『存在と時間』を読む Part.46

  (c)真理の存在様式と真理の前提

Das Dasein ist als konstituiert durch die Erschlossenheit wesenhaft in der Wahrheit. Die Erschlossenheit ist eine wesenhafte Seinsart des Daseins. Wahrheit >gibt es< nur, sofern und solange Dasein ist. Seiendes ist nur dann entdeckt und nur solange erschlossen, als überhaupt Dasein ist. Die Gesetze Newtons, der Satz vom Widerspruch, jede Wahrheit überhaupt sind nur solange wahr, als Dasein ist. (p.226)
開示性で構成されている現存在は、その本質からして真理のうちにある。開示性は、現存在の本質的な存在様式である。”真理は、現存在が存在するかぎり、存在するあいだだけ、「与えられている」”。存在者は、そもそも現存在が”存在しているときに”かぎって露呈されるのであり、そして”そのあいだだけ”開示されている。ニュートンの法則も、矛盾律も、一般にあらゆる真理は、現存在が”存在している”あいだだけ、真なのである。

 真理は開示性であり、露呈することであり、〈露呈されてあること〉であることが、これまでの考察から導き出されました。そして現存在は開示性なのですから、現存在なしでは真理は存在しないということは明らかでしょう。万有引力の法則はニュートンによって発見されましたが、それ以前には「真」ではありませんでした。とはいえ、この法則が虚偽であったと主張することもできませんし、もし仮に誰によってもこの法則が露呈されないようなことになったとしても、この法則が虚偽になるだろうと主張することもできないとハイデガーは考えています。

Die Gesetze Newtons waren vor ihm weder wahr noch falsch, kann nicht bedeuten, das Seiende, das sie entdeckend aufzeigen, sei vordem nicht gewesen. Die Gesetze wurden durch Newton wahr, mit ihnen wurde für das Dasein Seiendes an ihm selbst zugänglich. Mit der Entdecktheit des Seienden zeigt sich dieses gerade als das Seiende, das vordem schon war. So zu entdecken, ist die Seinsart der >Wahrheit<. (p.227)
ニュートンの法則は、ニュートン以前には真でも偽でもなかったということは、これらの法則を露呈して提示する存在者が、それ以前には存在しなかったということではありえない。これらの法則はニュートンによって真なるものになった。現存在はこれらの法則を使うことで、存在者そのものに接近することができるようになった。存在者がこのように〈露呈されてあること〉によって、この存在者は、それ以前からすでに存在していた存在者としての姿を現すのである。このように露呈させるということが、「真理」の存在様式なのである。

 18世紀に入り、ニュートンが万有引力の法則でりんごが木から落ちる現象を説明しましたが、当然17世紀以前にもりんごが落下する現象は目撃されていたはずです。その時点の人々は、りんごが落下するのは、りんごにとっては空中にあるのではなく、大地にあるのが、その「土」としての性質にふさわしいものだからと考えていました。これは当時の一般に信じられていたアリストテレスの物理学の理論によるものであり、このときはまだ万有引力という思想は存在しませんでした。それではそのときにはニュートンの法則は偽だったということになるのでしょうか。
 この問題についてハイデガーは、ニュートンの法則が歴史を超越して妥当するかという普遍性について問うのではなく、その法則を露呈して使用する現存在の存在様態から考えようとします。この法則が露呈されるとともに、現存在はそれを真理とみなして、現実の場で使い始めました。これによって現存在は、現実の存在者とそれまでとは違う接し方をするようになります。アリストテレスの法則を信じていた人間と、ニュートンの法則を信じている人間では、存在者にたいする姿勢が異なるでしょうし、天体の運動についてや落下運動についての説明も異なったものになるはずです。
 アリストテレスの法則もニュートンの法則も、それぞれの時代においては正しいものとされていました。どちらが真理の体系として指示されるかは、それぞれの時代における人間の判断であることは明らかでしょう。ここで真理を決定しているのは、真理と現存在の関係です。現存在が真理存在であるという意味では、ある存在者が現存在の認識を超えたものである場合、その存在者は真理にかかわりません。りんごという存在者が木から落ちることは、もしも判断する現存在が存在しない場合にも事実として起こりつづけるでしょう。これを目撃して露呈する人間が存在するときに、初めてそれが「真理」として露呈されることになります。存在者そのものは真理とは無縁であり、真理が問われるのは、現存在が認識する存在者についてだけです。
 ハイデガーは、ある法則が真理であるかどうかは、現存在が「これらの法則を使うことで、存在者そのものに接近することができるようになった」かどうかによって判断すべきであると考えています。ハイデガーは真理を、現存在の実存という観点から考察することを試みるのです。

