『存在と時間』を読む Part.56

 第2章 本来的な存在可能を現存在にふさわしい形で証すこと、決意性

  第54節 本来的な実存的可能性の証しの問題

 最初に一点指摘しておきたいのは、この章と節のタイトルにある「証し」という語についてです。この語は原文では>Bezeugung<であり、「証明する、裏付ける」を意味する動詞>bezeugen<を名詞化したものです。第54節のタイトルは原文で、>Das Problem der Bezeugung einer eigentlichen existenziellen Möglichkeit<であり、日本語に訳すと「証し」というきき慣れない語になってしまいますが、要するにこれは、本来的な実存的な可能性を「裏付けること」の問題ということを意味しています。
 この>Bezeugung<という語はそもそも、新約聖書に登場する語であり、キリスト教において重要な意味をもっていました。たとえば、イエスが真理の「証し」としてこの世に来たと語られるように、神の言葉の真理を証明するという意味をもちます。他にも、使徒たちがイエスの言葉を人々に告げることや、裁きの場において神の前で証人となること、信徒が神と出会う経験をしたことを他者に語る言葉も「証し」とされています。このことからわかるように、>Bezeugung<は、自己と神が関係することで確信した神の真理の証明を他者との関係において語るという意味をもち、証しとは、他人や神との関係における自己を問題にする概念であると言えます。
 このnoteの日本語訳は中山訳に合わせておりますので、これ以後>Bezeugung<は「証し」と訳しますが、この語は以上のような意味をもつことを念頭においていただければと思います。

 前節で提示された予備的な問いは、現存在の本来的な存在可能を示すことができるかというものでした。現存在は本質的に頽落しているのですが、このような状態から脱出することは可能なのでしょうか。死への先駆は、現存在が自己にもっとも固有な存在可能に向けて投企することであるとされていますが、世人として頽落している現存在が、こうした存在可能に向けて投企することができるかということは、解明する必要のある問いです。それが実存的に可能であること、そしてそうした投企が現存在の存在機構に起源をもつものであることを示す必要があります。
 ハイデガーは、実存とは何かという問いにたいして、現存在が固有の自己であることこそが実存であると答えてきました(Part.8参照)。現存在は本質で語られるような存在者ではなく、実存こそが本質である存在者です。だから現存在にたいする問いは、「何」であるかではなく「誰」であるかという問いがふさわしいのでした。ところがこの「誰」という問いには、たいていはわたし自身ではなく「世人自己」であると答えられます。現存在は世界において存在しているときには、世人自己として生きているのであり、頽落した世人であることが常態なのです。

Das Wer des Daseins bin zumeist nicht ich selbst, sondern das Man-selbst. Das eigentliche Selbstsein bestimmt sich als eine existenzielle Modifikation des Man, die existenzial zu umgrenzen ist. Was liegt in dieser Modifikation, und welches sind die ontologischen Bedingungen ihrer Möglichkeit? (p.267)
現存在の〈誰が〉は、たいていは”わたし自身”ではなく、世人自己である。本来的な自己存在は、この世人の実存的な変様として規定される。これからの課題は、この変様について実存論的に画定することである。この変様のうちには何がひそんでいるのか、この変様の可能性の存在論的な条件はどのようなものだろうか。

 現存在はたいていは非本来的な自己として存在しています。そして本来的な自己は、「世人の実存的な変様」として考えるべきなのです。現存在の日常的なありかたは非本来的なものであり、本来的な実存はその非本来的なありかたの「変様」として規定されていることに注意しましょう。現存在はそれに固有の自己の存在可能から逃避し、それに眼をつぶっているのが常なのであり、本来的な自己に立ち戻るには、この日常性を打破し、そこから逸脱することが必要なのです。それでは「この変様の可能性の存在論的な条件はどのようなもの」でしょうか。

