『存在と時間』を読む Part.30

第31節 理解としての現-存在

 この節で提示される「理解」とは、一般的に言われているような意味での理解のことではありません。ここでの「理解」は実存カテゴリーであり、情態性と同じような実存論的な構造の1つになります。

Die Befindlichkeit ist eine der existenzialen Strukturen, in denen sich das Sein des >Da< hält. Gleichursprünglich mit ihr konstituiert dieses Sein das Verstehen. Befindlichkeit hat je ihr Verständnis, wenn auch nur so, daß sie es niederhält. Verstehen ist immer gestimmtes. Wenn wir dieses als fundamentales Existenzial interpretieren, dann zeigt sich damit an. daß dieses Phänomen als Grundmodus des Seins des Daseins begriffen wird. (p.142)
情態性は、<そこに現に>の存在が身をおいている実存論的な構造の”1つ”にすぎない。情態性と等根源的にこの<そこに現に>の存在を構成しているものとして、”理解”がある。情態性にはそのつど、こうした情態性によって抑えられているという形ではあっても、みずからについての了解が含まれている。また理解はつねに気分に染められた理解である。わたしたちはこれから、この理解を基本的な実存カテゴリーとして解釈することになるが、これが示しているのは、理解という現象が、現存在の”存在”の根本的な様態として把握されるということである。

 理解は情態性と同時に存在するものであると同時に、「情態性によって抑えられている」という性格をそなえています。理解は情態性に規定された「気分に染められた理解」なのです。
 この「理解」の概念はすでに、第18節で先取り的に提示されていました(Part.17参照)。そこで指摘されたのは、「現存在の存在には、存在了解がそなわっている」こと、「現存在には世界内存在という存在様式が本質的なものとしてそなわっているのだから、現存在の存在了解の内容の本質的な構成要素として、世界内存在への理解が含まれている」こと、「現存在が存在者としてすでにつねにかかわっているその世界を、現存在は理解している」ということでした。
 そして現存在は、自己を<そのための目的>として理解しながら、世界のさまざまな事物を手元存在者として、その目的連関のうちで理解しています。これは同時に、有意義性を理解することです。

Die bisherige Untersuchung ist denn auch schon auf dieses ursprüngliche Verstehen gestoßen, ohne daß sie es ausdrücklich in das Thema einrücken ließ. Das Dasein ist existierend sein Da, besagt einmal: Welt ist >da<; deren Da-sein ist das In-Sein. Und dieses ist imgleichen >da< und zwar als das, worumwillen das Dasein ist. Im Worumwillen ist das existierende In-der-Welt-sein als solches erschlossen, welche Erschlossenheit Verstehen genannt wurde. Im Verstehen des Worumwillen ist die darin gründende Bedeutsamkeit miterschlossen. Die Erschlossenheit des Verstehens betrifft als die von Worumwillen und Bedeutsamkeit gleichursprünglich das volle In-der-Welt-sein. Bedeutsamkeit ist das, woraufhin Welt als solche erschlossen ist. Worumwillen und Bedeutsamkeit sind im Dasein erschlossen, besagt: Dasein ist Seiendes, dem es als In-der-Welt-sein um es selbst geht. (p.143)
これまでの探究においても、すでにこうした根源的な<理解>に出会っていたのであり、ただそれを明示的に主題としては取りあげてこなかっただけである。現存在は実存しながら、みずからの<そこに現に>である。すなわち世界は<そこに現に>あり、この世界が”そこに現に存在する”ことが、内存在するということである。この内存在もまた<そこに現に>存在しているのであり、しかも現存在がみずからを<そのための目的>であるように存在しているのである。この<そのための目的>のうちで、実存する世界内存在そのものが開示されているのであり、この開示されていることが、理解と呼ばれるのである。この<そのための目的>を理解するときには、そこにおいて基礎づけられた有意義性もともに開示されている。理解が開示されているときには、<そのための目的>と有意義性がともに開示されているのであるから、この理解の開示は完全な世界内存在に等根源的にかかわるのである。有意義性とは、<そのものに向かって>世界そのものが開示されているもののことである。現存在において<そのための目的>と”ともに”有意義性が開示されているのであり、そのことは、現存在とは、世界内存在としておのれ自身にかかわる存在者であるということを意味する。

 「現存在において<そのための目的>と”ともに”有意義性が開示されているのであり、そのことは、現存在とは、世界内存在としておのれ自身にかかわる存在者であるということを意味する」と指摘されていますが、このことは「理解」の概念が現存在の実存にかかわるものであるということを示しています。「この<そのための目的>のうちで、実存する世界内存在そのものが開示されているのであり、この開示されていることが、理解と呼ばれる」のです。現存在はみずからの存在の意味を問いながら存在するのであり、その問いにおいて世界の全体が理解されるのです。