Alle Wahrheit ist gemäß deren wesenhaften daseinsmäßigen Seinsart relativ auf das Sein des Daseins. Bedeutet diese Relativität soviel wie: alle Wahrheit ist >subjektiv<? Wenn man >subjektiv< interpretiert als >in das Belieben des Subjekts gestellt<, dann gewiß nicht. Denn das Entdecken entzieht seinem eigensten Sinne nach das Aussagen dem >subjektiven< Belieben und bringt das entdeckende Dasein vor das Seiende selbst. Und nur weil >Wahrheit< als Entdecken eine Seinsart des Daseins ist, kann sie dessen Belieben entzogen werden. (p.227)
”すべての真理は、その本質からして現存在的な存在様式のために、現存在の存在と相対的な関係にある”。この相対性は、すべての真理は「主観的」であることを意味するものだろうか。もしも「主観的」ということを、「主観の恣意に委ねられていること」として解釈するのであれば、もちろんそのようなことはない。というのは露呈させることはそのもっとも固有な意味からして、言明から「主観的な」恣意というものを遠ざけるのであり、露呈させる現存在を存在者そのものに向き合わせるからである。そして「真理」とは、露呈させることであって、これは”現存在の1つの存在様式であるからこそ”、真理は”現存在の”恣意に委ねられることはありえないのである。

 このハイデガーの考察では、真理と実存の関係について、相対性という観点から論点が提起されていますが、これは文化によって何が真理であるかが決まるという文化的な相対性の議論や、真理の認識における個人差に注目する主観的な相対性の議論とは異なるものです。ハイデガーは、存在者の側には真理は存在しないと考えているので、真理がある意味で相対的なものであると指摘します。しかしこの指摘は、個人の主観的な意味で真理が相対的なものであることを意味するものではなく、存在者と対比した場合の現存在における真理の相対性を意味します。すべての現存在は、真理によって「存在者そのものに向き合わ」されるようになるのであり、これはたんに主観的なものでも、「主観の恣意に委ねられている」ものでもありません。〈露呈させること〉としての真理は「”現存在の1つの存在様式”」なのであり、主観の恣意に委ねられたものではないのです。

