『存在と時間』を読む Part.76

 第5章 時間性と歴史性

  第72節 歴史の問題の実存論的かつ存在論的な提示

 『存在と時間』の考察の目的は、存在一般の意味への問いに答える可能性をみいだすことだけにありました。この存在一般という言葉には、現存在の実存という存在様式だけでなく、道具の手元的な存在という存在様式と眼前的な存在者の存在様式も含められています。
 存在論の観点からみると、古代のギリシア哲学の伝統では、人間を動物とは異なる特別な生き物とみなして、独自の存在のありかたを重視しました。一方では中世以来のキリスト教哲学の伝統では、人間を他の動物と同じような被造物とみなして、それを神という特権的な存在者の存在と対比してきました。
 哲学的にはこのいずれの観点も受け継がれてきましたが、とくに人間を他の動物と一緒に被造物とみなすという第2の観点は、生物だけでなく、天地にいたるまでの万物を神が創造した被造物であると考えるキリスト教の神学に依拠するものであり、西洋の哲学ではこの観点が主流となってきました。
 『存在と時間』はこうした哲学の伝統を打破しながら、存在論の根本的な概念である「存在一般」という観点を重視しながらも、人間に固有な存在様式を重視することを目指しています。とくに現存在の実存という存在様式と、実存しない存在者の眼前的な存在様式を対比しながら明瞭に区別すると同時に、このように異なる2つの存在者の存在一般を考察するための視点を確保することを目指しています。
 その際に注意が必要なのは、キリスト教の神学のように神という超越的な視点を取ることは拒否したために、人間の存在の意味を理解するためには、人間という現存在の存在様式が、その他の動物や道具や事物の存在様式とどのように異なるかを探究しなければならないということです。そこで現存在が存在についてどのような了解をもっているか、すなわち現存在の「存在了解」が重要な意味をもつことになります。存在了解は現存在に特有のものです。ですから、この現存在について十分に根源的な解釈を行ってからでないと、現存在の存在機構に包み込まれている存在了解そのものを概念的に把握することはできないのです。

 この現存在の存在了解を根源的に理解するためには、現存在の存在の時間的な構造を解明する必要があり、第4章ではそれが将来、既往、現在化の脱自的な統一にあることが解明されてきました。この時間性の考察は、「死への先駆」への決意性の考察という形で、現存在の〈終わり〉を中心とするものでした。しかしこれで現存在の存在の全体性を正しく捉えることができたかというと、大きな疑問があります。死はたしかに現存在の存在の終焉であり、その〈終わり〉を告げるものですが、現存在の〈始まり〉である誕生を考慮にいれていません。

Allein der Tod ist doch nur das >Ende< des Daseins, formal genommen nur das eine Ende, das die Daseinsganzheit umschließt. Das andere >Ende< aber ist der >Anfang<, die >Geburt<. Erst das Seiende >zwischen< Geburt und Tod stellt das gesuchte Ganze dar. (p.373)
しかし死は現存在の「終わり」にすぎないのであって、形式的にみれば現存在の全体性を取り囲んでいる〈終わり〉のうちの”1つ”にすぎない。別の「終わり」は「始まり」であって、「誕生」である。そしてこの誕生と死の「あいだにある」存在者だけが、求められている全体の姿を示すのである。

 こうしてみますとこれまでの分析論の方向づけは、なお一面的なものだったと言えるでしょう。現存在はこれまでは、死へと向かって〈前向きに〉実存している姿で主題とされていただけであり、それはすべての既往をみずからの〈背後に〉置き去りにするものだったのです。

Nicht nur das Sein zum Anfang blieb unbeachtet, sondern vor allem die Erstreckung des Daseins zwischen Geburt und Tod. Gerade der >Zusammenhang des Lebens<, in dem sich doch das Dasein ständig irgendwie hält, wurde bei der Analyse des Ganzseins übersehen. (p.373)
〈始まりに臨む存在〉が考慮されていなかっただけではなく、なによりも誕生と死の”あいだにある”現存在の”伸び広がり”が注目されていなかったのである。現存在が不断に何らかの形で「生の連関」のうちに身を置いているにもかかわらず、現存在の全体的な存在を分析するさいには、この生の連関が見逃されてきたのである。

 そうだとすると、誕生と死のあいだの「連関」と呼ばれるものについては、存在論的にはまったく暗がりに包まれているのであり、これについて性格づけを行う必要があることは明白でしょう。現存在の存在の意味が時間性であることが解明された今、この「連関」、「伸び広がり」は時間的に解釈されなければなりません。