 ハイデガーの考える「理解」の概念は、有意義性のもとで世界のさまざまな事物の配置と用途を理解し、そして現存在の<そのための目的>の概念によって、現存在が未来において実存として存在する可能性に向けられています。ハイデガーの理解の概念は、現存在のうちに可能性として潜んでいるものをこれから実現しようと目指す現存在の実存のありかたの特徴なのです。

Dasein ist nicht ein Vorhandenes, das als Zugabe noch besitzt, etwas zu können, sondern es ist primär Möglichsein. Dasein ist je das, was es sein kann und wie es seine Möglichkeit ist. Das wesenhafte Möglichsein des Daseins betrifft die charakterisierten Weisen des Besorgens der >Welt<, der Fürsorge für die anderen und in all dem und immer schon das Seinkönnen zu ihm selbst, umwillen seiner. Das Möglichsein, das je das Dasein existenzial ist, unterscheidet sich ebensosehr von der leeren, logischen Möglichkeit wie von der Kontingenz eines Vorhandenen, sofern mit diesem das und jenes >passieren< kann. Als modale Kategorie der Vorhandenheit bedeutet Möglichkeit das noch nicht Wirkliche und das nicht jemals Notwendige. Sie charakterisiert das nur Mögliche. Sie ist ontologisch niedriger als Wirklichkeit und Notwendigkeit. Die Möglichkeit als Existenzial dagegen ist die ursprünglichste und letzte positive ontologische Bestimmtheit des Daseins; zunächst kann sie wie Existenzialität überhaupt lediglich als Problem vorbereitet werden. Den phänomenalen Boden, sie überhaupt zu sehen, bietet das Verstehen als erschließendes Seinkönnen. (p.143)
現存在は、まず眼前的に存在していて、さらに何ごとかをなしうることを付録のようにもっている存在者ではない。現存在とは第1義的には、自己の<可能性の存在>なのである。現存在とは、そのつどそれでありうるものであり、しかもみずからの可能性でありうるもののことである。現存在が本質的に<可能性の存在>であるということは、わたしたちがこれまで性格づけてきたように、「世界」について配慮的に気遣い、他者たちにたいして顧慮的に気遣うという特徴的なありかたをしているということである。そしてそのすべてにおいて、かつつねにすでに、現存在は自分自身に向かって、そして自分自身をそのための<存在可能>としているということである。<可能性の存在>とは、現存在がつねに実存論的に存在しているありかたであるが、これは空虚な論理的な<可能性>とは違うものであるだけでなく、眼前的なものに、あれこれのことが「起こる」ことがありうるという意味での偶然性とも違うものである。眼前的なものの様相のカテゴリーである<可能性>は、”まだ”現実的で”ない”ことであり、”決して”必然的で”ない”ことである。これは可能であるに”すぎない”ものを特徴づける。この可能性は存在論的には現実性と必然性よりも下位のものである。これにたいして実存カテゴリーとしての可能性は、現存在のもっとも根源的で、究極的で、積極的な存在論的な規定性である。さしあたりこの可能性は、実存性一般と同じように、たんなる問題として準備されうるにすぎない。そもそもこれを見えるようにするための現象的な土台を提供するのが理解であり、理解とは開示する<存在可能>なのである。