 ここで、真理についてのこれまでのハイデガーの考察をふりかえってみましょう。まず、伝統的な真理の定義である「知性と事物の一致」は不適切なものであると指摘されました。ハイデガーによれば、アリストテレスは真理という概念を、事物の存在の「覆いをとって暴露すること」という意味で使っていたのでした。このことはアリストテレスが真理というものを、ギリシア語のアレーテイア、すなわち覆いを取って明らかにする(>entdecken<)ことという意味で考えていたことを示しています。これは人間が世界の事物と出会うことを意味しているのであり、人間が存在者と出会い、存在を認識することを意味します。アリストテレスの真理概念は、「知性と事物の一致」という命題の次元だけで考えられるべきものではなく、存在論的な意味をそなえているのでした。
 そして人間がものと出会うということは、現存在が世界において開示性というありかたをしていることによって初めて可能になるのだとハイデガーは考えます。この開示性というありかたは、人間が世界において配慮的な気遣いをすることで、みずからの存在のしかたと事物の存在のしかたの両方を開示するということです。刀匠は手元にある槌を知覚することで、槌と出会います。しかしこの槌との出会いは、命題によって表現されるような〈一致〉としての真理が問われるような形で出会うのではなく、刀匠は「ここに槌が置かれている」という命題をわざわざ語りはしません。槌は刀を製作する道具として存在しているのであり、槌を知覚するときには、それをたんに事物としてではなく、世界の中での有意義性の連関のうちで、適材適所性としての性格において知覚するのです。
 同時に、刀匠が槌を知覚したときには、その槌を使って、たとえばこれから注文された刀を作ろうとしている存在者としての自分を明らかにします。わたしは刀鍛冶であり、戦に出る武士のために刀を作ろうとしている人間であると、槌においてその適材適所性を明らかにすると同時に、そうした道具を使って世界のうちで生きている自分の存在連関そのものが明らかにされるのです。現存在は槌という手元存在者を露呈させることで、真理を「明かす」存在者であると同時に、良い刀を作ることを目指すという意味で配慮的な気遣いをする存在者であることを「明かす」存在者です。
 このような2重の意味で「明かす」こと、すなわち手元存在者を「露呈させる」と同時に、自己の存在のありかたを「開示する」ということは、現存在が自己と世界のありかたの「覆いを取って明らかに示す」という意味で真理の本来の意味を示すものです。現存在はこうした開示性において、自己と世界の真理を明らかにする存在者なのです。
 この意味での真理が、〈一致〉の意味での真理よりもさらに根源的なものであるのは明らかでしょう。〈一致〉という意味での真理はつねに、この実存論的な真理を前提にしているのです。そのことをハイデガーは次のように表現します。

Wir müssen die Wahrheit voraussetzen, sie muß als Erschlossenheit des Daseins sein, so wie dieses selbst als je meines und dieses sein muß. Das gehört zur wesenhaften Geworfenheit des Daseins in die Welt. (p.228)
わたしたちは真理が存在することを前提に”しなければならない”が、真理は現存在の開示性として”存在しなければならない”。それはこの現存在そのものがそのつどわたしのものとして、あるいはこの現存在として”存在しなければならない”のと同じである。このことは、世界の中に現存在することが、その本質からして被投的な存在であることから生じるのである。


 さて、上記の引用で「前提」ということが登場してきましたが、ハイデガーはその前の段落でこれについて説明しています。少々脇道にそれますが、確認しておくことにしましょう。

Was besagt >voraussetzen<? Etwas verstehen als den Grund des Seins eines anderen Seienden. Dergleichen Verstehen von Seiendem in seinen Seinszusammenhängen ist nur möglich auf dem Grunde der Erschlossenheit, das heißt des Entdeckendseins des Daseins. >Wahrheit< voraussetzen meint dann, sie verstehen als etwas, worumwillen das Dasein ist. (p.228)
あるものを「前提する」とはどういうことだろうか。これはあるものを、ほかの存在者が存在するための根拠として理解するということである。そしてそうした仕方である存在者を、その存在者の存在連関において理解するということは、開示性に基づいてのみ、すなわち現存在が露呈しつつ存在していることに基づいてのみ可能なことである。だから「真理」を前提にするということは、真理とは現存在が〈それを目的として〉存在するあるものとして、真理を理解するということである。

 刀匠が槌を使用するとき、その槌は鉄を打つ道具として理解されていますが、こうした理解はある前提に基づいているはずだと、ハイデガーは言っています。その前提というのが>worumwillen<であり、わたしたちが〈そのための目的〉と呼んできたものです。刀匠は道具として槌を使いますが、それはそもそも刀匠は良い刀を作るという目的を目指して存在しているからです。槌が鉄を打つ道具として理解されているとき、それは良い刀を作るという目的から理解されているのであり、これが「前提する」ということの意味となります。

