見出し画像

「同時代」の絵—有原友一の絵画

 2020年6月21日日曜日、両国のART TRACE GALLERYで開催されている有原友一の個展「ふるまいとピント」を見に行く。展覧会を見に出かけるのは実に四ヶ月弱ぶりで、電車に乗るのも同じく四ヶ月弱ぶりだった。その四ヶ月弱=100日超のあいだに何があったのかと言えば、言うまでもなく新型コロナウイルスの流行であり、それを受けて発せられた緊急事態宣言に基づく外出自粛の要請である。自分がこの数ヶ月間、居住区域の外には出ず自宅に引きこもっていたのもウイルスへの感染と拡散を恐れての「自粛」のためだったわけだが、それは理由の半分で、もう半分はパンデミックになんら関わりのない個人的な事情に拠っていた。なんにせよ、自分の人生においてこれだけの長い期間展覧会を見ずに過ごしたことは、少なくともここ四半世紀はなかったことなのだ。

 会場へは最寄りの両国駅ではなく都営新宿線の森下駅から歩いて行ったのだが、ギャラリーまでの道のりは人影もまばらで、表の大通りを除けば車もまったく走っておらず、閑散とした風景だった。ここらは休日はいつもこんな感じだっただろうか。自分の住んでいる街の外に出ること自体が久しぶりなので、なにが平常なのかうまく感覚がつかめない。ギャラリーに着くと感染予防のために入口の扉は開け放たれたままで、やはり普段とは違った非常時での開催を実感する。

 有原の絵を見るのは前回の個展以来で、二年ぶりである。しかし「二年ぶりに見る有原友一の絵」である前に、やはり「数ヶ月ぶりに目にする絵画作品」としての感慨が先に立って、最初はただ「やっぱり絵画はいいなぁ! このアナログな面白さは他では得難いよ!」と手もなく感動してしまった。状況としては東日本大震災の直後に、再開された美術館で初めて絵画を見たときと似ているかもしれない。とにかく絵画や美術に飢えていたのだろう。しかし先の震災と今回のパンデミックでは災禍の種類が異なり、そこで見た絵画もまた全くの別物なのであった。そして今回の場合で言えば、有原友一の絵は「絵画っていいなぁ」で単純に済ませられる絵ではないのだ。というのも、そもそも自分はそれが本当に「絵画」であるのかどうかさえ、確信が持てないのである。

 有原の絵はキャンバスに描かれた絵の具の筆触の集積によって出来ている。一枚の絵で使われている色数は、基調となるカラーとグレー系の色で合わせてだいたい四、五色程度ではないだろうか。それが画面上でかすれ、重なり、豊かな色面を構成している。筆触は画面全体にオールオーヴァーに広がるが、キャンバスの下地が見えなくなることは稀である。画面に置かれた筆触は、ただ筆触としてのみ存在し、それらがなんらかの像を結ぶことはない。カテゴライズすれば抽象絵画ということになるのだろうが、しかしそれらがなにかの「抽象」であるとも思えない。あくまでそこにあるのは「キャンバスに置かれた絵の具の筆触の集積」であり、それが”なぜか”絵画に見えてしまうような、そんな「絵画/非絵画」のギリギリの境界線上で成り立っているような絵なのである。

 キャンバスに置かれた筆触の集積が「絵画」に見えたり、見えなかったりするというのは、いったいどういうことか。それは何に拠っているのだろうか? 思うにキャンバスによる矩形の内で筆触が織りなす調和=ハーモニーが「もうこれ以上は一筆も手を入れられない」という飽和の状態に達したとき、その極限の緊張感を我々は「完成」の状態と呼び、その調和の状態にこそ「絵画」を感じるのではないか。もちろん未完成の状態からずっと「絵画」であり続けるような絵もあるだろう。しかし有原の絵は違う。「完成/未完成」の状態がそのまま「絵画/非絵画」や「作品/非作品」に繋がるような、そんな絵であると自分は考えるのである。

 しかし、どうもそれは間違っているらしいのだ。というのも「もうこれ以上は一筆も手を入れられない」どころか、有原は一度展覧会に出品した絵を、展示が終った後も引き続き「延々と描き続ける」のだと言うのである。この話を始めて聞いたときはほんとうに驚いた。では我々が展示で見ているものは未完成の「途中の絵」なのか? それとも制作の過程で画面の調和が飽和するタイミングがいくつも存在して、我々はたまたその一つの状態を展覧会で見せられているに過ぎないということなのだろうか。しかし仮にそうだとしても、作者はなぜ「その完成」に満足せず、次の調和状態を目指して同じ絵にまた筆を入れ始めるのか?

