水野 亮(3)

絵を描いています。 https://www.drawinghell.com

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最近の記事

壁と絵画ー境澤邦泰の絵に見る絵画の複時性

 2024年2月23日金曜日(天皇誕生日)、両国のART TRACE GALLERYで展覧会「壁と絵画」を見た。「壁と絵画」は画家の境澤邦泰と批評家の松井勝正による企画で、境澤の絵画の展示、松井と境澤の論稿が収録された冊子の出版、会期中に開催されるトークイベントの三つの柱で構成される。冊子は会場で無料で配布されていて、pdf版をwebページからダウンロードすることもできる。展示だけ見ると境澤の個展のようにも思えるのだが、敢えて松井との連名の展覧会としているのには意味があるのだ

    • 創造と発生のあいだ―「豊嶋康子 発生法─天地左右の裏表」

       先日、東京都現代美術館で開催中の豊嶋康子の大規模個展「発生法─天地左右の裏表」を見た。初期作品から新作までおよそ500点にのぼる膨大な作品が、時系列にこだわらないかたちでひとつのインスタレーションとして展開されている。作家の全貌を掴むには絶好の機会で、新たな発見や気付きもあった。印象に残る展覧会だったと思うのと同時に、しかし違和感が残る部分もあった。そのことについて考えてみたい。 「創造」と「生成」と「発生」 東京都現代美術館では豊嶋康子展と同時にMOTアニュアル2023

      • 世界の片隅から月へと向かう―恵比寿映像祭2024「月へ行く30の方法/30 Ways to Go to the Moon」

         2024年2月2日金曜日、東京都写真美術館へ恵比寿映像祭2024の展示を見に出かける。今年で16回目の開催となる恵比寿映像祭(通称エビゾウ)は、インフルエンザにかかって見られなかった初回を除き、その後の展示は欠かさず毎年見ている。ただ昔に比べるとエビゾウも随分変わったという印象だ。以前は展示を見るだけでも一日がかりの大イベントという感じだったのだが、近年は予算額の縮小を憶測させるような地味な内容の年も多く、今年の展示も午前中だけであっさりと見終わってしまった。「年々地味にな

        • 「絵画」とマテリアル―小山維子の紙の絵

           2023年10月21日土曜日、調布で5回目の新型コロナウイルスワクチン予防接種を済ませた後、府中まで足を延ばしてLOOP HOLEで開催されていた小山維子の個展「In Molt」を見た。この作家の個展を見るのは、これが二回目である。前回、2021年にSprout Curationで見た「衝突/抱擁」では、出品作はすべてキャンバスに描かれた油彩画だった。今回の展示の特徴は、紙を支持体として描かれた作品のみで構成されていることである。  作品はフレームには入れずに、すべて壁に

        壁と絵画ー境澤邦泰の絵に見る絵画の複時性

          デイヴィッド・ホックニー展(二回目)鑑賞メモ

          先日、二度目のデイヴィッド・ホックニー展の鑑賞のために東京都現代美術館を訪れた。正直なところ、一度見れば十分な気もしていたし、時間が経つにつれて最初の熱も冷めつつあった。それでも二回見るつもりでMOTパスポートを購入していたので半ば義務的に足を運んだのだが、あにはからんや、二度目の鑑賞は初回とはまた違った印象で、むしろ今回のほうが感動は大きかったかもしれない。 以下は二回目の鑑賞で抱いた感想&新たに気付いたことのメモである。 ・初回の鑑賞では、長年画集でしか見ることができ

          デイヴィッド・ホックニー展(二回目)鑑賞メモ

          デイヴィッド・ホックニー展を見てデイヴィッド・ホックニーの絵の魅力について考える

          先日、東京都現代美術館(MOT)でデイヴィッド・ホックニー展を見た。待望の展覧会で、どのくらい待望だったかと言うと、自分はこの展覧会を35年間待っていた。「日本では27年ぶりとなる大規模な個展」と謳われているが27年前の大規模個展=1996年に同じMOTで開催された「デイヴィッド・ホックニー版画展 1954-1995」は版画が中心の展示で、自分も見ているはずなのだが正直あまり記憶に残っていない。今回も数だけ見れば展示作品の半数以上はMOT所蔵の版画なのだが、要所要所に重要な作

          デイヴィッド・ホックニー展を見てデイヴィッド・ホックニーの絵の魅力について考える

          ABSTRACTION展を見て絵画における「抽象」について考えてみた。

          先日アーティゾン美術館で開催されている展覧会「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」を見に行った。西洋美術における19世紀末から20世紀半ばに到る抽象絵画の展開を日本での動向も交えながら概観するという壮大なテーマの展覧会で、内容が濃いうえにボリュームも相当ある。絶対に外すことのできないスタンダードな作家を押さえつつ、本展独自のマニアックな選択も随所に見える(一例を挙げれば日本の具体美術協会を紹介するセクションでは定番の吉原治良、白髪一雄、村上三郎、元永定正などをキッチ

          ABSTRACTION展を見て絵画における「抽象」について考えてみた。

          はぐれものの武器としてのアート~Kevin Wilson『Now Is Not the Time to Panic』

          二人のティーンエイジャーが作ったアートが小さな田舎町をパニックにするケヴィン・ウィルソンの四作目の長編小説『Now Is Not the Time to Panic』(2022)は次のような話である。 1996年の夏、テネシー州の小さな田舎町コールフィールドに暮らす16歳のフランキーは、町に越してきたばかりの同い年の少年ジークと出会う。未だ『少女探偵ナンシー』を愛読書とする文学少女のフランキーは同級生たちの性的な話題の加速についていけなくなり、友達がいない。同じく引っ越して