 現存在は実存を本質とする存在者ですから、あらゆる時点において、みずからどのように行動し、振る舞うかを選択し、決断する存在者です。この自己の行為の選択が、現存在の存在を決定します。さまざまな場面で、現存在が何を選び、どのような行為をするかによって、その現存在がどのような存在であるか、すなわち「誰」であるかが決まるのです。
 ところがハイデガーは、日常生活においては現存在がみずから意図して選択することはほとんどないことに注目します。それは現存在が世人のうちに自己を喪失しているからです。わたしたちは日々、何かを決定しているつもりになっていますが、靴を履く、マスクをつけるという1つの行為さえ、本当の意味での自分の選択意志による決定ではなく、他人がそうしているから、他人にそうしてほしいと願われているから、他人にそうするようにしつけられたからなのかもしれないのです。
 現実の日常生活においては、選択するのは世人なのであり、現存在のもっとも身近で事実的な存在可能はすでに決定されていると言わざるをえません。現存在がどのような課題を実現すべきものとしてみずからに設定するか、どのような規則をみずからに定めて行動するか、物事についてどのような基準を採用しているか、どのような行為を緊急なものとみなしているか、ふだんどのような活動範囲で行動しているかなど、日常的な選択のすべては、すでに世人が決定しているとも言えるのです。
 そこで決定しているのは、何か別の現存在であるよりも、もっと不可視で一般的な存在とみなすべきものであり、それをハイデガーは「世人」と呼ぶのでした。この世人は、現存在がみずから選択を下す面倒を省いてくれる存在です。

Das Man verbirgt sogar die von ihm vollzogene stillschweigende Entlastung von der ausdrücklichen Wahl dieser Möglichkeiten. Es bleibt unbestimmt, wer >eigentlich< wählt. Dieses wahllose Mitgenommenwerden von Niemand, wodurch sich das Dasein in die Uneigentlichkeit verstrickt, kann nur dergestalt rückgängig gemacht werden, daß sich das Dasein eigens aus der Verlorenheit in das Man zurückholt zu ihm selbst. (p.268)
世人は現存在から、こうした可能性を明示的に”選択する”ことの負担を暗黙のうちに免除しているだけではなく、このように負担を免除していることそのものを、現存在にたいして隠蔽しているのである。誰が「本当に」選択するのかは、規定されないままである。このように〈誰でもない誰か〉が行った決定に、みずから選択することなしにひきずられることによって、現存在は非本来性のうちに巻き込まれる。このような事態を解消して本来の状態に戻るためには、現存在は世人のうちに自己を喪失している状態をあえて抜けだして、自分自身のところに戻らねばならない。

 このようにして世人の選択に身を委せているままで毎日を過ごすうちに、「現存在は非本来性のうちに巻き込まれる」ことになります。というよりも、現存在はこうした非本来性こそが自分の本当で本来のありかたであるかのように考え始めるのであり、日常性のうちでの非本来的なありかたこそが本来的なものと思い込むようになるのです。

 それでは、現存在はどのようにして本来的な自己を取り戻すことができるのでしょうか。この問いに答えるカギは、現存在の実存(>Existenz<)というありかたです。というのも、実存というのは「外に逸脱して存在する(>Ex-istieren<)」ということだからです。実存する現存在は、つねに自己を選択する存在者であり、そのような存在者として、世人というありかたでは「”ゆるがせにしていた”」ありかたを選択することのできる存在者なのです。

Dieses Zurückholen muß jedoch die Seinsart haben, durch deren Versäumnis das Dasein in die Uneigentlichkeit sich verlor. Das Sichzurückholen aus dem Man, das heißt die existenzielle Modifikation des Man-selbst zum eigentlichen Selbstsein muß sich als Nachholen einer Wahl vollziehen. Nachholen der Wahl bedeutet aber Wählen dieser Wahl, Sichentscheiden für ein Seinkönnen aus dem eigenen Selbst. Im Wählen der Wahl ermöglicht sich das Dasein allererst sein eigentliches Seinkönnen. (p.268)
ところで現存在が自己を喪失して非本来性に陥っていたのは、ある存在方式を”ゆるがせにしていたから”であって、現存在が自分自身に戻るためには、”まさにその”存在方式をもたねばならないのである。このように世人から自己を取り戻すこと、それは世人自己を”本来的な”自己存在へと実存的に変様させるということであり、これは”選択を取り戻すこと”として遂行されねばならない。しかし選択を取り戻すということは、”この選択を選択すること”である。すなわち、みずからに固有の自己に基づいて、ある存在可能へとみずから決断することである。選択を選択することにおいて、現存在は初めてみずからの本来的な存在可能をみずからに”可能にする”のである。

