『存在と時間』を読む Part.32

  第33節 解釈の派生的な様態としての言明

 これまでで、「あるものをあるものとして」解釈すること、その「として構造」と、その前提となる理解における「予ー構造」としての「予持、予視、予握」の構造が解明されました。この理解は、すでに考察されてきた情態性とならんで、現存在の根本的な存在様態です。ハイデガーは、内存在の考察の基本的な構成を示したところで、<そこに現に>であることを等根源的に構成する2つのありかたとして「情態性と理解」をあげた後に、第3の等根源的なありかたとして「語り」をあげていました。
 ここでハイデガーは、「語り」ついての考察に移る前に、理解の派生的な様態として、言葉を使う「言明」について考察します。言明が考察される理由は、解釈学的な循環の考察において、「意味」という概念が提示されたためです。ハイデガーは「意味」の概念を定義して、「理解による開示のうちで分節することのできるもののことを、わたしたちは意味と呼ぶ」と語っていました(Part.31参照)。

Alle Auslegung gründet im Verstehen. Das in der Auslegung Gegliederte als solches und im Verstehen überhaupt als Gliederbares Vorgezeichnete ist der Sinn. Sofern die Aussage (das >Urteil<) im Verstehen gründet und eine abgeleitete Vollzugsform der Auslegung darstellt, >hat< auch sie einen Sinn. (p.153)
すべての解釈は理解に基づいている。解釈において構造化されるものそのものと、理解においてそもそも構造化されうるものとしてあらかじめ素描されているものが、意味なのである。言明すなわち「判断」は、理解に基づいて、解釈を派生的に遂行する形式なのであるから、言明”もまた”意味を「もって」いる。

 「意味」は、理解によって開示されたものについて、言葉によって分節して語られる必要があるのです。この語られた言葉が言明と呼ばれるのであり、そのため言明においてもまた「意味」が語られることになります。

 この言明について考察することには、3つの根拠があることをハイデガーは明らかにしています。

Einmal kann an der Aussage demonstriert werden, in welcher Weise die für Verstehen und Auslegung konstitutive Struktur des >Als< modifikabel ist. Verstehen und Auslegung kommen damit in ein noch schärferes Licht. (p.154)
第1に、言明を考察することで、理解と解釈を構成している「として」構造が、どのようなありかたに変様されうるかを示すことができる。これによって理解と解釈をさらに鋭い光のもとで考察できるようになるだろう。

 言明の考察は、理解と解釈の考察という重要な課題を遂行するために、大きく貢献するのです。

Sodann hat die Analyse der Aussage innerhalb der fundamentalontologischen Problematik eine ausgezeichnete Stelle, weil in den entscheidenden Anfängen der antiken Ontologie der λόγος als einziger Leitfaden für den Zugang zum eigentlich Seienden und für die Bestimmung des Seins dieses Seienden fungierte. (p.154)
第2に、言明の分析は、基礎存在論の問題構成のもとで、傑出した位置を占めている。というのも、古代ギリシアの存在論の決定的な端緒において、ロゴスの概念が、本来的に存在するものに近づいていくため、そしてこの存在者の存在を規定するために、唯一の導きの糸の役割をはたしていたからである。

 ロゴスは、ここでは言明や言葉を意味するものとして語られており、古代の存在論の伝統においては、この概念が存在を考察するための「唯一の導きの糸」とされていました。ロゴスで語られることがすなわち「言明」であるために、言明は「基礎存在論の問題構成のもとで、傑出した位置を占めている」と指摘されています。序論でのロゴスの考察(Part.5参照)を踏まえて、古代の存在の伝統に一瞥を投げ掛けるという意味でも、言明の考察は重要な課題です。

Schließlich gilt die Aussage von alters her als der primäre und eigentliche >Ort< der Wahrheit. Dieses Phänomen ist mit dem Seinsproblem so eng verkoppelt, daß die vorliegende Untersuchung in ihrem weiteren Gang notwendig auf das Wahrheitsproblem stößt, sie steht sogar schon, obzwar unausdrücklich, in seiner Dimension. Die Analyse der Aussage soll diese Problematik mit vorbereiten. (p.154)
 最後に、言明は昔から、”真理”の第1義的で本来的な「ありか」とみなされてきた。この真理という現象は、存在問題ときわめて密接に結びついているので、わたしたちの探究も考察を進めるうちに必然的にこの真理の問題に直面することになる。それどころか暗黙のうちにではあるが、わたしたちはすでにこの真理の問題の次元に立ち入っているのである。言明の分析は、この真理という問題構成をともに準備するものである。

 第3の根拠は、アリストテレス以来、真理はロゴスに宿ると一般に考えられてきましたが(ハイデガーはこの主張を明確に否定することになります)、ロゴスは言明であることを考えると、言明を考察することは、真理について考察するためにも不可欠な条件となることです。
 このように言明の分析は、理解についての洞察を深めるためという目的だけではなく、古代の存在論の伝統を新たな視点から考察し、真理のありかについて検討するためにも重要な意味をもつことになります。