 ここで自己の「可能性の存在(>Möglichsein<)」と「存在可能(>Seinkönnen<)」いう新しい概念が登場します。これらの概念はどのようなものでしょうか。
 カントのカテゴリー表では、可能性は様態のカテゴリー部門の1つのカテゴリーです。カントは様態のカテゴリーとして、可能性、現実性、必然性を挙げていました。可能性のカテゴリーは、ある事態が起こりうると同時に、起こらないこともありうることを示します。現実性のカテゴリーは、ある事態が現実に起こっていることを示し、必然性のカテゴリーは、さまざまな条件にかんがみて、ある事態が実際に現実的なものとなることが必然的であったことを示します。可能性は現実性で否定され、それが必然性で止揚されるというのが、カントの様態のカテゴリーの構成でした。ところでこのカテゴリーは、自然の事物に適用されるものであり、その出来事を観察した外部の人間が判断するカテゴリーです。
 これにたいして現存在に適用される実存カテゴリーとしての可能性は、「まず眼前的に存在していて、さらに何ごとかをなしうることを付録のようにもっている存在者ではない」という文章で示されているように、何かをすることも、しないこともできる「付録のような」可能性のことではありません。これは「<世界>について配慮的に気遣い、他者たちにたいして顧慮的に気遣うという特徴的なありかたをしているということであ」り、「そしてそのすべてにおいて、かつつねにすでに、現存在は自分自身に向かって、そして自分自身をそのための<存在可能>としているということ」です。現存在はつねに「可能性の存在」なのです。
 この「可能性の存在」という概念は、「存在可能」という概念と対比して使われます。「存在可能」という概念は、現存在の被投性と深い関係にあります。現存在はすでに世界のうちに投げ込まれて存在しているのであり、世界においてすべてのことを自由に選択できるような存在ではなく、すでに生まれた瞬間から1つの運命のもとにあります。どの現存在も、自分の生まれる土地、生まれてくる両親、生まれてくる時間を選択することはできません。誕生においてだけではなく、職業を選択するときにも、過程の条件、本人の条件、仕事の条件などがすでに定められているために、そのうちで結局のところ選択できるものはごく限られています。それが被投性ということであり、現存在はすでにさまざまな存在の可能性のうちから、すでにある存在の可能性をつねに選択させられているのです。

Die Möglichkeit als Existenzial bedeutet nicht das freischwebende Seinkönnen im Sinne der >Gleichgültigkeit der Willkür< (libertas indifferentiae). Das Dasein ist als wesenhaft befindliches je schon in bestimmte Möglichkeiten hineingeraten, als Seinkönnen, das es ist, hat es solche vorbeigehen lassen, es begibt sich ständig der Möglichkeiten seines Seins, ergreift sie und vergreift sich. Das besagt aber: das Dasein ist ihm selbst überantwortetes Möglichsein, durch und durch geworfene Möglichkeit. Das Dasein ist die Möglichkeit des Freiseins für das eigenste Seinkönnen. Das Möglichsein ist ihm selbst in verschiedenen möglichen Weisen und Graden durchsichtig. (p.144)
実存カテゴリーとしての可能性は、「無差別な選択意志の自由」という意味での宙に浮いたような<存在可能>であることを示すものではない。現存在は本質的に情態性のもとにあるために、そのつどすでに特定の可能性のうちに組み入れられているのであり、現存在が実際にそう”である”<存在可能>としては、ほかの特定の可能性をすでに逸しているのである。すなわち現存在は不断に、自己の存在のいくつかの可能性を断念したり、それをつかみとったり、つかみとり損ねたりしている。ということは、現存在はみずからに委ねられた<可能性の存在>であり、徹底的に”被投的な可能性”であるということである。現存在とは、自己にもっとも固有な存在可能に”向かって”自由な存在であるという可能性なのである。現存在にとってこの可能性の存在は、さまざまに可能なありかたで、さまざまに可能な程度で、みずからにとって見通しのよいものとなっている。

 まだ無規定なままの存在可能のうちから、現存在は1つの可能性を選択するのであり、「現存在は不断に、自己の存在のいくつかの可能性を断念したり、それをつかみとったり、つかみとり損ねたりしてい」ます。たとえば、刀匠になった現存在は、呉服屋になるべき可能性を「つかみとり損ねた」のです。「現存在は本質的に情態性のもとにあるために、そのつどすでに特定の可能性のうちに組み入れられているのであり、現存在が実際にそう”である”<存在可能>としては、ほかの特定の可能性をすでに逸している」というのは、このことを示しています。このように「存在可能」とは、現存在が潜在的な可能性としては、それになりうるさまざまな存在のありかたを示すものであり、現存在はそうしたさまざまな存在可能のうちから、1つの存在可能を現実に選びとっているのです。
 これに対して「可能性の存在」であるということは、たとえ現存在が現実にある1つの「存在可能」を選びとって刀匠になっていたとしても、まだそこにさまざまな可能性が秘められていることを示しています。呉服屋になる「存在可能」は、たしかにその現存在にとっては実現し損ねた存在可能ですが、現存在はつねに、別の存在可能を選択し直す可能性を秘めています。現存在は自分にもっとも固有な存在可能を目指して、事実として選択している存在可能を放棄することもできるのです。「現存在とは、自己にもっとも固有な存在可能に”向かって”自由な存在であるという可能性なのである。現存在にとってこの可能性の存在は、さまざまに可能なありかたで、さまざまに可能な程度で、みずからにとって見通しのよいものとなっている」。
 このように<可能性の存在>としての現存在は、世界のうちに投げ込まれていながらも、自分のありうべき実存のありかたを目指して新たな決断と選択をする自由を与えられています。現存在にはつねにすでに選択した存在可能を作り替え、やり直す可能性がそなわっているのであり、それが現存在が可能性の存在であるということです。