 実存するということはつねに、「自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身の可能性から、自己を理解している」ということです(Part.2参照)。みずからを、今あるとおりのそのままの自己から理解するのではなく、自分自身の存在可能から理解するのが実存するということです。現存在は実存する存在者として、つねに自己のありうべき存在可能から自己を理解しようとしますから、世人から本来的な自己に立ち戻ろうとすることのできるはずの存在者なのです。「このように世人から自己を取り戻すこと、それは世人自己を”本来的な”自己存在へと実存的に変様させるということ」なのです。
 これをハイデガーは、「”選択を選択すること”」と呼びます。選択することを、世人に任せるのではなく、みずから選択する姿勢を取り戻すこと、それは選択できる存在であることを選択すること、すなわち「選択を選択すること」なのです。それによってはじめて、現存在は「みずからの本来的な存在可能をみずからに”可能にする”」ことができるのです。
 このように世人自己から離れた自己の本来の存在可能に立ち戻ろうとすることは、現存在の実存のありかたによって規定された本来の現存在の存在様式そのものであるはずです。しかし世人のうちに生き、実存を放棄して非本来的に生きている現存在は、どのようにして本来の実存を取り戻すことができるのでしょうか。世人から目覚め、本来的に実存するためには、「選択を選択すること」を可能にするような、何かそのようなものが現存在にはそなわっていなければならないはずです。

Weil es aber in das Man verloren ist, muß es sich zuvor finden. Um sich überhaupt zu finden, muß es ihm selbst in seiner möglichen Eigentlichkeit >gezeigt< werden. Das Dasein bedarf der Bezeugung eines Selbstseinkönnens, das es der Möglichekeit nach je schon ist. (p.268)
しかし現存在は世人のうちにすでに自己を”喪失して”いるのだから、その前にまず自分を”みつける”ことが必要である。しかしそもそも”みずからを”みつけるためには、現存在がその可能な本来性において、現存在自身に「示されて」いなければならない。”可能性”においては現存在はそのつどすでに自己で”ある”のだが、そのような自己でありうることを現存在は〈証す〉必要があるのである。


 そこで登場するのが「証し(>Bezeugung<)」という概念です。冒頭で紹介したように、証しとは、他人や神との関係における自己を問題にするものであり、自己のうちでの確信が、自己ではないものの前において、その相手に納得できるものとして、さらけだされるという意味をもちます。本書の枠組みにおいては、このことは2つ意味をもちます。第1は、日常性において現存在が日常性から離脱する可能性をそなえていることが、自己の内的な確信として、他者に示されるべきであることです。第2は、それが「証し」であるためには、それがたんに自己のうちの確信のようなものとしてあるだけではなく、それが他者にも納得のできるものでなければならないということです。神を信じていることを1人で確信しているのではなく、それを他者にたいして「証し」として示し、それが他者の理解できるようなものであることが求められるのです。
 ハイデガーの「証し」という言葉も、この2つの意味において語られます。まず現存在は、日常生活においては非本来的な生き方をしているにもかかわらず、この自己における本来的な存在可能を選択する可能性をつねにそなえていることが、みずからにたいして示される必要があります。それが可能であることを示すためには、その可能性が偶然的なものではなく、現存在の日常性のうちにすでにそなわっている必要があります。
 同時に、現存在は世人として存在するために、この存在可能を選択していないのがつねですが、現存在はこれを選択する可能性をそなえていることを、他者に理解できるように示す必要があります。その可能性が、現存在がふだん送っている日常生活にみられる何らかの一般的な現象によって示されるべきなのです。
 ハイデガーの考察は、この”自己における証し”と”他者にたいする証し”という2つの側面で進められます。それでは、この「証し」とは何でしょうか。