 ハイデガーは言明を、次の3つの視点から考察します。これらの視点とは、すでに「として」の解釈の3つの視点として提起されてきた「予持、予視、予握」にほかなりません。

 まず予持という視点からみると、言明は「提示」という働きをそなえています。

1. Aussage bedeutet primär Aufzeigung. Wir halten damit den ursprünglichen Sinn von λόγος als ἀπόφανσις fest: Seiendes von ihm selbst her sehen lassen. In der Aussage: >Der Hammer ist zu schwer< ist das für die Sicht Entdeckte kein >Sinn<, sondern ein Seiendes in der Weise seiner Zuhandenheit. Auch wenn dieses Seiende nicht in greifbarer und >sichtbarer< Nähe ist, meint die Aufzeigung das Seiende selbst und nicht etwa eine bloße Vorstellung seiner, weder ein >bloß Vorgestelltes< noch gar einen psychischen Zustand des Aussagenden, sein Vorstellen dieses Seienden. (p.154)
第1に、言明とは第1義的には”提示”を意味する。この提示という意味において、アポファンシスとしてのロゴスの根源的な意味が堅持されている。これは、存在者をその存在者自身のほうから見えるようにすることである。「このハンマーは重すぎる」という言明について考えると、ここでまなざしにたいして露呈されるのは「意味」のようなものではなく、ある存在者がその手元存在性のありかたにおいて露呈されているのである。この存在者が、すぐに手がとどき、「目のとどく」近さに存在していないときにも、この提示はその存在者そのものを指し示しているのであり、それについてのたんなる表象を指し示すわけではない。つまりそれは「たんなる表象されたもの」ではないし、これを言明した者の心的な状態、すなわちこの存在者についてそれを言明した者が表象する働きのようなものでもない。

 提示とは、序論で考察された「アポファンシスとしてのロゴスの根源的な意味」が堅持されることです(ここでアポファンシスとは「語り」のことです)。これは「存在者をその存在者自身のほうから見えるようにする」ことです。この提示という働きは、現存在に存在者と出会わせるという意味で、存在論的な重要性をそなえた言明の役割なのです。
 ハイデガーがあげた実例は、「このハンマーは重すぎる」という言明です。この言明においては、「まなざしにたいして露呈されるのは<意味>のようなものではなく、ある存在者がその手元存在性のありかたにおいて露呈されている」と指摘されているように、現存在が世界において存在し、ハンマーはその世界のうちで出会う手元存在者だということが語られていることになります。「このハンマーは重すぎる」という言明では、ハンマーという表象についての抽象的な言明が行われるのではなく、そのハンマーがすでに、現存在の使う道具という枠組み連関のうちで提示されているということを示します。ハンマーは、現存在の世界内存在における手元存在者という性格のもとで、提示され、日常生活のうちの道具として保持されています。それが「予持」の役割なのです。

 言明の第2の意義は、「叙述」です。

2. Aussage besagt soviel wie Prädikation. Von einem >Subjekt< wird ein >Prädikat< >ausgesagt<, jenes wird durch dieses bestimmt. Das Ausgesagte in dieser Bedeutung von Aussage ist nicht etwa das Prädikat, sondern >der Hammer selbst<. Das Aussagende, das heißt Bestimmende dagegen liegt in dem >zu schwer<. Das Ausgesagte in der zweiten Bedeutung von Aussage, das Bestimmte als solches, hat gegenüber dem Ausgesagten in der ersten Bedeutung dieses Titels gehaltlich eine Verengung erfahren. Jede Prädikation ist, was sie ist, nur als Aufzeigung. Die zweite Bedeutung von Aussage hat ihr Fundament in der ersten. (p.154)
第2に、言明には、”叙述”という意味がある。すなわちある「主語」にたいして、ある「述語」が「言明される」のである。主語は述語によって”規定される”。この意味で言明において「言明された」ものは述語などではなく、「ハンマーそのもの」である。そして言明するもの、すなわち規定するものは、ここでは、「重すぎる」に示されている。言明のこの第2の意義で言明されたもの、すなわち規定されたものそのものは、言明の第1の意義において言明されたものと比較すると、内容的に狭められている。どの叙述も、提示することによってのみ叙述される。言明の第2の意義は、第1の意義をその基礎としているのである。

 「叙述」ということは、「ある<主語>にたいして、ある<述語>が<言明される>」のであり、「主語は述語によって”規定される”」ということです。この叙述としての言明は、第1の提示としての言明よりも、「内容的に狭められて」います。第1の提示としての言明では、ハンマーが現存在が使う道具として、道具連関としての土台の上で、その「予持」のもとで提示されました。次にこの第2の規定としての言明では、その提示されたハンマーについて、術語で規定することによって、1つの判断が明確に示されます。そのハンマーは「重くて使いにくい」ということです。
 この命題としての言明は、たんに客観的にあるハンマーの特性を述べるものではなく、現存在がそのハンマーを使うにあたって、そのハンマーという道具がどのような特性をそなえたものであるべきかということについての暗黙的な想定に基づいたものです。日常生活でハンマーを使用するには、それは適切は重さのものである必要があります。軽すぎても重すぎても、上手く釘を打つことはできません。
 叙述としての言明では、言明されたものが現存在にとってどのようなものであるべきなのかがあらかじめ想定されており、それを述語によって規定することで、現存在にとってハンマーがどのようなものであるかが明示的に見えるようになるのです。その意味で、この言明は「予視」に基づいたものであるということができるのであり、このようにして語られたときに、言明は「意味」をもつということになります。

