しても良い時代だと思うのです。

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