Was in der folgenden Interpretation als solche Bezeugung in Anspruch genommen wird, ist der alltäglichen Selbstauslegung des Daseins bekannt als Stimme des Gewissens. Daß die >Tatsache< des Gewissens umstritten, seine Instanzfunktion für die Existenz des Daseins verschieden eingeschätzt und das, >was es sagt<, mannigfaltig ausgelegt wird, dürfte nur dann zu einer Preisgabe dieses Phänomens verleiten, wenn die >Zweifelhaftigkeit< dieses Faktums bzw. die seiner Auslegung nicht gerade bewiese, daß hier ein ursprüngliches Phänomen des Daseins vorliegt. (p.268)
以下の解釈においてわたしたちがそうした〈証し〉として考察するのは、日常的な現存在の自己解釈では”良心の声”としてよく知られているものである。良心が存在するかどうかという「実際のありかた」をめぐってはさまざまな議論があるし、現存在の実存において良心という審級がどのような機能をはたしているかについても、さまざまな評価がある。そして「良心が何を語るか」についてもさまざまな解釈がある。わたしたちはこの良心という現象を解釈するのを放棄したくなるほどである。しかしこれを放棄する前に、良心という事実の「疑わしさ」こそが、そしてこの事実の解釈の「疑わしさ」こそが、そこに現存在の”根源的な”現象がひそんでいることを”証明している”のではないかと調べてみるべきなのだ。

 現存在が自己の本来的な存在可能に立ち返る可能性をそなえていることを「証し」するものとは、「良心」です。ハイデガーが自己の本来的な存在可能を選択する現象として良心をとりだすのは唐突で、証しが必要であることは明らかですが、それが良心であることはどこにも説明されていません。しかしハイデガーは、そのことの説明はいわば自明なものとみなしています。
 良心という現象は、説明が困難であるとともに、自明なものです。たとえば善という概念は、それが何かということについて定義しつつ議論される必要があり、定義された後に考察されるものです。しかし良心という概念は、誰もが自分の心に耳を傾ければ理解できるものであり、誰もが知っているはずのものです。自分に問い掛けてみるなら、何が善であるかを定義できない人でも、良心に痛みを感じたことのない人はいないでしょう。それは「何であるか」を説明されるべき事柄であるよりも、「なぜそこにあるのか」を説明されるべきものです。それはいわば、誰にとっても周知の「事実」なのです。
 ハイデガーは、この良心とは現存在にそなわる「事実」であると主張します。

Das Gewissen ist als Phänomen des Daseins keine vorkommende und zuweilen vorhandene Tatsache. Es >ist< nur in der Seinsart des Daseins und bekundet sich als Faktum je nur mit und in der faktischen Existenz. (p.269)
良心は現存在の現象であって、現前してときおり眼前に存在するような実際のありかたではない。良心は、現存在という存在様式だけにおいて”「存在する」”のであり、そのつどその事実的な実存によってのみ、そのつどその事実的な実存において、事実として告げられるのである。

 この事実(>Faktum<)という概念は、歴史的な事件や事柄(>Tat<)の発生のような客観的にその正しさが確定できる実際のありかた(>Tatsache<)ではなく、現存在にとって否定することのできないものとして、そこにあるということを語る概念です。それは現存在について考察したときに、演繹したり証明したりする必要のない自明なものとして存在するものなのです。
 良心がこのように現存在にとっての事実であるという考え方は、明らかにカントの『実践理性批判』における「理性の事実」という概念に依拠したものです。カントは人間がみずから法則を定め、それに従う道徳的な存在者であることを「理性の事実」として前提したのであり、そのことを正面する必要はないと考えました。ハイデガーも同じように、人間に良心がそなわることは「事実」であり、証明する必要のないことだと主張します。
 そのことはキリスト教の伝統においても、哲学の伝統においても、良心がさまざまに探究され、「〈良心が何を語るか〉についてもさまざまな解釈がある」ことを考えると、異様に思われるほどです。このような解釈の多様性は、良心の概念のゆらぎを示すものだからです。しかしハイデガーはこれとは反対に、「良心という事実の〈疑わしさ〉こそが、そしてこの事実の解釈の〈疑わしさ〉こそが、そこに現存在の”根源的な”現象がひそんでいることを”証明している”」と考えるべきだと主張します。
 ハイデガーは現存在であるわたしたちが、自己について省みるなら、この現象の存在をつねに確証できること、他者の行動の分析からも、この良心の存在が普遍的に確認できることから、この現象を現存在の「開示性」において捉えなおす必要があると考えます。