 言明の第3の意義は「伝達」です。

3. Aussage bedeutet Mitteilung, Heraussage. Als diese hat sie direkten Bezug zur Aussage in der ersten und zweiten Bedeutung. Sie ist Mitsehenlassen des in der Weise des Bestimmens Aufgezeigten. Das Mitsehenlassen teilt das in seiner Bestimmtheit aufgezeigte Seiende mit dem Anderen. >Geteilt< wird das gemeinsame sehende Sein zum Aufgezeigten, welches Sein zu ihm festgehalten werden muß als In-der-Welt-sein, in der Welt nämlich, aus der her das Aufgezeigte begegnet. Zur Aussage als der so existenzial verstandenen Mit-teilung gehört die Ausgesprochenheit. (p.155)
第3に、言明は”伝達”を、言葉として語ることを意味する。言明はこの伝達する行為として、言明の第1の意義と第2の意義に直接に結びついています。これは規定するというやりかたで、提示されたものを、<ともに見えるようにする>のである。この<ともに見えるようにする>ということは、その規定性において提示された存在者を、他者とともに分かち合うということである。これによって「分かち合われた」ものは、提示されたものに”向かって”共同で見る”存在”であるが、提示されたものにかかわるその存在は、世界内存在として、すなわち提示されたものがそこから出会うところである”その”世界のうちの存在として確認しておく必要がある。このように実存論的に理解された伝達としての言明には、言葉として語ることという性質が含まれるのである。

 言明は、この第3の意義において、第1の意義と第2の意義を結びつけます。第1の意義として提示されたものを、第2の意義において命題とし、自己の印象から離れた客観的な認識として、他者にも<ともに見えるようにする>のであり、「その規定性において提示された存在者を、他者とともに分かち合う」ようにするのです。
 このように伝達が行われるにあたっては、他者との間で認識を伝達し、それが理解されるために、何らかの客観的な概念装置がすでに共有されている必要があります。それが「予握」という概念で示されています。共同で作業をしているときに、「このハンマーは重すぎる」という言明を他者にたいしてするときには、ハンマーというものが手元存在者としてあらかじめ把握されているでしょうし、理論的な空間での抽象的な話をしているのであれば、それは眼前存在者として把握されているでしょう。そこにはつねにある特定の概念装置が含まれているのです。

 ハイデガーは、これまで分析されてきた言明の3つの意味を統一して、次のように定義します。

Aussage ist mitteilend bestimmende Aufzeigung. (p.156)
”言明とは、伝達しながら規定する提示である”。

 言明をこのような現象として定義したハイデガーは、この現象が「予持、予視、予握」のうちに実存論的な土台をそなえていることをまとめて説明します。少々長くなりますが、わかりやすくまとまっていますので引用します。

Das Aufzeigen der Aussage vollzieht sich auf dem Grunde des im Verstehen schon Erschlossenen bzw. umsichtig Entdeckten. Aussage ist kein freischwebendes Verhalten, das von sich aus primär Seiendes überhaupt erschließen könnte, sondern hält sich schon immer auf der Basis des In-der-Welt-seins. Was früher bezüglich des Welterkennens gezeigt wurde, gilt nicht weniger von der Aussage. Sie bedarf einer Vorhabe von überhaupt Erschlossenem, das sie in der Weise des Bestimmens aufzeigt. Im bestimmenden Ansetzen liegt ferner schon eine ausgerichtete Hinblicknahme auf das Auszusagende. Woraufhin das vorgegebene Seiende anvisiert wird, das übernimmt im Bestimmungsvollzug die Funktion des Bestimmenden. Die Aussage bedarf einer Vorsicht, in der gleichsam das abzuhebende und zuzuweisende Prädikat in seiner unausdrücklichen Beschlossenheit im Seienden selbst aufgelockert wird. Zur Aussage als bestimmender Mitteilung gehört jeweils eine bedeutungsmäßige Artikulation des Aufgezeigten, sie bewegt sich in einer bestimmten Begrifflichkeit: Der Hammer ist schwer, die Schwere kommt dem Hammer zu, der Hammer hat die Eigenschaft der Schwere. Der im Aussagen immer auch mitliegende Vorgriff bleibt meist unauffällig, weil die Sprache je schon eine ausgebildete Begrifflichkeit in sich birgt. Die Aussage hat notwendig wie Auslegung überhaupt die existenzialen Fundamente in Vorhabe, Vorsicht und Vorgriff. (p.156)
言明による提示は、理解のうちですでに開示されていたもの、あるいは目配りのまなざしによって露呈されていたものを土台として行われる。言明は、みずから自力で存在者一般を開示しうるような宙に浮いたものではない。言明はむしろ、すでにつねに世界内存在という土台の上に維持されているのである。すでに世界の認識について示したことが、言明についても同じようにあてはまる。言明はそもそも開示されているものを<予持>する必要があり、このように開示されたものを、言明は規定というありかたで提示する。規定するための端緒を定めるためには、これから言明しようとすることについて、すでに特定の方向が定められた<眺めやり>が必要となる。あらかじめ与えられている存在者が、それにたいして照準を合わせられている<ところのその場所>こそが、その規定を遂行する際に、規定するものとしての機能をはたすのである。このようにして、言明は<予視>を必要とするのであり、この<予視>において、わたしたちが浮き彫りにし、それに割り当てようとしている述語が、存在者そのもののうちにまだ明示的に表現されずに閉じ込められている状態から、解きほぐされてくるのである。さらに規定しながら伝達することとしての言明には、そのつど提示されたものをその意義に即して分節する営みが含まれるのであり、こうした営みはつねにある特定の概念装置のもとで行われる。たとえば<ハンマーは重い>、<このハンマーには重さがある>、<このハンマーは重さという特性をそなえている>などである。このように言明のうちにはつねに<予握>がともに含まれているのであるが、そこに含まれた<予握>は目立たないものであることが多い。というのも、言語にはそのつどすでに、形成された概念装置が含まれているからである。このように言明は解釈一般と同じように、必然的に<予持><予視><予握>のうちに実存論的な土台をそなえているのである。