Dasein aber - das liegt in der Seinsverfassung als Sorge - ist sich je schon vorweg. Es ist Seiendes, dem es in seinem Sein um das eigenste Seinkönnen geht. Zum Sein und Seinkönnen des Daseins als In-der-Welt-sein gehört wesenhaft die Erschlossenheit und das Entdecken. Dem Dasein geht es um sein In-der-Welt-sein-können und darin um das umsichtig entdeckende Besorgen des innerweltlich Seienden. In der Seinsverfassung des Daseins als Sorge, im Sichvorwegsein, liegt das ursprünglichste >Voraussetzen<. Weil zum Sein des Daseins dieses Sichvoraussetzen gehört, müssen >wir< auch >uns<, als durch Erschlossenheit bestimmt, voraussetzen. (p.228)
しかし現存在は、気遣いという存在機構にそなわる特性として、つねに自己に先立って存在するものである。現存在とは、その存在において、みずからのもっとも固有な存在可能にかかわる存在者なのである。世界内存在としての現存在の存在と存在可能には、その本質からして、開示性と露呈することが属している。現存在とは、みずからの世界内存在可能にかかわる存在であり、そのために世界内部的な存在者を〈目配り〉のまなざしによって露呈させつつ配慮的に気遣う存在である。この気遣いという現存在の存在機構のうちに、そして〈自己に先立って存在すること〉のうちに、もっとも根源的な「前提」が含まれている。”現存在の存在には、このように自己に先立って前提とすることが属しているので、「わたしたち」もまた「みずから」を、開示性に規定されたものとして、前提にせざるをえないのである”。

 良い刀を作るという目的を目指して槌を使用するとき、刀匠は未来の可能性に向かってみずからを投企しているのであり、良い刀を作るという〈そのための目的〉に向かって存在している刀匠は、「みずからのもっとも固有な存在可能にかかわる存在者」となっています。こうした投企の実存論的な意味は、気遣いの〈自己に先立って存在すること〉に表現されており、根源的な「前提」はここに含まれていると、ハイデガーは言います。
 現存在の存在は気遣いであり、気遣いには〈自己に先立って存在すること〉が属しています。第41節ではこの構造について、「自己にもっとも固有の存在可能に向かって存在しているということは、存在論的には、現存在はその存在において、つねにすでに自己よりも”先立っている”ということ」だと指摘されていました(Part.40参照)。気遣いという現存在の存在機構には、本質的に「先立って前提することが属している」のであり、自己にもっとも固有な存在可能に向かって開かれていること(>Das Freisein für das eigenste Seinkönnen<)は、現存在が開示性(>Erschlossenheit<)であること、開かれてあることで可能になります。
 そして真理とは開示性であり、〈露呈しつつあること〉であり、〈露呈されてあること〉でした。ですから、「〈真理〉を前提にするということは、真理とは現存在が〈それを目的として〉存在するあるものとして、真理を理解するということ」になります。このように良い刀を作るという存在可能を開示し、先立って存在するというありかたにおいて、真理を前提にすることの意味が示されているのです。

 話を戻しましょう。ハイデガーは、「わたしたちは真理が存在することを前提に”しなければならない”が、真理は現存在の開示性として”存在しなければならない”。それはこの現存在そのものがそのつどわたしのものとして、あるいはこの現存在として”存在しなければならない”のと同じである」と語っていました。これによって興味深い2つの付随的な命題が示されることになります。1つは「永遠の真理が存在することは証明できない」であり、もう1つは「懐疑論者は自己矛盾をしているのであり、反論する価値がない」です。第1の命題については、真理とはすでに考察されたように、現存在の開示性によって可能となるものですから、「永遠の真理が存在す」ると主張することは、「現存在が永遠に存在する」と主張することと同じことになります。しかし現存在が永遠に存在することは証明できません。したがって、このような命題は空想的なものと結論されます。
 第2の命題は、これとある意味で反対の意味をもちます。懐疑論者は「真理は存在しない」と主張しますが、そもそもその主張が正しいのであれば、それはその主張が真理であることによって真理の存在を示すものであり、懐疑論者の主張はその自己矛盾を露呈していることになります。これは伝統的な懐疑論者に対する反論です。
 しかしハイデガーは、この反論は中途半端なものであると考えています。