 理解することは、現存在が実存というありかたで存在可能において存在すること、事実として選びとった存在可能を認識することですが、それだけではなく、理解は自己知に結びついていると、ハイデガーは指摘します。

Das Dasein ist in der Weise, daß es je verstanden, bzw. nicht verstanden hat, so oder so zu sein. Als solches Verstehen >weiß< es, woran es mit ihm selbst, das heißt seinem Seinkönnen ist. Dieses >Wissen< ist nicht erst einer immanenten Selbstwahrnehmung erwachsen, sondern gehört zum Sein des Da, das wesenhaft Verstehen ist. Und nur weil Dasein verstehend sein Da ist, kann es sich verlaufen und verkennen. Und sofern Verstehen befindliches ist und als dieses existenzial der Geworfenheit ausgeliefertes, hat das Dasein sich je schon verlaufen und verkannt. In seinem Seinkönnen ist es daher der Möglichkeit überantwortet, sich in seinen Möglichkeiten erst wieder zu finden. (p.144)
現存在は、しかじかのありさまで存在することをそのつど理解しているか、あるいは理解していないというありかたで存在している。このような理解というありかたをする現存在は、自分自身にとって、すなわち自分の<存在可能>にとって”何が”重要な意味をもつかを「知っている」。この「知識」は、内在的な自己の知覚によって初めて生まれてくるものではなく、本質からして理解というありかたをしている<そこに現に>の存在に、もともとそなわっているのである。さらに現存在が理解しながらみずからの<そこに現に>を存在している”からこそ”、現存在が自分の歩むべき道を間違えたり、自分を見損なったりすることが”ありうる”のである。そして理解が情態的なものであるため、すなわち実存論的には被投性に委ねられたありかたをするものであるため、現存在はそのつどすでに自分の歩むべき道を間違えており、自分を見損なっているのである。現存在はみずからの存在可能において、自分のさまざまな可能性のうちに、ようやく自分をふたたびみいだすという可能性に委ねられているのである。

 理解する現存在は、「自分のさまざまな可能性のうちに、ようやく自分をふたたびみいだすという可能性に委ねられているのである」こと、実存する者として新たな可能性を選択しうる「可能性の存在」であることを知っています。しかし、理解はすでに確認されたように情態的なものであり、「実存論的には被投性に委ねられたありかたをするものであるため、現存在はそのつどすでに自分の歩むべき道を間違えており、自分を見損なっている」のだと言われています。それだけに「理解というありかたをする現存在は、自分自身にとって、すなわち自分の<存在可能>にとって”何が”重要な意味をもつかを<知っている>」ということになります。

Verstehen ist das existenziale Sein des eigenen Seinkönnens des Daseins selbst, so zwar, daß dieses Sein an ihm selbst das Woran des mit ihm selbst Seins erschließt. (p.144)
”理解するということは、現存在自身がみずからに固有な存在可能を生きる実存論的な存在であるということであり、この実存論的な存在は、自分自身の存在にとって何が重要な意味をもつかをみずからに開示している”。

 理解という、この実存カテゴリーの構造をさらに鋭く捉える必要があります。

 理解することは実存の根本的な様態の1つであり、それは現存在をその被投性において、情態性において、世界内存在としてあらわにするものです。現存在は可能性としてはつねに世界内における存在可能です。眼前存在者ではない現存在は、いかなる可能性を選択しようとも、つねに世界内存在としての存在の可能性を選択するしかないのです。
 しかしこの理解によって開示された世界内存在は同時に、手元存在者に囲まれた存在です。だからこそ、1つの「存在可能」を選択していながら、つねに「可能性の存在」である現存在は、世界のうちにさまざまな手元的な存在者の可能性をみいだします。

Das Verstehen betrifft als Erschließen immer die ganze Grundverfassung des In-der-Welt-seins. Als Seinkönnen ist das In-Sein je Seinkönnen-in-der-Welt. Diese ist nicht nur qua Welt als mögliche Bedeutsamkeit erschlossen, sondern die Freigabe des Innerweltlichen selbst gibt dieses Seiende frei auf seine Möglichkeiten. (p.144)
理解することは開示することとして、つねに世界内存在の根本的な機構の全体にかかわっている。その内存在は存在可能としては、そのつど<世界内における存在可能>である。この世界は、可能的な有意義性としての世界として開示されているだけではない。世界内部的なもの自身が<開けわたされる>ことで、世界内部的な存在者を、”その存在者のもつ”さまざまな可能性に向けて<開けわたす>のである。