 有原の絵を見るという体験は、いつも自分に「絵画」という概念自体への再考を迫ってくる。そもそも「もうこれ以上は一筆も手を入れられない」という画面の緊張感のなかに自分が感じる「絵画」とはなんなのか。それは画面の調和の状態が醸し出す「美しさ」に過ぎないのだろうか。だとしたらその場合の「美しさ」が意味するのものは何か。単なる視覚的な愉楽に過ぎないのか。それともそれを超えた何かがそこに含まれるのだろうか。そして「絵画/非絵画」の境界線上で成り立っているような絵を「延々と描き続ける」というこの画家にとって、「絵を描く」という行為はどのような意味を持つのか?

 有原の絵を見るたびに、そこで得られる解答はいつも異なる。今回の展示を見て新たに思ったのは、この作者は絵を描くことで「考えている」のではないのか、ということだった。つまり有原は色彩と筆触を使って「思考している」のではないか。たとえば今、自分はこの文章を書きながら言葉で思考している。それと同じように、彼はキャンバス上で筆と絵の具を使って「考える」のではないか。彼の絵は思考の実践の場であり、その軌跡なのではないだろうか。

 おそらくその「思考」には、描くことで思考する方法自体への模索も含まれるのだろう。絵画の歴史を踏まえたより汎用的な「絵画的な言語による思考法」といったものの影響も感じるが、今回の展覧会では特にそうした美術史的な方法論からも離れ、ただ目の前にあるキャンバスと絵の具の筆致のみでゼロから「考えている」という印象のほうが強かった。そして有原の絵が思考の場でありその痕跡なのだと考えれば、作者が展覧会後も同じ絵に筆を入れ続ける意味も理解できるのだ。つまり彼は展覧会が終了した後も、引き続きその絵で「考え続けていきたい」ということなのだろう。調和の状態の飽和=「完成」が目的なのではなく、「思考すること」自体が描く動機なのだと考えれば納得がいく。

 そして有原が絵を描くことで「考えている」のではないかという気付きを得たのが、他ならぬ今回の展示であったことも、ひとつの必然だったように思うのである。今回の個展の出品作は制作年が全て2020年で、タイトルは「全て未定」だった。展示されていた作品の全てが今年に入ってから描き始められたとは思えないのだが、少なくとも全ての絵が最近まで手を入れられ続けていたことは事実なのだろう。つまりこれらの作品は今年に入ってからの作者の「思考」でもあるのだ。本展は当初四月上旬に開催が予定されていたのだが、新型コロナウイルスの感染の拡大と自粛要請を受けて二ヶ月会期がずれ込んで、六月になってようやく開催されたのだった。その延期された二ヶ月の間に作者が作品に手を入れ続けたのかどうかはわからないが、それでも今回の作品の全てに2020年の前半、すなわちパンデミックによる非常時のもとにおける作者の「思考」が織り込まれていると考えて間違いはないだろう。

 そのことに思い当たったとき、当初は久しぶりに目にする絵画の豊穣さに癒されるような気持ちでいた作品が、なんだか急に息苦しいものに感じられてきた。その息苦しさはまぎれもなくこの数ヶ月間、自分が感じ続けてきたものと同じだった。つまり自分は有原の絵に、新型コロナウイルスの蔓延という非常時のなかでの作者の「思考」の軌跡を認め、そこに先の見えない不安のもとに過ごしてきた同じ時期の自分の人生を重ねて息苦しくなったのだろう。