Was sie in formaler Argumentation zeigt, ist lediglich, daß, wenn geurteilt wird, Wahrheit vorausgesetzt ist. Es ist der Hinweis darauf, daß zur Aussage >Wahrheit< gehört, daß Aufzeigen seinem Sinne nach ein Entdecken ist. Dabei bleibt ungeklärt stehen, warum das so sein muß, worin der ontologische Grund für diesen notwendigen Seinszusammenhang von Aussage und Wahrheit liegt. (p.228)
その反論は形式的な議論をしながら、判断を下す際には真理を前提にせざるをえないことを示すだけなのである。これが示しているのは、言明には「真理」が属しているということ、提示するということは、その意味からして露呈させることだということだけである。これでは”どうして”そうでなければならないのかも、言明と真理がこのように必然的な存在連関のうちにあるのは、存在論的にどのような根拠があるのかも、”解明されないままに”なっているのである。

 この反論では、「真理は存在しない」というような言明には真理が属しており、そのように判断して提示することは、露呈させることであることを示しているにすぎないと指摘されています。こうした反論は、現存在が開示性であり、真理のうちにあるということをまったく説明しないので、「”どうして”そうでなければならないのかも、言明と真理がこのように必然的な存在連関のうちにあるのは、存在論的にどのような根拠があるのかも、”解明されないままに”なっている」のです。
 しかし懐疑論者の自己矛盾は、たんに議論の上だけのものではありません。懐疑論者はそのように主張することで、みずから現存在として存在していることを明らかにしています。するとそこから懐疑論者の現存在とともに、真理が等根源的に存在することが結論できるでしょう。懐疑論者はみずから存在することによって、その開示性によって、その存在の真理性を明らかにしています。だから懐疑論者はみずからが存在することによって、その主張の根本的な矛盾を露呈しているのです。

Der Skeptiker, wenn er faktisch ist, in der Weise der Negation der Wahrheit, braucht auch nicht widerlegt zu werden. Sofern er ist und sich in diesem Sein verstanden hat, hat er in der Verzweiflung des Selbstmords das Dasein und damit die Wahrheit ausgelöscht. Wahrheit läßt sich in ihrer Notwendigkeit nicht beweisen, weil das Dasein für es selbst nicht erst unter Beweis gestellt werden kann. (p.229)
もしも懐疑論者が真理の存在を否定するというありかたにおいて事実的に”存在する”のであれば、彼に反駁する”必要もない”。懐疑論者が”存在する”かぎり、そして真理を否定するという存在において自己を理解したのであるかぎり、自殺という絶望的な行為のもとで、その現存在を抹消したのであり、それとともに真理も抹消したのである。真理をその必然性において証明することはできない。現存在に向かってその現存在を証明することはできないからである。

 懐疑論者が存在しながら懐疑論を主張するのであれば、彼は真理の存在を否定するという議論によって、自己の現存在を否定することになります。それは「自殺という絶望的な行為」にひとしいのであり、根本的な自己矛盾です。真理は現存在と等根源的なものですから、現存在を抹消することは、真理を抹消することなのです。
 真理は現存在が存在するかぎりで必然的に存在するものです。永遠の真理を証明しようとする試みにみられるように、それを証明することはできません。それは「現存在に向かってその現存在を証明する」ような空しい行為だからであり、証明を可能にする根拠そのものを証明しようとするような行為だからです。そして懐疑論者のように否定しても、現存在は現存在しているから現存在なのであり、その現存在する現存在に向かって、その現存在を否定するという行為の空しさは明らかでしょう。真理は現存在が存在するかぎり、必然的に存在するものです。「このことは、世界の中に現存在することが、その本質からして被投的な存在であることから生じるのである」。

 真理について結論に移っていきましょう。

Das Sein der Wahrheit steht in ursprünglichem Zusammenhang mit dem Dasein. Und nur weil Dasein ist als konstituiert durch Erschlossenheit, das heißt Verstehen, kann überhaupt so etwas wie Sein verstanden werden, ist Seinsverständnis möglich. (p.230)
真理の存在は、現存在と根源的な連関のうちにある。現存在が開示性によって、すなわち理解によって構成されて存在しているからこそ、一般に存在のようなものが理解されるようになり、存在了解が可能になるのである。

