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家族経営企業の「家族喧嘩」に対処する方―社会学的アプローチ

家族経営の中小企業において、指揮命令系統が判然としないことは珍しくない。「社長はAと言っているが、会長(先代社長であり現社長の親)はBと言っている」「プロジェクトの是非について、社長(長男)と専務(次男)の意見が対立している」といったような話は、少なからぬ人にとって身近なエピソードであろう。

対立している当事者同士がヒートアップすればするほどビジネス上の意見対立というよりは単なる親子喧嘩・兄弟喧嘩の色が濃くなっていく。家族喧嘩に付き合わされる社員からすればとんだ災難である。

このような家族喧嘩を慢性的に繰り返している会社から「業績が上がらない」とコンサルティングの依頼を受けたことがある。第三者から見れば「そりゃ喧嘩ばかりしているからだろう」と原因は一目瞭然なのだが、当人たちは「こんなに頑張っているのに、なぜ業績が上がらないのか」と不思議がっているのが印象的だった。

後述する理由で家族経営において喧嘩問題は先鋭化しやすいが、別に非家族経営において「喧嘩が先鋭化しない」ということはない。同じような症状に陥っている経営者、そのような会社の社員、そしてそういった会社を支援する立場にある方々には、本稿が役に立つこともあるだろう。

喧嘩しているとダメな理由:コンフリクトの破滅性

そもそもなぜ喧嘩しているとダメなのだろうか?

「いい大人がみっともないから」と言ってしまえばそれまでなので、ここでは機能主義的にアプローチしてみたい。つまり、倫理や道徳によって喧嘩それ自体の是非を問うのではなく、喧嘩が組織においてどのような(逆)機能を果たしているのかに着目してみようということだ。

ここでいう喧嘩とは、コンフリクト(conflict:争い、衝突)が先鋭化した状態としてとりあえず解釈できるだろう。実は「このコンフリクトをより大規模に許容可能にするか」が組織の進化論的に重要な論点となるのだが、この点を理解するためには「組織の進化論」について最低限の説明が必要となろう。

「移ろいゆく環境に適応する」ため、あるいは「今以上の成長を望む」ということであれば、組織の進化を促進しなければならない。進化論的な意味での進化とは、「変異、選択、再安定化」の循環にほかならない。したがって、まずは「より多くの変異を可能にし、進化の契機を十分に確保すること」が焦点となる(選択と再安定化はいずれ別の記事で取り扱いたい)。

組織の変異を促進するということは、現状を逸脱する意思決定を促進するということである。逸脱が生じる過程において注意の焦点となるのは、コミュニケーションの中ですでに表明されたり、示唆されたり、予期されたりしていることだ。つまり、組織の変異においては、「これまで」を否定することで「これから」が変わる可能性が得られるのである。

多くの組織では、組織の変異は「改善」の概念で把握されているだろう。しかし、その破壊的側面を強調して「改革」概念で処理されることもある。そう、変異とは「否定」であるため、コンフリクトへ向かう傾向を有しているのである。例えば2代目社長が改革方針を打ち出せば、先代社長は過去を否定されたことになる。

コンフリクトは制御不能に陥りやすく、組織も含めた社会的なものを破壊する可能性を持っている。古い社会では、対面状況において暴力が行使される機会が今日以上に多かった。先鋭化したコンフリクト状況においては、敵対者の消滅によってコンフリクトを解消してしまうので、「2人からなる小さな社会」すら破壊されてしまう。コンフリクトを制御可能な領域に留めなければ、組織の進化は望めない。

以上をまとめよう。組織の進化においては変異が重要であるのだが、それはコンフリクトをもたらす。したがって、より多くのコンフリクトを許容できる組織でなければ、進化は期待できない。

コンフリクトを許容できない組織は破壊に至るか、コンフリクトを恐れるあまり変異を避けるようになって進化のメカニズムが駆動しなくなってしまうのだ。いまや、コンフリクトが先鋭化した状態としての喧嘩がNGな理由も明らかであろう。喧嘩の末路とは「組織の破壊」か「進化の停滞か」だからである。

コンフリクトに対処する

わざわざここまで議論してきたのは、もちろん「喧嘩はやめましょう」という道徳論で終わらない展望を得るためである。筆者は読者の身近で実際に発生している問題状況を知ることはできない(コメントを頂ければ反応するが)ので、高度の具体性を持たせた議論はできない。もしそれをすれば、具体的な状況を顧慮せずに再現性のないアドバイスで困っている当事者をたぶらかすハウツー談義に陥ってしまう。

しかし、現に社会は建設され、組織は経営されてきたことを知っているわれわれは、いくつかのコンフリクト対処の類型に学ぶことができる。人類はいかにして、「コンフリクトを先鋭化させない仕組み」を発達させ、より多くのコンフリクトに耐えられる社会を獲得できたのだろうか。

コンフリクト対処方略1:非対称性の確立

コンフリクトの当事者に圧倒的な「力の差」があれば、コンフリクトが破壊的になるまで先鋭化する可能性は低くなるだろう。また、力ある者はより多くの否定を容易に表明できるようになるため、コンフリクトそれ自体が抑圧される可能性は低くなる。すなわち、「非対称性の確立」によって、コンフリクトは対処されうる。

