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「0円」の妄想

これは、スーパー猛暑と言われた日、当時小学3年生だった娘が「お話を思いつた!」と語ってくれた物語だ。子どもの素晴らしい想像力に敬意をはらうために、書き記しておきたいと思う。細かな描写は私が加筆した。

タイトル―「0円」

その自動販売機には大きく「0円」と書かれていた。

ギラギラした日差しが降り注ぎ、息の詰まるような湿気がまとわりつく午後、一人の男がふらついた足取りで通りかかる。男は喉がカラカラに渇いて死にそうだったが、お金は1円も持っていない。

「0円?!」
見間違いじゃないかと目をぱちぱちさせながら、自動販売機に近づくと、そこにはこう記されていた。

―あなたの喜びと楽しさ以外、全ての感情をいただきます―

な……、なんだって?
男は、書かれたことを理解しようと考えを巡らせたが、暑さで頭がボーっとしているし、今はとにかく、一滴でもいいから飲み物がほしい。
それに、喜びと楽しさだけになるんだよな?馬鹿げた話だが、もし本当にそうなるなら、願ったり叶ったりじゃないか、と0円自動販売機のボタンを押した。
変わった味の飲料を飲み干すと、男は一気に活力が湧いてきた。

男には、帰れる家はなかった。

元は公務員だったその男は、かつては真面目を絵にかいたような暮らしをしていたが、今や借金まみれだった。
妊娠中の妻に頼まれた買い物ついでに、スーパーのとなりにあったパチンコ屋にふらっと入ったのが、初めてのギャンブル経験だった。そこで買い物に使うはずの1万円をすべて使い切ってしまった。
小遣い制だった男には負けた1万円を補填する現金がなく、こともあろうに消費者金融に駆け込んでしまったのだ。5万円を借りたのは、「もっとお貸しできますがどうされますか?」と言われたからだ。

男は、借りた5万円をパチンコで返そうとした。当然うまくいくはずもなく、負けては借りる、を繰り返して、借金は雪だるま式に膨らんでいった。借金が妻にバレたのは、家にかかってきた督促電話のせいだ。

妻を悲しませた後悔から、しばらくは大人しくしていた男だったが……。
ちょっとくらいなら……勝てばいいんだから……。その誘惑に負け、また隠れてパチンコをやった。そして気がつくと、借金の額は更にとんでもないことに―。

親戚や友人、知人、手当たり次第にお金を借りた。
お金を返さない男の子どもとして、娘は学校でいじめられた。
いつしか、男にお金を貸す者はいなくなり、パチンコをやるお金に困った男は、職場のお金にまで手を出した。
そして、毎日、すさまじい回数の電話がかかってくるようになったことに耐えられなくなった男は、なんと、妻と娘を置いて家を出たのだった。

1円も持たず、死にそうになっていた男を救ったのは、0円自動販売機。

喜びと楽しさ以外の感情を全て失った男は、自信と余裕に溢れ、悠々と人をだますこともできるようになった。そうして得たお金でパチンコをやり、なくなれば、また人をだました。

もちろん、罪悪感などない。

そこへ、借金取りの連中がやってくる。「やっと見つけたよ」と言って、男をボコボコに殴り、所持金を全て奪った。
「お前みたいなクズの家族じゃなけりゃ」と殴られ
「奥さんと子どもも」と蹴られ
「生きていられたのになぁ」と踏みつけられて
男は、記憶のかなたに消えかかっていた妻と娘のことを、思い出した。

殴られながらも、へらへらと笑っているので、更に殴られたが、痛みも苦しみもなかった。いや、正確には身体の痛みだけはあったが、怒りや悲しみ、恐怖、悔しさ、情けなさ、絶望といった、この状況で感じるであろう感情は、何一つ持ち合わせていなかった。

借金取りの連中が去っていくと、男はゆっくりと立ちあがり、傷だらけの身体を引きずって歩き出した。家に、帰ろう。
妻と娘が死んだって?あはは、ほんとかよ。まったく悲しくないのに、目からは涙がこぼれていた。
痛ぇ……しかし爽快だな。体の痛みすら、生きている喜びでしかないなんて!

そう思った、次の瞬間―
バタン! と倒れて、男は死んだ。

その頃、0円自動販売機の奥にある豪奢な屋敷の地下で、白髪の老人が一人、独特の静けさと生々しさを放って蝋人形のように座っていた。

彼は、天才科学者。20年前、世界を変える大発明をした。
それは、人間の喜びと楽しさ以外の感情を全て消滅させる方法だった。
「これがうまくいけば、世界は平和になり、全ての人々は一生幸福に暮らせる!」
興奮と感動に打ち震え、科学者は自分を実験台にした。

初めのうち、実験はうまくいったように見えたが、それは間違いだったとすぐに分かった。人の心の痛みや、悲しみ、弱さがわからない人間として、家族や友人たちは離れていった。
それでもしばらくは、喜びと楽しさを感じて暮らした。
しかし、2種類しかない感情はどんどん単調になり、いつしか、自分が何を感じているのか、わからなくなってしまったのだ。

こんなことになるとは……思ってもみなかった。
悲しみや、怒りや、苦しみ、嫉妬、不安……あらゆるマイナスの感情がなければ、人は幸福に生きられる……はずだったのに。

天才科学者は、自ら消滅させた感情を取り戻す研究を始めた。
その成果が、0円自動販売機によって試されたのだ。男がボタンを押した瞬間に、感情は抜き取られ、科学者のものになった。

科学者のスマートフォンが鳴る。研究対象として男を監視していた者からだ。
「そうか、かわいそうなことをしたな……」科学者は言った。
男への憐憫と、懺悔、自身の傲慢さに対する嫌悪と恐怖、そして、感情を取り戻した喜び……科学者の泣く声が、地下室に響きわたった―。

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