 現存在の開示性と真理の結びつきが確認されています(開示性を構成する理解についてはPart.30参照)。

Sein - nicht Seiendes - >gibt es< nur, sofern Wahrheit ist. Und sie ist nur, sofern und solange Dasein ist. Sein und Wahrheit >sind< gleichursprünglich. (p.230)
真理が存在するかぎりで、存在は「与えられている」ーただし存在者が「与えられている」わけではない。そして真理は現存在が存在するかぎり、そして存在するあいだだけ”存在する”。存在と真理は、等根源的に「存在している」。

 すでに確認したように、りんごが落下することは現存在が目撃していなくても起こりつづけ、人間がこれを目撃したときに初めてそれが真理として露呈されることになります。真理は「現存在が存在するかぎり、そして存在するあいだだけ”存在する”」ことになりますが、存在者は真理にかかわりなく存在しつづけています。「真理が存在するかぎりで、存在は〈与えられている〉ーただし存在者が〈与えられている〉わけではない」というのはこのことを語っています。
 このようにして現存在の存在と真理の「等根源的」なありかたが明らかにされることによって、伝統的な真理概念においても、現存在の世界内存在という根源的な存在機構の重要性が明らかにされてきました。真理においては、手元的な存在者である道具のもつ真理のありかたと同時に、開示性としての現存在の真理のありかたが開示されたのでした。そして現存在の根本的な存在様態が「気遣い」にあるという結論がふたたび確認されたのです。ここで問題になるのは次のようなことです。

Aber ist mit dem Phänomen der Sorge die ursprünglichste existenzial-ontologische Verfassung des Daseins erschlossen? Gibt die im Phänomen der Sorge liegende Strukturmannigfaltigkeit die ursprünglichste Ganzheit des Seins des faktischen Daseins? Hat die bisherige Untersuchung überhaupt das Dasein als Ganzes in den Blick bekommen? (p.230)
しかしこの気遣いという現象の分析によって、現存在のもっとも根源的な実存論的かつ存在論的な機構は開示された”ことになる”のだろうか。気遣いの現象に含まれている構造の多様性は、事実的な現存在の存在のもっとも根源的な全体性を示しているのだろうか。これまでの探究はそもそも、現存在を”全体として”眺めようとするものだっただろうか。

 これまで気遣いは〈~のもとにある存在として、~のうちにすでに存在していることで、自己に先立って存在していること〉と規定されてきましたが、この規定はこの気遣いという現象が、それ自身において構造として構成されていることを明らかにしています。そうだとすると、わたしたちは存在論的な問いをさらに深めて、気遣いの構造的な多様性の統一性と全体性を、存在論的に支えているさらに根源的な現象を取りだす必要があるのではないでしょうか。
 また、世界内存在と頽落という現存在の存在機構の分析が示したことは、現存在が世界のうちで道具という手元存在者に囲まれて配慮的な気遣いのうちにある存在者であると同時に、他者という他なる現存在とともに、配慮的な気遣いのうちで、世界を構築している存在者であるということでした。さらにこの現存在は世界内存在として、世界のうちに投げ込まれ、日常性のうちに頽落している存在者であると同時に、自己の固有の存在可能に向かって投企する実存的な存在者であるということでした。
 こうした分析ではまだ、現存在はどのようにして頽落から脱出して、みずからに固有な存在可能に向かって投企する実存的なありかたに到達することができるのかということは、明らかにされていません。ということは、こうした見方は「現存在を”全体として”眺めようとするもの」ではなかったのでしょうか。こうした問いが、そして現存在を”全体として”眺めるとはどのようなことであるかという問いが、次の第2篇の考察を切り開くことになるのです。


 第44節は以上となります。これで第1篇「現存在の予備的な基礎分析」のすべてが完了したことになり、『存在と時間』全体のおよそ半分まで進んできたことになります。

 このnoteを作成するにあたり、今回もいつものように光文社古典新訳文庫の中山元訳『存在と時間』を使用させていただきました(Part.38からPart.46までに該当する第1篇第6章は、第5分冊に収録されています)。


 次回から第2篇に入っていきます。よろしくおねがいします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?