 言明にはこのように、解釈の「として」構造の理解の「地平」としての「予ー構造」が、「予持、予視、予握」として実存論的に含まれているのであり、命題としての言明も、この構造から生まれるものとなっています。そして「言明は解釈一般と同じように、必然的に<予持><予視><予握>のうちに実存論的な土台をそなえている」と言えるからこそ、言明は解釈の1つの様態として捉えることができるのです。

 すでに言明は解釈の派生的な様態であることが指摘されてきましたが、どのような意味で派生的なのでしょうか。次にハイデガーは、言明において、解釈のどこが変様したのかを説明します。その際にハイデガーが事例として考察するのが、論理学の命題です。

Was die Logik mit dem kategorischen Aussagesatz zum Thema macht, zum Beispiel >der Hammer ist schwer<, das hat sie vor aller Analyse auch immer schon >logisch< verstanden. Unbesehen ist als >Sinn< des Satzes schon vorausgesetzt: das Hammerding hat die Eigenschaft der Schwere. In der besorgenden Umsicht gibt es dergleichen Aussagen >zunächst< nicht. Wohl aber hat sie ihre spezifischen Weisen der Auslegung, die mit Bezug auf das genannte >theoretische Urteil< lauten können: >Der Hammer ist zu schwer< oder eher noch: >zu schwer<, >den anderen Hammer!<. (p.157)
論理学において言明の定立命題を主題にするとき、たとえば「このハンマーは重い」と語るときには、いかなる分析も行う前から、その命題で主題とされるものを「論理学的に」理解してしまうのである。そこでつい、この命題の「意味」として、このハンマーという事物に重さという特性があることを前提にしてしまうのである。ところが配慮的な気遣いの目配りのまなざしには、そのような言明は「さしあたりは」与えられていない。しかしこのまなざしに特有の解釈のやりかたがあるのであって、そのありかたは、すでに述べた「理論的な判断」との関連では次のように表現できるだろう。「このハンマーは重すぎる」あるいはむしろ「重すぎる」、だから「もっと別のハンマーを!」。

 「ハンマーは重い」という論理学の命題は、主語のハンマーにたいして、「重いものである」という質のカテゴリーを述語として結びつけたものです。こうした論理学の領域で考察される命題には、わたしたちが日常生活において語る言葉とは明確に異なるいくつかの重要な特徴があります。
 第1に、こうした命題は、生活世界からは分離されたものです。そのハンマーがどのような色をしているのかとか、どのような用途で使われるものかとか、取っ手の素材は何かというような、わたしたちがハンマーについて語るときにつねに同時に含まれている関連性がまったくそぎ落とされています。
 第2に、それは一般性と普遍性をそなえた命題です。それはわたしたちが使う個々のハンマーに該当すると同時に、世界のうちのあらゆるハンマーについても該当するものとみなされています。
 第3に、その命題は、現実のハンマーの存在とはかかわりません。そのハンマーが現実の世界のうちで存在するかどうかは、まったく問われておらず、たんにハンマーという抽象的な概念にたいして、「重いものである」という概念が付加されているだけです。
 このように論理学の命題は、生活世界で使われる言葉とはまったく異質な性格をそなえています。わたしたちは日常の生活において、場合によっては、「ハンマーは重い」と語ることはあるでしょうが、日常の言葉と論理学の命題に共通するのは、たんに同じ言葉が使われているということだけであって、その意味するところはまったく異なります。
 「ハンマーは重い」という命題を論理学的に理解するなら、それはハンマーに重さという属性があるという、判断の内容としての「意味」を語っているにすぎません。こうした「意味」は、実存論的な現象としての「意味」を、限定された意義で理解したものにすぎません。しかしわたしたちは日常生活で、そのような命題を語ることはないでしょう。わたしたちが日常の生活でこの言葉を語ったとするなら、「このハンマーは重すぎる」という意味をこめるでしょうし、「もっと別のハンマーを!」と要求するか、あるいはむしろハンマーではなく、もっと軽くて使いやすい別のものを要求するために、この言葉を使うでしょう。それはわたしたちがこのハンマーに向けるまなざしが、論理学的な領域で通用するまなざしではなく、日常の生活の中での目配りのまなざしであるからです。

Der ursprüngliche Vollzug der Auslegung liegt nicht in einem theoretischen Aussagesatz, sondern im umsichtig-besorgenden Weglegen bzw. Wechseln des ungeeigneten Werkzeuges, >ohne dabei ein Wort zu verlieren<. Aus dem Fehlen der Worte darf nicht auf das Fehlen der Auslegung geschlossen werden. Andererseits ist die umsichtig ausgesprochene Auslegung nicht notwendig schon eine Aussage im definierten Sinne. Durch welche existenzial-ontologischen Modifikationen entspringt die Aussage aus der umsichtigen Auslegung? (p.157)
解釈を根源的に遂行するということは、理論的な言明の命題を語ることではなく、不適切な作業道具を目配りのまなざしで配慮的に気遣いながら、「余計な言葉を語らずに」その道具を脇に退けたり、交換したりするということである。言葉が欠けているからといって、解釈が行われていないと結論してはならない。また他方、目配りのまなざしによる解釈が”言葉として語られる”場合にも、それがまだ定義された意味での言明であるとはかぎらない。”どのような実存論的かつ存在論的な変様によって、目配りのまなざしによる解釈から、言明が登場するのだろうか”。