現代の先進国的な価値観からは眉をひそめたくなるだろう。が、それもそのはずで、これは比較的単純な「古い社会」の頃から人類におなじみの方法なのである。

家族経営においては、非対称性が判然としないことは少なくない。もちろん、職権からすれば経営実務は(名誉職としての)会長ではなく社長の専権事項であろうし、長男だろうが次男だろうが最終的な決定権は専務ではなく社長にある。しかし、「父と子」は「会長と社長」とは異なるパワーバランスをもつ関係性である。「長男と次男」も「社長と専務」とは異なっている。したがってコンフリクトが二重の関係性において争われることになりやすい。いつの間にか「社長に負ける」ことは「息子に負ける」「兄に負ける」ことを意味するようになり、個人の実存の問題になってしまう。

ここまでの議論から、「非対称性の確立」方略を真正面から試みようとすると「父と息子」「兄と弟」の関係性を非対称化せよ(=圧倒的な力の差をはっきりさせろ)、ということになってしまいかねない。古い社会では機能していただろうが、現代の家族概念とはなじまない。

ここでは、役職関係と家族関係の区別を強調し、「二重の関係性でコンフリクトを争う状況」の解消を試みるのがよいだろう。社長の最終的な判断に従うことは、親と子、兄と弟といった家族関係を傷つけるものではない(少なくとも、それを意図したものではない)とはっきりさせるのである。

また、二重の関係性状態を解消したとしても、社長と会長、社長と専務との役職自体が非対称化されていなければ結局コンフリクトが先鋭化する構造が残るため、職権の明確化が必要になることもあるだろう。

コンフリクト対処方略2:形式の規制

2つ目の方略は、コンフリクトの「争い方」に焦点を当てる。

現代社会のコンフリクトの争い方は規制されている。対立が起きても古い社会のように暴力で解決することは認められず、法律に則って裁判で争われることになる。法律があることで、コンフリクト対処方略1のように「圧倒的な力の差」に頼ることなく、強い者も弱い者も等しく「法のもとで権利がある」と主張できるようになる。裁判の形式によってコンフリクトの破滅的な先鋭化が抑制され、しかも法律がない場合よりも多くのコンフリクトを発生させることが可能になる。つまり、変異を起こしやすくなるため、進化のメカニズムが駆動する可能性が高まるのだ。これが「形式の規制」という方略である。

この方略のポイントは「ルールの存在」と「影響力のある第三者の介入」である。法律が存在すること。そして判決を決め、その厳守を強制させうる第三者としての裁判官(ないし国家権力)が居ること。両者が揃わなければ、「形式の規制」方略は機能しない可能性が高い。

家族経営企業の場合には、まずルールを明確にすべきだろう。「合理的な根拠を提示できた方を優先する」「あくまで論理的に議論する」「感情的な家族喧嘩になりそうなら、一旦議論を停止して休憩する」「多数決の結果は尊重する」「どうしても決着しなければ社長の決定に従う」などなど、具体的なルールのあり方は(法律と同様に)個別に検討する他ないが、ともかくこれが最初のステップである。

そして、誰に言われずともこのルールを遵守できる紳士淑女同士がコンフリクトを争うのであればこれだけで良いのかもしれないが、やはり望むらくは「影響力のある第三者」に介入してもらいたいところだろう。家族経営の場合は、争っているどちらの立場でもない役員や親族が居れば、彼らを頼れるかもしれない。あるいは、昔から懇意にしている税理士や、争われている事柄に関わる専門家など、社外の権威を借りてもよい。

実際、私がコンサルタントとして意思決定に関わった家族喧嘩ばかりしていた企業では、この方略を使った。私が「影響力のある第三者」の立場を堅持した結果、少なくとも私が同席している限りは効果的にコンフリクトの先鋭化を抑制し、意思決定を進めることができた。

コンフリクト対処方略3:原因とテーマの分離

上記の2つの方略に比べると弱いのだが、コンフリクトの「原因」と「テーマ」の分離を促すことも有効な場合がある。「家族療法」的なアプローチと言えるかもしれない。

「原因とテーマの分離」方略は、コンフリクト概念を操作し、争いの焦点を「原因」ではなく「テーマ」の方に誘導する。

コンフリクトの「原因」を追求していくと、究極的には「相手が自分と違う意見を持っているからだ」ということになりかねない。だがこの「原因」そのものは、現にコンフリクトが発生してしまっている構造的条件下においては解決不可能である。だからこそ、「相手を消滅させる」だとか「暴力で沈黙させる」といった、構造を破壊するような破滅的な先鋭化に至ってしまうのだ。かつてマルクスは搾取の「原因」に固執して階級という構造を問題化してしまったため、革命による、すなわち構造の破壊による解決を提起せざるをえなくなってしまった。

したがって、解決不可能な「原因」ではなく、解決可能な問題としての「テーマ」を争点にすることで、破滅的な先鋭化を抑制できる。

注意を向けるべきは、対立している相手ではなくテーマである。社長の新経営方針に会長が反対している場合、「会長」はいったん忘れて、新経営方針のどこに問題点があると指摘されているのかに焦点を当てるのだ。

ここまで読めばお分かりだと思うが、「原因とテーマの分離」は一見スマートな方略であるものの、「それができれば苦労しない」と言いたくなるような、お行儀が良すぎるきらいがある。この方略が有効に機能するのは、ある意味で高度な水準でコンフリクトを抱えているような組織に限られるだろう。

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