 この現存在の「伸び広がり」を考察するにあたって、まずは時間についての通俗的な見解を検討し、その問題点を明確にしておく必要があるでしょう。こうした通俗的な見解では、時間を瞬間的な「今」の連続と考える根深い傾向があります。そして誕生から死までの現存在の生涯の全体を、このような「今」連続の持続と考えようとするのです。この見解は、時間というものが「今」「今」「今」とつづいていくものであるという考え方、そして今ある体験だけが「現実的な」ものであるという考え方に依拠しています。

Das Dasein durchmißt die ihm verliehene Zeitspanne zwischen den beiden Grenzen dergestalt, daß es, je nur im Jetzt >wirklich<, die Jetztfolge seiner >Zeit< gleichsam durchhüpft. (p.373)
現存在は2つの限界のあいだで与えられている期間のうちを踏破していくのだが、「現実的」に存在しているのはそのつど〈今〉においてだけであり、現存在は自分の「時間」における〈今〉の連続をいわば跳び移ってゆくのである。

 「2つの限界」とは誕生と死のことです。これは誰にも馴染みの考え方であるために、人々に訴えかける強い力があります。
 しかしこのような見解には存在論的にみて、非常に重要な2つの誤謬が含まれています。第1にこの見解では、「今」の体験だけが現実的なものであり、現在は「今」の連続であるとみなしています。これは現在の時間性だけを重視して、将来と既往の時間性をまったく無視するという時間論的な誤謬を犯しているのです。第2にこの見解で「今」だけを重視するのは、現前するものだけが確実で現実的なものであり、既往や将来は「非現実的なもの」であるとみなすことです。この現前するものとは、眼の前に存在するもののことであり、現存在という実存する存在者を、眼前的な存在者と同一視するという存在論的な誤謬を犯しているのです。

 このような通俗的な見解の誤謬を批判した上で、ハイデガーは現存在の存在の全体性について適切な存在論的な視点はどのようなものであるかを検討していきます。まず現存在が生きる時間を眼前的な「今」の連続とみる第1の見解を批判し、現存在は〈始まり〉としての誕生と〈終わり〉としての死の「あいだ」において、つねに断片的な「今」を生きているのではなく、現存在はこの誕生から死までの時間的な「伸び広がり」のうちで自分自身を伸び広げていると考えるべきであること、そしてこの「あいだ」はすでに現存在のうちに含まれていると考えるべきであることを指摘します。

Das Dasein füllt nicht erst durch die Phasen seiner Momentanwirklichkeiten eine irgendwie vorhandene Bahn und Strecke >des Lebens< auf, sondern erstreckt sich selbst dergestalt, daß im vorhinein sein eigenes Sein als Erstreckung konstituiert ist. (p.374)
現存在は、何らかの形で眼前的に存在している「生の」軌道や区間を、刹那的な現実のさまざまな位相を通過しながら満たしていくようなものではない。現存在は”自分自身を”伸び広げているのであり、それによってあらかじめ現存在に固有な存在が、こうした〈伸び広がり〉として構成されているのである。

 第2に現存在は眼前的に存在する存在者ではなく、実存する存在者であるから、誕生や死という出来事は、それが「今」ではないという理由で、第2の見解で考えられているような非現実的なものとなっているわけではありません。すでに考察されてきたように、現存在は死をいつか到来する残りのものとして、現在とは無縁の未来の出来事として予期しながら生きているわけではないですし、誕生もまた、もはや眼前的に存在しないという意味で過ぎ去ったものでもないのです。この2つの非現実的な時間は、現存在の時間に含まれているのであり、事実的な現存在は、誕生したものとして実存していますし、誕生したものとしての現存在は、〈死に臨む存在〉であるという意味で、すでに死につつあると考えるべきなのです。
 この2つの論点を総合的に考えるなら、現存在は「今」という時間を「今」連続の持続として生きているのではなく、気遣いする存在者として、将来から既往を統一した現在という時間に時熟する脱自的な時間性の時間を生きているのです。