 現存在のまなざしは、「世界内部的な存在者を、”その存在者のもつ”さまざまな可能性に向けて<開けわたす>」のです。鉄を打つための槌は、その本来の用途である「打つこと」以外にも、仕事場の入り口につるして刀鍛冶屋のめじるしにしたり、緊急時にはそれを武器として扱うこともできるでしょう。こうした手元的な存在者のもつさまざまな可能性は、有用性や使用可能性や害をなす可能性のようなさまざまな形をとることができます。したがって、適材適所性の全体性とは、実際には手元存在者の連関における「可能性」の全体であったのです。

 このように現存在は被投性というありかたのもとで、さまざまな「存在可能」のうちから1つの存在可能を選択しているのであり、その選択は被投性のもたらした制約のうちで決定されるでしょう。しかし世界内存在としての現存在は被投性のうちで特定の「存在可能」を選択している存在者であるだけではなく、つねに新たな「存在可能」へと向けて選択を行う「可能性の存在」でもあります。これを示すのが<投企>という概念です。

Warum dringt das Verstehen nach allen wesenhaften Dimensionen des in ihm Erschließbaren immer in die Möglichkeiten? Weil das Verstehen an ihm selbst die existenziale Struktur hat, die wir den Entwurf nennen. Es entwirft das Sein des Daseins auf sein Worumwillen ebenso ursprünglich wie auf die Bedeutsamkeit als die Weltlichkeit seiner jeweiligen Welt. Der Entwurfcharakter des Verstehens konstituiert das In-der-Welt-sein hinsichtlich der Erschlossenheit seines Da als Da eines Seinkönnens. Der Entwurf ist die existenziale Seinsverfassung des Spielraums des faktischen Seinkönnens. Und als geworfenes ist das Dasein in die Seinsart des Entwerfens geworfen. (p.145)
理解は、それが開示することのできるもののすべての本質的な次元において、つねにそこにあるさまざまな可能性へと進んでいこうとするのだが、それはどうしてだろうか。それは理解にはそれ自身に、わたしたちが”投企”と名づける実存論的な構造がそなわっているからである。理解は現存在の存在を、<そのための目的>に向かって根源的に投企する。そしてそれと同じく根源的に、現存在の存在を、そのときどきの現存在の世界の世界性としての有意義性に向けて投企するのである。理解にそなわるこの投企という性格は、世界内存在の<そこに現に>が、何らかの存在可能としての<そこに現に>として開示されているという意味で、世界内存在を構成するものなのである。投企は、事実的な存在可能によって開かれる活動の空間の実存論的な存在機構なのである。現存在は被投されたものであるが、それは投企という存在様式のうちへと、被投されているのである。

 投企という語は、>Entwurf<を訳したものとなっています。この語は、「投げる」を意味する>werfen<という動詞から派生した、「投射する」や「投げ掛ける」という”能動的な”意味をもつ動詞>entwerfen<から作られた名詞です。これに対して「被投性」>Geworfenheit<という語は、>werfen<の受動形>geworfen<を名詞化したものであり、”受動性”を特徴とします。どちらも同じ「投げる」>werfen<に基づいており、そこに投企と被投性の密接な関係が示されています。
 このように被投性は、現存在が世界のうちに投げ出されている”受動的なありかた”を示しますが、投企は世界のうちに投げ出された現存在が、みずからの意志でもって、自分のありうべき可能性に向かって、みずからを投げ掛ける”能動的なありかた”を示します。ここでは投企の実存論的な構造について、「理解は現存在の存在を、<そのための目的>に向かって根源的に投企する。そしてそれと同じく根源的に、現存在の存在を、そのときどきの現存在の世界の世界性としての有意義性に向けて投企するのである」と語られていますが、この文には3つの重要なことがまとめられています。
 第1は、理解というものが、現存在をそのほんらいの可能性の存在に向けて投企するものだということです。ここに理解の未来志向が明確に示されています。理解は現存在のそれまでの「存在可能」(これは過去の時間にかかわります)を認識したうえで、それを新たな「可能性の存在」に向けて、未来へと投げ掛けるのです。「投企は、事実的な存在可能によって開かれる活動の空間の実存論的な存在機構」なのです。
 同じ段落でハイデガーは次のように指摘します。

Dasein versteht sich immer schon und immer noch, solange es ist, aus Möglichkeiten. (p.145)
現存在は存在するかぎり、つねにすでに、そしてつねになお、さまざまな可能性のうちからみずからを理解する。

