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「変わりたいのに変われない」を解く―組織システム論的アプローチ

変わりたいのに変われない?

うまくいっていない組織が、うまくいっていないことを自覚しているにも関わらず「変化したくない」と考えているかのようなふるまいを見せることがある。真正面から「それは現実的ではないのでは」と議論するタイプではなく、表面的には「言われたことをやります」的な姿勢を見せるタイプである。コンサルタントや支援機関の実務家にとっては、「これは苦労しそうだ」とすぐに直感される。

改善のための提案に対して、当人たちは「おっしゃるとおりですね」とか「さっそく実践したいと思います」と真面目に言っている。しかし、いつまで経っても何も行動に移されていなかったり、重要な部分を骨抜きにすることで形式だけ実践したことになっていたりと、様々な方法で無効化されているのだ。

その言い訳(本来は別に言い訳してくれなくて構わないのだが、こういう組織は言い訳にこそ熱心になる傾向があるように思われる)もバリエーション豊富で、もっともらしい理由を色々用意してくれる。「忙しい時期に重なってしまって」「〇〇という緊急事態があって」「準備に時間がかかっていて」といった系譜もあれば、「こうした方が上手くいくと思って」といったような趣旨のことを言って「アレンジ」を正当化する場合もある。

もちろん、本当に緊急事態が発生したり、準備の見通しが甘かったりして、どうしても新しい試みに取り組めなかったということはありうる。しかし、いつまで経っても変わらないようであれば、やはりこれは何らかのメカニズムによって「変化を嫌う」ようなふるまいが引き起こされていると考えた方が建設的である。

自らを書き換えていく組織

こういった問題にアプローチするためには、組織の基本的な作動のあり方を踏まえて考えた方が見通しが良さそうである。

組織は決定に決定を重ねていくことで自分自身をつくり続けるシステムだ。「採用する/しない」という決定によってメンバーの顔ぶれが決まり、メンバーになったことを前提として「この仕事を任せる/任せない」が決定される。任された方は、上司の委任決定を前提として日々の業務について諸々の決定を行っていく。あるいは、ある企画なり施策なりを「実行する/しない」が決定され、後日その決定の評価が「成功/失敗」として決定される。その評価の決定が新たな前提となり、次なる企画・施策の「実行する/しない」が決定されていく。

このように、組織は先行する決定を前提として参照しながら、後続する決定を行うことで「組織のふるまい」をつくっていく。そしてこういう自己産出的なシステムであるからこそ、後続する決定によって先行する決定の意味合いが変えられていくことにより、柔軟に変化することが可能なのである。

「リソースの無駄遣いだと思っていた事業から、大ヒット商品が生まれた」「失敗した事業だと思って畳んだら、後日その分野がブームになってチャンスを逃した」等々、先行する決定の意味が後になって変わるのは日常茶飯事である。

あるいは、意図的に意味の書き換えを起こすことで変化を起こすこともできる。「あの施策は失敗だと思われていたが、実はこういう意味で成功していた部分もあったのだ」「この商品の大ヒットは実は見せかけで、このせいで過大な業務負荷を抱えることになったのだ」等々、先行する決定の意味を書き換えることで新たな取り組み(=変化)の手がかりをつくることができる。

これはちょうど、小説やマンガの「伏線回収」と同じである。第1話で語られた主人公のセリフが、第30話での真相解明を経ることで「実はこういう意味だったのか」ということが明らかになる。先行する物語の意味が、後続する物語の意味によって、より説得力のあるものに書き換えられているのだ。

そして良い物語が上手に先行する意味を書き換えて読者を惹き付けるように、組織においても先行する決定の意味を上手に書き換えていくことで柔軟に変化を起こしていくことが重要である。

こう考えてみると、冒頭で論じたような当人たちは真面目に変化を願っているのに、結果としては何も変えられない組織とは、「意味の書き換え」が下手な組織として見えてくる。

要するに、意味が硬直的過ぎるのだ。「創業者の精神」とか「経営理念」とか、もっと素朴に「ウチの強み」とか「こだわり」とか、こういったものを上手に再解釈することができず、変化することができない。にも関わらず「変化したい」「変わらなければならない」とも思っているので、矛盾に苦しむことになる。ゆえに、適当な「言い訳のチャンス」を見つけては矛盾の解消を先送りにしたり、適当にやり過ごしたりしてしまうわけだ。

例えれば、ストレスに苦しむ個人の防衛機制のようなもの言えるだろう。

なぜ組織が硬直化してしまうのか?