 わたしたちが目配りのまなざしでハンマーについて語るのではなく、論理学的な命題として語るとすれば、そのまなざしそのものに、そして解釈の「として」構造において、そしてそこで働いていた「予ー構造」において、何らかの変動が発生しているに違いありません。次の課題は、「”どのような実存論的かつ存在論的な変様によって、目配りのまなざしによる解釈から、言明が登場するのだろうか”」となります。

Das in der Vorhabe gehaltene Seiende, der Hammer zum Beispiel, ist zunächst zuhanden als Zeug. Wird dieses Seiende >Gegenstand< einer Aussage, dann vollzieht sich mit dem Aussageansatz im vorhinein ein Umschlag in der Vorhabe. Das zuhandene Womit des Zutunhabens, der Verrichtung, wird zum >Worüber< der aufzeigenden Aussage. Die Vorsicht zielt auf ein Vorhandenes am Zuhandenen. Durch die Hin-sicht und für sie wird das Zuhandene als Zuhandenes verhüllt. Innerhalb dieses die Zuhandenheit verdeckenden Entdeckens der Vorhandenheit wird das begegnende Vorhandene in seinem So-und-so-vorhandensein bestimmt. Jetzt erst öffnet sich der Zugang zu so etwas wie Eigenschaften. Das Was, als welches die Aussage das Vorhandene bestimmt, wird aus dem Vorhandenen als solchem geschöpft. Die Als-Struktur der Auslegung hat eine Modifikation erfahren. (p.157)
<予持>のうちに保持されていた存在者、たとえばハンマーは、さしあたり道具として手元に存在している。この存在者が言明の「対象」となると、言明命題が始まるとともに、<予持>のうちにある転換が先だって起こるのである。<”それでもって”>かかわり、配置してきた”手元的な”存在者は、<”それについて”>提示しながら言明すべものになってしまう。<予視>は、手元的な存在者における眼前的なものを目指すのである。このような<眺めやるまなざし>”によって”、そして<眺めやるまなざし>”にとって”、手元的な存在者の手元存在のありかたは覆い隠されてしまう。眼前的な存在のありかたが露呈されることで、手元的な存在のありかたは隠蔽されてしまうのであり、このような露呈のもとで、そこで眼の前で出会う存在者が、それにふさわしい眼前的なありかたで規定されるのである。こうして初めて”特性”のようなものが語られるための通路が開かれる。言明はその眼前的な存在者をあれこれのもの”として”規定するが、そのように規定されるあれこれのものは、眼前的に存在しているものそのもの”から”汲みとられる。このようにして、解釈にそなわっていた<としてー構造>は、ある変様をこうむったのである。

 すでに考察されてきたように、まなざしの変動の需要なきっかけとなるものが、道具に何らかの欠陥が生じることでした。取っ手がとれたそのとき、それまで「予持」構造のもとで、道具としてのハンマーとしてみられていたものが、木の棒と鉄の塊としてみられるようになります。このまなざしの変化は、対象を道具としてではなく、さまざまな素材から作られたものとして客観的にみるきっかけを与えます。
 こうして道具に欠陥が生じた場合には、わたしたちは道具として使える別のハンマーの必要性を感じ、「もっと値段の高い丈夫なハンマーにしようか」「取っ手と一体式のハンマーがいいだろうか」というように、ありうべきハンマーについて考えます。そのとき、それまで「さしあたり道具として手元に存在」していたハンマーについての言明が語られるようになります。「この存在者が言明の<対象>となると、言明命題が始まるとともに、<予持>のうちにある転換が先だって起こる」のです。それまで手元にあったハンマーは、もはや世界における道具の適材適所性の連関から転落し、それとは別のありうべきハンマーが思い浮かべられ、それは言明の対象となるべき眼前的な存在者に変わります。それまでは「<”それでもって”>(作業に)かかわり、配置してきた”手元的な”存在者」であったものが、今や「<”それについて”>提示しながら言明すべものになってしまう」のです。このとき「<予視>は、手元的な存在者における眼前的なものを目指す」のです。
 ここでまなざしが明確に転換しているのは明らかでしょう。わたしたちがハンマーを実際に使っているときは、ハンマーは配慮する目配りのまなざしによって、世界の適材適所性のうちで、道具としてみられていました。しかしハンマーに欠陥が生じるとともに、目配りのまなざしは、ただ「眺めやる」まなざしに変わってしまいます。このまなざしは、かつては手元的な存在者であったハンマーを、もはや手元的な存在者として見ることはなく、ただ眼前的な存在者として思い浮かべるだけであり、「眼前的な存在のありかたが露呈されることで、手元的な存在のありかたは隠蔽されてしまうのであり、このような露呈のもとで、そこで眼の前で出会う存在者が、それにふさわしい眼前的なありかたで規定される」のです。
 このような「予持」と「予視」の「予ー構造」の変動と、目配りのまなざしから「眺めやるまなざし」への変動は、同時に解釈の「として」構造の変動を引き起こしています。