 ここで「つねにすでに(>immer schon<)」は過去においてすでに「存在可能」として被投されていること、「つねになお(>immer noch<)」は未来における新たな「可能性の存在」に投企しようとすることと考えられます(>noch<というドイツ語には、情態や行動の継続や残余を表す「まだ、いまだに」や、過去の時点に関連して「つい先頃」を意味することも、近い未来について「いずれ、そのうち」を意味することもあります)。
 第2は、この可能性の存在は、その現存在のほんらいの実存のありかたとして、その現存在の<そのための目的>を示すものだということです。そこに現存在の”目的と可能性”の密接な結びつきが示されます。ただしこの「目的」というものは、現存在が明確に意図しているもの、たとえば何かになりたいというような将来において実現すべき目的のようなものとして理解すべきではありません。そのことをハイデガーは次のように語ります。

Der Entwurfcharakter des Verstehens besagt ferner, daß dieses das, woraufhin es entwirft, die Möglichkeiten, selbst nicht thematisch erfaßt. Solches Erfassen benimmt dem Entworfenen gerade seinen Möglichkeitscharakter, zieht es herab zu einem gegebenen, gemeinten Bestand, während der Entwurf im Werfen die Möglichkeit als Möglichkeit sich vorwirft und als solche sein läßt. Das Verstehen ist, als Entwerfen, die Seinsart des Daseins, in der es seine Möglichkeiten als Möglichkeiten ist. (p.145)
理解が投企という性格をそなえているということはさらに、理解は<そのものに向かって>投企する<そのもの>を、すなわちさまざまな可能性を主題として把握していないということである。このように把握したならば、投企されたものからまさにその可能性という性格を奪ってしまうことになり、投企されたものは与えられ、意図された事態の地位にまで引き下げられてしまう。これにたいして投企は<投げること>として、自分のために前もって可能性を可能性として投げ掛けておき、可能性として”存在”させる。理解は投企として、現存在がみずからの可能性を、可能性として”存在している”という現存在の存在様式なのである。

 ハイデガーは、「理解は<そのものに向かって>投企する<そのもの>を、すなわちさまざまな可能性を主題として把握していない」と表現しています。現存在をそのほんらいの可能性の存在に向けて投企する理解は、そこに向かって投企する<そのもの>を明確に把握しているわけではなく、「可能性として」存在させます。もし目的が主題として把握されたならば、目的は「与えられ、意図された事態の地位にまで引き下げられてしまう」ことになり、現存在が可能性の存在だということが言えなくなってしまうでしょう。
 第3は、この投企は、世界において宙に浮いたようなものではなく、世界の世界性のうちで、すなわち世界の有意義性の連関のうちで行われるということです。投企は、「現存在の世界の世界性としての有意義性に向けて」行われます。投企の能動性は、被投の受動性と密接に結びついており、投企は被投性に基づいてしか可能ではないのです。すなわち「現存在は被投されたものであるが、それは投企という存在様式のうちへと、被投されているのである」ということです。

 理解は、自己の「可能性の存在」という未来へ向かうありかたに依拠しながら、規定の「存在可能」をつねに新たな「可能性の存在」に代えることのできる営みであって、それが投企です。このため、現存在は事実としてすでに選択した「存在可能」をつねに超え出るという意味で、実際にそうであるも「より以上」であるものと言えます。しかし現存在は世界における被投性の存在として、すでに選択した「存在可能」にすぎないこともたしかであり、やはり事実的にそうであるもの「より以上」であるということもないとも同時に言えるでしょう。

Das Dasein ist aber als Möglichsein auch nie weniger, das heißt das, was es in seinem Seinkönnen noch nicht ist, ist es existenzial. Und nur weil das Sein des Da durch das Verstehen und dessen Entwurfcharakter seine Konstitution erhält, weil es ist, was es wird bzw. nicht wird, kann es verstehend ihm selbst sagen: >werde, was du bist!<. (p.145)
ただし現存在は可能性の存在であるから、<より以下>であることも決してありえない。すなわち、現存在はみずからの存在可能においては”まだ”それで”ない”ものであっても、実存論的にはすでにそれで”ある”のである。そして<そこに現に>の存在は理解とその投企という性格で構成されるものであるからこそ、そして現存在はそれがなるもの”であるか”、ならぬものでも”ある”からこそ、現存在は理解しながらみずからに、「汝であるものになれ!」と言い聞かせることができるのである。