Das Gewissen gibt >etwas< zu verstehen, es erschließt. Aus dieser formalen Charakteristik entspringt die Anweisung, das Phänomen in die Erschlossenheit des Daseins zurückzunehmen. Diese Grundverfassung des Seienden, das wir je selbst sind, wird konstituiert durch Befindlichkeit, Verstehen, Verfallen und Rede. Die eindringlichere Analyse des Gewissens enthüllt es als Ruf. Das Rufen ist ein Modus der Rede. Der Gewissensruf hat den Charakter des Anrufs des Daseins auf sein eigenstes Selbstseinkönnen und das in der Weise des Aufrufs zum eigensten Schuldigsein. (p.269)
良心は「何か」を理解してほしいと告げる。良心は”開示する”のである。この形式的な性格づけによって、この現象を現存在の”開示性”の1つと捉えなおすべきであることが指し示される。わたしたち自身がそのつどみずから現存在なのだが、この現存在の根本機構は、情態性、理解、頽落および語りによって構成されている。良心をさらに詳細に分析していくと、それが”呼び掛け”であることがあらわになる。呼び掛けは”語り”の1つの様態である。良心の呼び掛けは現存在に、そのもっとも固有な自己の存在可能に向かうように”呼び起こす”という性格があり、現存在にそのもっとも固有な〈負い目存在〉へと”呼び起こす”というありかたで呼び掛けるのである。

 良心は、現存在のありかたを開示する1つの実存カテゴリーであり、その存在を証明する必要のないものとされています。このように良心が存在するという事実こそが、現存在が自己に固有の存在可能を選択することができる存在者であること、世人から離脱して実存することのできる存在者であることを「証し」するのです。

 次に必要なのは、良心がたんに現存在のうちに事実として存在することを示すだけではなく、他者との関係において、すなわち日常性における世人との関係についても、良心が疑いえないものとして存在し、それが世人の支配を覆す力をそなえていることを「証し」することです。
 そのためにハイデガーはまず、良心という現象の根本的な性格を、たんなる自己への呼び掛けではなく、他者との共同存在における現存在の生のありかたを問い掛ける「語り掛け」として規定します。良心は、その心の持ち主に何かを語り掛けることを特徴とするのであり、自分の行為を省みるように促し、その人の心のありかたを、そしてその人が本来あるべきありかたを示そうとします。「良心は”開示する”」のです。この良心の開示という性格のうちに、良心にはたんに自己との関係だけではなく、他者との関係が含まれていることが示されているのです。
 ハイデガーはすでに現存在の開示のありかたとして、2組の構造を提起してきました。1つは現存在の実存に依拠した開示性であり、「情態性、理解、語り」という構造であり、もう1つは現存在の日常性に依拠した存在論的な開示性であり、これは「曖昧さ、好奇心、世間話」という構造でした。これは世人に依拠した開示性であり、全体として「頽落」と総称されてきました。この2組の構造を合わせてハイデガーは、この開示性の根本機構が「情態性、理解、頽落および語りによって構成されている」と語っています。ハイデガーは第1の構造の3つ契機である「情態性、理解、語り」に、第2の構造の総称である「頽落」をつけくわえて示します。良心と開示性におけるこの構造を明らかにするのが、次節以降の節の役割です。


 今回は以上になります。この節では、『存在と時間』の中でも有名な概念である「良心」が、本来的な存在可能の「証し」として提示されました。次回以降、この現象が主題にあげられ、その「呼び掛け」の性格が考察されることになります。

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