Das >Als< greift in seiner Funktion der Zueignung des Verstandenen nicht mehr aus in eine Bewandtnisganzheit. Es ist bezüglich seiner Möglichkeiten der Artikulation von Verweisungsbezügen von der Bedeutsamkeit, als welche die Umweltlichkeit konstituiert, abgeschnitten. Das >Als< wird in die gleichmäßige Ebene des nur Vorhandenen zurückgedrängt. Es sinkt herab zur Struktur des bestimmenden Nur-sehen-lassens von Vorhandenem. Diese Nivellierung des ursprünglichen >Als< der umsichtigen Auslegung zum Als der Vorhandenheitsbestimmung ist der Vorzug der Aussage. Nur so gewinnt sie die Möglichkeit puren hinsehenden Aufweisens. (p.158)
この「として」は、理解したものをわがものにするという機能をはたしながら、もはや適材適所性の全体性のほうにまで手を伸ばそうとはしない。こうした「として」は、指示連関を分節する可能性をそなえているものだが、ここでは環境世界を構成する有意義性からは切り離されている。この「として」は、たんに眼前的に存在するものの均質な平面に押し戻されている。それは眼前的に存在するものを<ただ見えるだけのもの>として規定する構造にはまり込んでいる。このように、目配りのまなざしによる解釈の根源的な「として」を、眼前性の規定の「として」へと平板化すること、これこそが言明の特徴である。そうすることで初めて、言明は純粋に眺めやりながら提示することができるようになる。

 ハンマーについての言明が始まると同時に、もはやハンマーは適材適所性の全体性から切り離されて、たんなる事物とみなされます。解釈の「として」は、適材適所性の「指示連関を分節する可能性をそなえているものだが、ここでは環境世界を構成する有意義性からは切り離されている」ということになります。そして「たんに眼前的に存在するものの均質な平面に押し戻されている」のであり、「眼前的に存在するものを<ただ見えるだけのもの>として規定する構造にはまり込んでいる」のです。この「として」は、目配りのまなざしによる「解釈の根源的な<として>」ではなくなっており、「眼前性の規定の<として>へと平板化」されています。それが「言明の特徴」なのです。
 ハイデガーによると、言明による「として」は、解釈の根源的な「として」から派生したものです。ハイデガーはこの解釈の根源的な「として」を「実存論的で解釈学的な<として>」と名づけ、派生的な言明における「として」を、「言明の語り的な(アポファンシス的な)<として>」と呼んで区別しています。

 この派生態としての言明における「として」が、「アポファンシス的な」とギリシア語で呼ばれていることからも明らかなように、この「として」は古代のギリシア哲学以来の伝統を受け継いでいます。

Für die philosophische Betrachtung ist der λόγος selbst ein Seiendes und gemäß der Orientierung der antiken Ontologie ein Vorhandenes. Zunächst vorhanden, das heißt vorfindlich wie Dinge sind die Wörter und ist die Wörterfolge, als in welcher er sich ausspricht. Dies erste Suchen nach der Struktur des so vorhandenen λόγος findet ein Zusammenvorhandensein mehrerer Wörter. Was stiftet die Einheit dieses Zusammen? Sie liegt, was Plato erkannte, darin, daß der λόγος immer λόγος τινός ist. Im Hinblick auf das im λόγος offenbare Seiende werden die Wörter zu einem Wortganzen zusammengesetzt. (p.159)
哲学的に考察するならば、ロゴスそれ自体も1つの存在者であり、古代の存在論の方向性にしたがうと、1つの眼前的な存在者である。さしあたり眼前的に存在しているもの、すなわち事物と同じように眼の前に存在しているものはさまざまな言葉であり、言葉と言葉のつながりであり、こうした言葉と言葉のつながりのうちでロゴスがみずからを語りだす。このように眼前的に存在しているロゴスの構造を探究する最初の試みによって、多数の言葉が”眼前的に集まって存在しているありさま”が発見された。この<集まり>を統一しているものは何だろうか。プラトンが洞察したように、この統一を作りだしているものは、ロゴスがつねに<何ものかについてのロゴス>であるということだった。複数の言葉が集まって、”1つの”語として合成されるのは、ロゴスのうちであらわになっている存在者を<眺めやる>ことによってである。

 プラトンは『ソフィスト』において、ロゴスとしての言明が成立する条件を考察します。プラトンは言葉を動詞と名詞にわけると、動詞を語るだけではロゴス(命題)にならないこと、同じように名詞を語るだけでもロゴスにはならないことを指摘します。「歩く」だけでも、「プラトン」だけでも、ロゴスにはならず、ロゴスがロゴスになるのは、名詞と動詞を結びつけたときだけです。「プラトンは歩いている」と語るとき、それが命題としてのロゴスになります。
 このように、ロゴスはつねにある主語と述語の結びつきを必要としています。ロゴスがロゴスである場合はいつでも、何かついてのロゴスであるのが必然ということになります。これが「ロゴスがつねに<何ものかについてのロゴス>である」いうことです。
 このプラトンの洞察が示しているのは、「複数の言葉が集まって、”1つの”語として合成されるのは、ロゴスのうちであらわになっている存在者を<眺めやる>ことによってである」ということです。この純粋に眺めやるまなざしが、言明のまなざしとして、論理学で使われる文を作りだすのです。