では、そういうものとしてこの問題を捉えたときに、一体何ができるのだろうか。無論、問題の解決は具体的な個々のケースに応じて考えなければならない。ここでは「意味が硬直的になってしまった原因」を3つに大別して整理することで、具体的なケースに向き合う視点を提供する。実務家の手がかりになればと思う。

原因1:再解釈能力が制限されている

よい物語を書くの能力が高い作家もいれば低い作家も居るように、意味の再解釈能力には高低があると考えられる。

例えばワンマン経営が過ぎる場合、組織の再解釈能力はワンマンたる経営者個人の再解釈能力に強く依存され、制限されることになるだろう。特にその個人が完璧主義だったり、こだわりが強い傾向にある場合には、特に組織の再解釈能力は低い程度にとどまらざるをえない。

あるいは、単一的な価値観が蔓延している場合にも組織の再解釈能力は制限される。物事はいろいろな視点から解釈することができるが、それぞれの視点にはそれぞれの視点固有の「盲点」がある。どんなに筋の良い視点でも、その視点では見落とす領域がある。だから、複数の視点が必要なのだ。

かといって、いわゆるマスメディア流の「多様性」も疑問である。流通版の浅い「多様性」概念では、単一の視点の盲点を指摘するにとどまり、「では何をなすべきか?」を教えてくれないだろう。良い「伏線回収」は、同じひとつのセリフが「Aという文脈」としても「Bという文脈」としても読み取ることができて、「Bという文脈」が後出しで提示されるから面白いのである。文脈から別の文脈に移行するところが重要なのであって、文脈を破壊して支離滅裂にするのは、良い作家とはいえない。

また、ステレオタイプ思考が習慣化している場合も、再解釈能力は制限される。「〇〇さんはこういうタイプの人だから」「〇〇業界はこういうものだから」といったような言葉が頻繁に飛び交う場合は要注意であろう。

原因2:再解釈の議論が制限されている

組織として意味を再解釈するためには、それ相応のコミュニケーションを積み重ねる必要がある。

極端だが、言葉の違いを考えると分かりやすい。英語を全く理解しない日本人と日本語を全く理解しないアメリカ人からなる組織があったとしたら、そこでは意味の再解釈といったような深いコミュニケーションが行われる可能性は低い。翻訳するにしても、「日本語だけ」「英語だけ」であれば不要であったはずのコストが発生し、これもまたコミュニケーションを制限するだろう。

あるいは、メンバー間に深刻な意見対立があり、それぞれがそれぞれの立場(=視点)に固執している場合にも、建設的なコミュニケーションは制限される。

また、深刻な意見対立によって組織そのものが崩壊しないようにするために、様々な「対策」がとられることがある。繁文縟礼(=文書主義、形式主義)に頼ってみたり、あるいは「決着」を曖昧にするためにその場しのぎに徹してみたりする。いずれにしても、真剣なコミュニケーションは回避されることになる。

そして、過度の同調圧力もまた必要なコミュニケーションを制限する。仮に筋の良い再解釈を見出すことができたとしても、それを表明することができなくなるためである。そしていずれ、再解釈など行わなくなっていくだろう。

原因3:再解釈の動機づけがない

最後に、そもそも再解釈が必要だと思っていないという場合もある。現状を見直すべき対象として認識できないのであれば、何も始まらない。

これについては下記の記事でも考察しているので、参考にしてほしい。

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