 「現存在はみずからの存在可能においては”まだ”それで”ない”ものであっても、実存論的にはすでにそれで”ある”のである」というのは、現存在は事実的にそれであるものではなくても、「可能性の存在」としては、実存論的にはすでにそれであるということを言っています。刀匠は事実的には刀匠ですが、「可能性の存在」としてはすでに呉服屋でもあるということです。そして、現存在は「可能性の存在」として、ほんらいの自己の「可能性の存在」へと立ち戻り、その「可能性の存在」へと自己を投げ掛ける存在です。それゆえ「現存在はそれがなるもの”であるか”、ならぬものでも”ある”からこそ、現存在は理解しながらみずからに、<汝であるものになれ!>と言い聞かせることができる」ことになります。

 現存在は規定の「存在可能」を超え出る可能性をそなえていますが、問題なのは、そうした可能性にはさまざまなものがあるということです。現存在が自己の可能性をどのように理解するかについて、本来的な理解と非本来的な理解がありうるのです。ハイデガーは「理解」について、本来的な理解と非本来的な理解を、現存在がみずからの実存のうちから理解するか、世界の側から理解するかに応じて考察しています。

Der Entwurf betrifft immer die volle Erschlossenheit des In-der-Welt-seins; das Verstehen hat als Seinkönnen selbst Möglichkeiten, die durch den Umkreis des in ihm wesenhaft Erschließbaren vorgezeichnet sind. Das Verstehen kann sich primär in die Erschlossenheit der Welt legen, das heißt das Dasein kann sich zunächst und zumeist aus seiner Welt her verstehen. Oder aber das Verstehen wirft sich primär in das Worumwillen, das heißt das Dasein existiert als es selbst. Das Verstehen ist entweder eigentliches, aud dem eigenen Selbst als solchem entspringendes, oder uneigentliches. (p.146)
投企はつねに世界内存在の完全に開示されたありかたにかかわるものであり、理解は存在可能としては、それ自体にさまざまな可能性をそなえている。この可能性の範囲は、理解において本質的に開示されうるものが作りだす領域によって、あらかじめ素描されている。理解が第1義的に世界の開示性のうちにある”ことができる”のであり、現存在がさしあたりたいていは、自分の世界のほうからみずからを理解しうることがあげられる。あるいはその反対に、理解が第1義的には<そのための目的>のうちにみずからを投げいれ、現存在が現存在そのものとして実存していることもある。理解は本来的なものとして、おのれに固有の自己そのものから現れているか、非本来的な理解であるかのいずれかである。

 すでにハイデガーは、現存在は自己を理解する際に、世界の事物から反照するようにして理解する傾向があることを指摘していました。現存在がみずからの実存としてのありかたを自覚するのではなく、世界のうちに存在する事物の側から、あたかも自分が眼前的な事物であるかのように理解することがあります。これが非本来的な理解です。この理解においては、「現存在がさしあたりたいていは、自分の世界のほうからみずからを理解」することがありうるのです。
 これとは対照的に、現存在が自己の可能性を理解する際に、その可能性を<そのための目的>から考察している場合には、「現存在が現存在そのものとして実存している」と考えることができます。これが本来的な理解です。以下で検討するように、このありかたをする現存在は、「貫くまなざし」をもつことになると語られます。

 理解が投企であることから、現存在はつねに被投性としての存在の可能性にまなざしを向けながらも同時に、<そのための目的>に向けて、みずからの固有の実存のために選択し、決断するまなざしをもつという2重の意味で、理解はまなざしという性格をもちます。

Das Verstehen macht in seinem Entwurfcharakter existenzial das aus, was wir die Sicht des Daseins nennen. Die mit der Erschlossenheit des Da existenzial seiende Sicht ist das Dasein gleichursprünglich nach den gekennzeichneten Grundweisen seines Seins als Umsicht des Besorgens, Rücksicht der Fürsorge, als Sicht auf das Sein als solches, umwillen dessen das Dasein je ist, wie es ist. Die Sicht, die sich primär und im ganzen auf die Existenz bezieht, nennen wir die Durchsichtigkeit. (p.146)
理解はその投企としての性格から、わたしたちが現存在の”まなざし”と呼ぶものを実存論的に構成している。その<まなざし>は、<そこに現に>の開示性とともに実存論的に存在する現存在であり、これまで性格づけてきた現存在の存在の根本的なありかたに基づいて、配慮的な気遣いの<目配り>のまなざしとして、顧慮的な気遣いの<気配り>のまなざしとして現存在に存在して”いる”。しかし現存在にはそれらと等根源的なものとして、存在そのものをめがける<まなざし>も存在して”いる”。この存在そのものをめがける<まなざし>は、現存在がそのつど、<そのため>として現にそれであるものをめがけた<まなざし>である。第1義的に、そして全体として実存にかかわるこの<まなざし>を、わたしたちは<貫くまなざし>と呼ぶことにする。