 さらに考察を進めたのは、アリストテレスです。

Aristoteles sah radikaler; jeder λόγος ist σύνθεσις und διαίρεσις zugleich, nicht entweder das eine - etwa als >positives Urteil< - oder das andere - als >negatives Ueteil<. Jeder Aussage ist vielmehr, ob bejahend oder verneinend, ob wahr oder falsch, gleichursprünglich σύνθεσις und διαίρεσις. Die Aufweisung ist Zusammen- und Auseinandernehmen. (p.159)
アリストテレスはさらに根源的に考えた。アリストテレスによるとあらゆるロゴスは、総合であると同時に分離でもある。そして一方だけ(たとえば「肯定判断」)であることも、他方だけ(たとえば「否定判断」)であることもない。むしろあらゆる言明は、それが肯定するものであろうと否定するものであろうと、真であろうと偽であろうと、等根源的に総合であり、”かつまた”分離でもある。提示するということは、まとめることであるだけではなく、別々に分けることでもある。

 「プラトンは歩いている」という文に対して「プラトンは飛んでいる」というという文をあげてみると、片方が真であり、他方が偽であるでしょう。真であるロゴスは、プラトンについてあるがままに述べている一方で、偽であるロゴスはそうでないことをあることとして述べています。
 アリストテレスはこの真偽の議論をロゴスにおける「総合」と「分離」の営みとして関連づけました。これは、真と偽の違いは、結合と分離の組み合わせによって決まるということを指摘するものです。アリストテレスは結合と分離の3つの場合を考えます。
 第1は、あるものごとはつねに結合されていて、分離されていることがありえない場合です。「人間は言葉を使う動物である」という文において、「人間」という主語と「言葉を使う動物」という述語は、定義によってその主語のうちに述語がつねに結合して考えられています。これは真ですが、その真理は事態とかかわりなく、文で使われる語の定義によって決定されるものです。
 第2は、あるものごとはつねに分離されていて、結合されていることがありえない場合です。「人間は空を飛ぶ動物である」という文は、古代においてはありえないことであるために偽であり、「人間」という名詞と「空を飛ぶ」という動詞は、結合されることはありえず、つねに偽です。この偽もまた事態とかかわりなく、文で使われる語の定義によって決定されています。
 第3の場合は、ある種の物事は結合されていることも、分離されていることもありうる場合です。「プラトンは歩いている」という文では、名詞と動詞は結合されていることも分離されていることもありえます。結合されているときは「プラトンは歩いている」と言われ、分離されているときには「プラトンは歩いているのではない」と言われます。この「プラトンは歩いている」という命題は、その事態に応じて、プラトンが歩いているときは真であり、座っているときには偽であります。
 この「プラトンは歩いている」という文は、名詞である主語と動詞である述語を結合しますが、それは同時に、「座っている」とか「寝ている」とか「飛んでいる」とかいう動詞を分離します。この文からはこうした動詞が排除されているのであり、その意味ではある述語を結合するということは、その他の述語を分離するということです。だからこそ、ハイデガーが指摘するように、「あらゆる言明は、それが肯定するものであろうと否定するものであろうと、真であろうと偽であろうと、等根源的に総合であり、”かつまた”分離でもある」ということになり、「提示するということは、まとめることであるだけではなく、別々に分けることでもある」のです。
 この総合と分離は、その文を事態と照らし合わせて真偽を判断する以前に行われています。だからこそ、結合する働きと分離する働きが「等根源的に」行われるのであり、ある種の文は、真偽を判断される以前にすでに結合と分離をすませています。真と偽は、結合と分離に関するものですが、結合と分離が文の真偽を決定するのではありません。第1の場合と第2の場合は、つねに真であり偽でありますが、第3の場合の文の真偽はあくまでも事態に応じて決定されるのであり、結合と分離によって決定されるのではないのです。

Was mit den formalen Strukturen von >Verbinden< und >Trennen<, genauer mit der Einheit derselben phänomenal getroffen werden sollte, ist das Phänomen des >etwas als etwas<. Gemäß dieser Struktur wird etwas auf etwas hin verstanden - in der Zusammennahme mit ihm, so zwar, daß dieses verstehende Konfrontieren auslegend artikulierend das Zusammengenommene zugleich auseinandernimmt. Bleibt das Phänomen des >Als< verdeckt und vor allem in seinem existenzialen Ursprung aus dem hermeneutischen >Als< verhüllt, dann zerfällt der phänomenologische Ansatz des Aristoteles zur Analyse des λόγος in eine äußerliche >Urteilstheorie<, wonach Urteilen ein Verbinden bzw. Trennen von Vorstellungen und Begriffen ist. (p.159)
アリストテレスが「総合」と「分離」という形式的な構造で、さらに正確に表現すれば、この2つの統一態によって現象的に言い当てようとしたのは、「あるものとしてのあるもの」という現象である。この構造に基づいてあるものは、あるものに照らして、それと一緒に理解されるのであるが、この”理解しながら”<つきあわせること>は、まとめられたものを”解釈しながら”分節するのであり、同時にばらばらに分離して考えるのである。この「として」の現象が覆い隠されていると、そしてとくにそれが解釈学的な「として」を実存論的な起源とするものであることが覆い隠されていると、アリストテレスがロゴスの分析のために利用していた現象学的な端緒は崩壊してしまい、やがては外面的な「判断論」になってしまう。この「判断論」によると、判断とは表象や概念の総合ないし分離であるとされてしまう。

 アリストテレスが「総合」と「分離」という概念で説明しようとしたのは、「あるものとしてのあるもの」という現象を見えるようにするためです。そこにおいては「まとめられたものを”解釈しながら”分節するのであり、同時にばらばらに分離して考える」という総合と分離のプロセスがつねに伴っているのであり、そこでは現象学的な「物との出会い」が考察されていたのです。このアリストテレスの考察の現象学的な局面を無視して、たんに命題における表象や概念の結合と分離だけを考察する分析的な局面だけが重視されると、「現象学的な端緒は崩壊してしまい、やがては外面的な<判断論>になってしまう」のです。