          はぐれものの武器としてのアート~Kevin Wilson『Now Is Not the Time to Panic』

          『ネオ万葉』読解

          序あらゆる芸術ジャンルの現存する作家のなかで自分がもっとも敬愛するアーティストであるネオ漫画家横山裕一が万葉集を原作とする新作を制作していると知ったのは、たしか2018~19年頃だったと思う。当時自分はちょうどオートマティスムの手法で描いたドローイングに古の和歌を組み合わせることによって「一コマ漫画」を作るという試みをしている最中であり(後に《1(+31)》として完成)、その偶然の符号にたいへん驚き、そしてコーフンした。通常ならば制作中の自分と作品と同じようなことを他の作家も

          『ネオ万葉』読解

          「亜欧堂田善」の作り方ー没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡

          唯一無二の経歴47歳での大抜擢 亜欧堂田善の絵はヘンテコだが(もちろん誉めている)、その「ヘンテコさ」は彼の経歴を知ると納得ができる。田善の絵描きとしての経歴は彼の描く絵以上に唯一無二のヘンテコで他にはあり得ないものなのだ。 寛延元年(1748年)陸奥国岩瀬部須賀川町(現在の福島県須賀川市)の商家に生まれた田善、本名永田善吉は絵を描くことを好み師について学んだこともあったようだがそれで身を立てることはなく、50歳を目前にするまでは家業の染物屋を手伝っていた。それが47歳の

          「亜欧堂田善」の作り方ー没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡

          正気に返らせるもの―Made in Contract展評

          「考えさせるもの」と「考えさせないもの」 「NFT」という言葉には、とにかく悪い印象しかない。NFT(Non-fungible token)の存在を知った当初は「デジタルデータの商取引を可能にする夢のような技術」という華やかな印象だったが、それが「価値の不確かなものが高額でやり取りされるアヤシゲなもの」という賭場的ないし詐欺的なイメージに塗り替えられるまでにはそう時間を要さなかった。そのためバブル絶頂の頃は警戒して遠くから観察するだけにとどめ極力関わらないようにしていたのだ

          正気に返らせるもの―Made in Contract展評

          【再録】人はなぜ絵を描くのか?―熊谷守一の<写実>

           再録シリーズ第2弾。もともとは雑誌『美術手帖』が公募した第14回芸術評論に応募して落選した原稿で、2009年9月より自分のサイトで公開していた(現在は削除)。芸術評論への応募はシャレのようなものだったのだが、書くための動機が欲しかったということもある。落選も当然の拙い出来だが、これを書いたことはその後の自分の制作活動やものの考え方に影響を与えていると思うので、書いたこと自体は良かったのだと思う。  前回の再録投稿はちょっとだけ手直ししたが、これは手を入れ始めたら切りがない

          【再録】人はなぜ絵を描くのか?―熊谷守一の<写実>

          【再録】『ぐるりのこと。』に見るコミュニケーション論

           先日投稿した記事で昔のmixi日記を復元してみたら案外面白かったので、調子に乗ってもういくつか昔書いたテキストを復活させてみようと思う(見出し画像のイラストを描きたいのに書くネタがないというのが一番の理由だったりもするんだけど😅)  この文章は2013年12月に自分のサイトにアップしたもの(現在は削除)。書いた理由はよく覚えてない。単純にDVDで見て面白かったから、というだけかもしれない。映画を題材に文章を書くことは滅多にないので(というかこれだけかな?)自分としては思い

          【再録】『ぐるりのこと。』に見るコミュニケーション論

          絵と「出合い」—加藤笑平さんのこと

           2022年3月10日木曜日、出品作家の加藤笑平さんに招待されて上野の森美術館で開催されるVOCA展2022の内覧会に出かけてきた。VOCA展は初回からずっと定点観測的に見続けていたのだが、最近は観覧料を惜しんで別館の無料展示だけ見て帰る…といった年が続いていた。内覧会に招待されるのは今回が初めてである。  招待してくれた加藤さんは長崎半島の先端に位置する樺島で農耕と塩づくりをしながら自然を素材に制作を行っている美術家である。昨年熊本市現代美術館で開催された「段々降りてゆく

          絵と「出合い」—加藤笑平さんのこと

          ずれとしての「わたし」—藤本なほ子の鏡文字

           2021年3月26日金曜日、青山の表参道画廊で開催されていた藤本なほ子の個展「わたしの遺跡を見学する a visit to remains of ʻIʼ」を見に行く。自分がはじめて藤本の作品を見たのは2009年に開催された「遺跡」と題された個展で、そこで展示されていたのは他人の筆跡(ノート・日記・手紙・おえかきちょう・落書きなど)をトレースして書き写した作品だった。その超絶技巧なのかなんなのか全くワカラナイ感じが非常に印象に残った。その後も他人の筆跡を書き写した作品の展示が

          ずれとしての「わたし」—藤本なほ子の鏡文字

          すべての生は祝福される—田代一倫の写真

           2021年3月5日金曜日、目黒のコミュニケーションギャラリーふげん社で開催されている田代一倫の写真展「2011-2020 三陸、福島/東京」を見に行く。田代の展示を見るのは久しぶりだったが、自分の書架には田代の写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011~2013年』(里山社)と『ウルルンド』(KULA)の二冊があり、折に触れて手に取っている。とくに去年、心が弱って精神的にまいっていた時期に、この二冊には「救われた」のだった。そのことについて書いてみたい。 写真による「祝

          すべての生は祝福される—田代一倫の写真