 「まなざし」についてはすでに第15節で指摘されていました(Part.14参照)。ここではまなざしのありかたがまとめて提起されています。配慮する気遣いの目配りのまなざし、顧慮する気遣いの気配りのまなざし、そして現存在が<そのための目的>を目指して「存在そのものをめがける<まなざし>」です。この第3のまなざしについてはまた、「第1義的に、そして全体として実存にかかわるこの<まなざし>を、わたしたちは<貫くまなざし>と呼ぶ」と規定されています。これらはどれも「等根源的」であることに注意しましょう。

Existierendes Seiendes sichtet >sich< nur, sofern es sich gleichursprünglich in seinem Sein bei der Welt, im Mitsein mit Anderen als der konstitutiven Momente seiner Existenz durchsichtig geworden ist. (p.146)
実存しながら存在する者は、世界における自己の存在と他者たちとの共同存在を、等根源的にあるものとみなしながら、それらをみずからの実存を構成する契機として、<貫くまなざし>でみずからに見通すときに初めて、「みずから」を<まなざし>で見通すのである。

 本来的な、正しく理解された自己認識は、世界内存在にそなわる完全な開示性を、その本質的な機構の構成要素である「世界における自己の存在と他者たちとの共同存在」を”貫いて”理解することによって、すなわち<貫くまなざし>で見通すことによって、可能となるのです。

 これまでみてきたように、<そこに現に>は理解において開示されているのであり、そのこと自体が現存在の存在可能のありかたの1つです。現存在は事実的には、みずからの存在可能を、そのつどつねに理解の何らかの可能性のうちに置きいれてしまっているような存在者なのです。そしてこの「理解」のうちで、存在理解の可能性があるのです。

In der Entworfenheit seines Seins auf das Worumwillen in eins mit der auf die Bedeutsamkeit (Welt) liegt Erschlossenheit von Sein überhaupt. Im Entwerfen auf Möglichkeiten ist schon Seinsverständnis vorweggenommen. Sein ist im Entwurf verstanden, nicht ontologisch begriffen. Seiendes von der Seinsart des wesenhaften Entwurfs des In-der-Welt-seins hat als Konstitutivum seines Seins das Seinsverständnis. Was früher dogmatisch angesetzt wurde, erhält jetzt seine Aufweisung aus der Konstitution des Seins, in dem das Dasein als Verstehen sein Das ist. (p.147)
現存在の存在が<そのための目的>に向けて投企され、かつまた有意義性(世界)に向けて投企されていることに、存在一般の開示性が示されているのである。さまざまな可能性へ向けて投企することのうちに、すでに存在了解があらかじめ先取りされているのである。存在は、投企のうちで理解されているのであり、存在論的に把握されているわけではない。その本質からして、世界内存在の投企という存在様式で存在する存在者は、みずからの存在を構成する要素として、存在了解をそなえているのである。このようにしてわたしたちが独断的に出発点として設定しておいたことが、今や存在の構成に基づいて改めて提示されるようになった。というのも、現存在は理解する者として、みずからの<そこに現に>を存在しているからである。

 第4節において、「"存在了解はそれ自身が、現存在の1つの存在規定なのである"」と指摘されていました(Part.2参照)。「わたしたちが独断的に出発点として設定しておいたことが、今や存在の構成に基づいて改めて提示されるようになった」というのは、存在了解が理解する者としての現存在の存在に基づいていており、「その本質からして、世界内存在の投企という存在様式で存在する存在者は、みずからの存在を構成する要素として、存在了解をそなえている」ということが、ここで明らかになったということです。
 ただし、「存在は、投企のうちで理解されているのであり、存在論的に把握されているわけではない」と言われています。たしかに現存在は存在了解によって存在について何かを了解してはいますが、それは存在論的に把握されたものでは決してありません。また、この文章の欄外に、>Heißt aber nicht: Sein ≫sei≪ von Gnaden des Entwurfs<「これは、存在が投企のおかげで<存在する>ということを意味するものではない」と書かれています。投企は存在了解を可能にしますが、それは存在についての曖昧で前存在論的な了解にすぎず、決して存在を根拠づけるようなものではありません。存在を存在論的に把握することこそが本書の試みなのであり、探究はまだまだ続けられる必要があるのです。


 今回は以上になります。この節では「情態性」につづき、第2の契機として「理解」が提示されました。次節ではこの理解が派生したものである「解釈」について考察されることになります。

 またよろしくお願いします。

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