 この文脈において、ハイデガーは「繋辞(コプラ)」の問題について少し言及しています。

Wie weit diese in die Interpretation des λόγος und umgekehrt der Begriff des >Urteils< mit einem merkwürdigen Rückschlag in die ontologische Problematik hineinwirkt, zeigt das Phänomen der Copula. An diesem >Band< kommt zutage, daß zunächst die Synthesisstruktur als selbstverständlich angesetzt wird und daß sie die maßgebende interpretatorische Funktion auch behalten hat. Wenn aber die formalen Charaktere von >Beziehung< und >Verbindung< phänomenal nichts zur sachhaltigen Strukturanalyse des λόγος beisteuern können, dann hat am Ende das mit dem Titel Copula gemeinte Phänomen nichts mit Band und Verbindung zu tun. Das >ist< und seine Interpretation, mag es sprachlich eigens ausgedrückt oder in der Verbalendung angezeigt sein, rückt aber dann, wenn Aussagen und Seinsverständnis existenziale Seinsmöglichkeiten des Daseins selbst sind, in den Problemzusammenhang der existenzialen Analytik. Die Ausarbeitung der Seinsfrage (vergleiche 1. Teil, 3. Abschnitt) wird denn auch diesem eigentümlichen Seinsphänomen innerhalb des λόγος wieder begegnen. (p.159)
この存在論的な問題構成が、ロゴスの解釈にどれほど強い影響を及ぼすか、そして反対に「判断」の概念が、存在論的な問題構成に入りこんで、どれほどまでに奇怪な反作用を及ぼすかということを示しているのが、”繋辞”の現象である。この繋辞という「結合辞」が明らかにしているのは、まず総合の構造が自明なものとして考察の端緒に置かれていること、そしてこの総合の構造がさらに解釈において基準となる機能をはたしていることである。しかしロゴスを事象にふさわしいかたちで構造分析するためには、「関係」や「結合」という形式的な性格は現象的にはまったく寄与できなかったのであるから、結局のところは繋辞という語によって示されている現象も、結合辞や結合とはまったく関係のないことなのである。だから言明と存在了解が現存在そのものの実存論的な存在可能性であることを考えると、繋辞の「である」とその解釈は、言語的にことさら明確に表現されていようと、動詞の活用語尾で示されているだけであろうと、実存論的な分析論の問題連関のうちに入ってくるのである。だから存在の問いを仕上げる営みにおいて(第1部の第3篇を参照されたい)、ロゴスの圏内におけるこの特異な存在現象に、ふたたび出会うことになるだろう。

 繋辞については、上記の引用に書いてある通り、未完の第1部の第3篇で考察されることになっていました。本書ではこの繋辞の問題は、「まず総合の構造が自明なものとして考察の端緒に置かれていること、そしてこの総合の構造がさらに解釈において基準となる機能をはたしていること」を示すものとして考察されることと、「実存論的な分析論の問題連関のうち」で考察されることが予告されるにとどまっています。ただし、ハイデガーの講義『現象学の根本問題』では、この繋辞の問題をアリストテレスらの伝統から考察していますので、興味がある方は是非読んでみてください。

 ハイデガーのこの節での目的は、言明が解釈と理解からどのように派生してくるかを示し、それによってロゴスの論理学が、現存在の実存論的な分析論に根ざすものであることを明らかにすることでした。これまでの考察から、古代の存在論について次のように言われます。

Der λόγος wird als Vorhandenes erfahren, als solches interpretiert, imgleichen hat das Seiende, das er aufzeigt, den Sinn von Vorhandenheit. Dieser Sinn von Sein bleibt selbst indifferent unabgehoben gegen andere Seinsmöglichkeiten, so daß sich mit ihm zugleich das Sein im Sinne des formalen Etwas-Seins verschmilzt, ohne daß auch nur eine reine regionale Scheidung beider gewonnen werden konnte. (p.160)
古代においてロゴスは眼前的に存在するものとして経験され、そのようなものとして解釈されていた。それと同じようにロゴスが提示する存在者もまた、眼前存在するものという意味をそなえるようになったのだった。この存在意味は、みずからについてその違いを意識することがなく、他の存在可能性と比較して、明確に浮き彫りにされることもない。そのため同時に、形式的に<あるもののありかた>という意味での存在と混同され、それぞれのありかたの純粋で領域的な区別をすることもできなかったのである。

 古代ギリシアにおいても、ロゴスはまず眼前性という存在様態の事物について考察されたのであり、これとは違う存在者の存在様態は考察されず、「それぞれのありかたの純粋で領域的な区別」がなされることもありませんでした。重要なのは、プラトンとアリストテレスにおいて切り拓かれた「現象学的な端緒」の問いが、その後の哲学の歴史においては忘却されてしまったこと、その根本的な原因の1つが古代ギリシアの存在論の方法論的な基礎が、根源的なものではなかったことにあるということです。現存在の実存論的な分析論こそが、基礎存在論であるのです。


 今回は以上になります。最近は分量の多い記事の投稿が続いてしまいました。次回の第34節も多くなりそうなので、こちらについては2つの記事に分けることになるかもしれません。よろしくお願いします。

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