 もちろんパンデミックという汎的な状況の中でも、人の数だけ異なる事情や状況があり、有原と自分では置かれた環境も抱える問題も異なっていたはずだ。巨大な災害は一時的に人々を一体化させるが、やがて置かれた状況の差が顕在化していき、その乗り越え難さへの気付きがかえって人を孤独にする。それは先の震災でも、今回のパンデミックでも同じである。ゆえに自分が2020年という制作年表記からその絵が描かれた際に作者が置かれていた状況を推測し、同じ時代を生きたものとして共感したという”だけ”の話であれば、その場合に対象となる絵画はどんな絵でも構わないのかもしれない。自身の個展開催を前にしてウイルスの蔓延という非常事態を迎えた作者の動揺は想像に余りあるが、実際のところはわからない。汎的な状況のみを理由とした共感には限界がある。

 しかし時代の空気を反映した息苦しさと同時に、自分は有原の絵から個別の状況を超えた同時代を生きる他者への強烈なシンクロ感をもまた感じたのである。そしてその「共感」は、作者の置かれていた状況への思いではなく、作品それ自体にこそ起因していたように思うのだ。

 では自分は有原の絵画の何に反応して、そこに「同時代を生きる他者」の姿を見たのか。例えば「画面に置かれた筆致から作者の制作時の感情が伝わってきた」といったような表現主義的な解釈も可能だろう。しかし有原の絵の佇まいは表現主義には程遠い。作者の感情がなんらかのかたちで織り込まれているとしても、それが直ちに伝わってくる種類の絵ではない。むしろそのような「直接的な伝達」を拒絶して成り立っているような絵画なのだ。だからこそ自分は彼の絵に作者の「感情」ではなく「思考」の痕跡を見るのである。

 つまり自分が共感したのは、有原の絵画の「在り方」そのものなのだ。他人への伝達や共有を目的にするのではなく、ただひたすら自分一人が「考える」ために延々と描き続けられるその「孤独」に、この数ヶ月間の自分の孤独が、さらに言えばパンデミック下で他者と隔絶された世界中の多くの人々の孤独への想像力が接続したのである。それは同じ時代のもとに生きていることへのシンパシーというよりも、同じ時代、同じ災禍のもとに生きながら、各自は「隔たっている」ことへの共感なのだった。その隔たりの向こう側に、同じ時代を生きる他者の気配を感じたのだ。そしてそれはオンライン上の繋がりなどとはまったく別種の、閉ざされ隔てられた異なる地点を、異なる人生を超えて、同時代を生きる他者と「繋がった」感覚なのだった。

 今回の出品作のうち大作三点には値段が明記されておらず、そこに展覧会終了後も引き続き「描き続けよう」とする作者の意志を見てしまう。確かに今回の展示では小品ほど「もうこれ以上は手の入れようがない」という「完成」の状態に近く、大作の三点がもっとも「未完成性」を感じさせるのだった。そしてその未完成性、つまり展示終了後もさらに「描き続けられていく」気配こそが、本展のうちでもっとも自分に強く「同時代」を感じさせたのだ。しかしそれも当然だろう。緊急事態宣言は解除されたものの、ウイルスの流行が今後どのように推移していくかは誰にもわかっていない。事態はまだ続いているのだ。故に作者は、展示が終った後も引き続き「考え続けていく」必要があるのだろう。

 今後これらの絵が再び描き続けられ、今の状態から変化してしまったら、今回の展示で自分が見た現在の同時代感は消えてしまうのかもしれない。その意味では有原の絵は時代の記録ではない。「同時代」に在り続けることで、その記録的な価値は失われるからだ。もしかしたらその時間的な堆積は、画面の中に残り続けるのかもしれない。それが最終的に「絵画」としての見え方の厚みに繋がるのだとも考えられる。しかし作者にとってそれよりも重要なのは、あくまで筆と絵の具を使って「考え続ける」ことなのではないだろうか。完成された「思想」ではなく、あくまで現在進行形の「思考」として有り続ける絵。有原の絵画は、そんな絵なのではないか。今回の個展では、そんなことを考えさせられた。

 パンデミックはまだ終わっていないし、先の見えないことから来る自分の不安も一向に治まる気配を見せない。しかしそんななかで有原の絵に見た現在進行形の「思考」のかたちは、今ここにある自分の孤独を少しだけやわらげてくれた。


*展示情報 
有原友一「ふるまいとピント」
会期:2020年6月7日–26日
会場:ART TRACE GALLERY
住所:東京都墨田区緑 2-13-19 秋山ビル1F
URL:http://www.gallery.arttrace.org/202004-aihara.html


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?