Beide >Enden< und ihr >Zwischen< sind, solange das Dasein faktisch existiert, und sie sind, wie es auf dem Grunde des Seins des Daseins als Sorge einzig möglich ist. In der Einheit von Geworfenheit und flüchtigem, bzw. vorlaufendem Sein zum Tode >hängen< Geburt und Tod daseinsmäßig >zusammen<. Als Sorge ist das Dasein das >Zwischen<. (p.374)
誕生と死というこの2つの「終わり」とその「あいだ」は、現存在が事実的に実存するかぎり、”存在している”のである。しかも現存在の存在が”気遣い”であることによって、初めて可能であるものとして”存在している”のである。誕生と死は、逃避的あるいは先駆的な〈死に臨む存在〉と被投性が統一されたものであり、すでに現存在にふさわしい「連関」を形成している。現存在は気遣いとして、その「あいだに」”存在している”のである。


 このように現存在は気遣いとして脱自的な時間性の構造のうちに生きていますが、この構造が動的な性格をもつことについてハイデガーは、眼前的な存在者の物理的な移動という意味での「運動」という概念ではなく、現存在の「伸び広がり」という概念によって考えることを提案しています。「運動」という概念は、さまざまな事物が空間の中で時間的に移動することを意味するものであり、これを根源的な時間性のもとに実存する現存在に適用するのが不適切であることは明らかでしょう。そのため、「あいだ」を生きる現存在の時間性の動性を表現するには、こうした運動の概念ではなく、現存在の時間的な持続性を表現することのできる「伸び広がり」という概念を選択したのです。
 そしてハイデガーはこうした動性を、「現存在の”生起”と呼ぶ」と述べて、「生起」という新しい概念を提起します。

Die spezifische Bewegtheit des erstreckten Sicherstreckens nennen wir das Geschehen des Daseins. Die Frage nach dem >Zusammenhang< des Daseins ist das ontologische Problem seines Geschehens. Die Freilegung der Geschehensstruktur und ihrer existenzial-zeitlichen Möglichkeitsbedingungen bedeutet die Gewinnung eines ontologischen Verständnisses der Geschichtlichkeit. (p.375)
わたしたちは”伸び広げられながらみずから伸び広がること”に特有の動性を、現存在の”生起”と呼ぶ。現存在の「連関」への問いは、現存在の生起という存在論的な問題なのである。”生起の構造”と、その構造を可能にする実存論的かつ時間的な条件をあらわにすることは、”歴史性”についての”存在論的な”了解を獲得するという意味をそなえているのである。

 「生起する」と訳すドイツ語>Geschehen<は、これまでは「起こる」という意味の動詞として使われてきましたが、ここでは現存在が生きる「あいだ」という時間の動性とその持続性を示すために使われています。この生起の概念が第5章「時間性と歴史性」において重要な意味をもつようになったことには、2つの意味があると考えられます。
 第1に、現存在の時間的な「伸び広がり」について考察することは、その持続性について考察することです。現存在のこうした持続性は、伝統的に基体としての実体の概念や人格の自己同一性の観点から考察されてきました。しかしこうした観点が不適切なものであることは、第64節においてすでに、こうした持続性については、基体としての実体のようなものではなく、「”気遣いとしての”現存在の存在の本来性」に基づいて考察しなければならないことが指摘されてきました。

Die Selbstständigkeit ist eine Seinsweise des Daseins und gründet deshalb in einer spezifischen Zeitigung der Zeitlichkeit. Die Analyse des Geschehens führt vor die Probleme einer thematischen Untersuchung der Zeitigung als solcher. (p.375)
現存在の自立性は、現存在の存在のありかたの1つであるから、時間性に固有の1つの時熟のありかたである。生起の分析によって、わたしたちは時熟そのものを主題として探究するという問題に直面するのである。

 第2に、この章のテーマである「歴史(>Geschichte<)」という語は、「生起する(>Geschehen<)」という語から派生した概念であることも重要です。ハイデガーはこの章で、現存在の時間的な存在機構から、人類の歴史についての考察を展開しようとしているのです。そうした意図からは、「”生起の構造”と、その構造を可能にする実存論的かつ時間的な条件をあらわにすることは、”歴史性”についての”存在論的な”了解を獲得するという意味をそなえている」と言えるのです。

 現存在の時間性の構造の動的な性格を示した「伸び広がり」という概念に依拠して提示されたこの歴史性の概念とその時間性との関連こそが、この章で中心的に考察されるテーマです。自己の持続性の背景となる「生起」の概念からは、現存在の脱自的な統一としての時間性の概念が再確認されることになります。現存在が「生起」として生きる時間的な「伸び」や「広がり」が可能となるのは、将来と既往の時間的な契機を統一する現在という時間の脱自的な構造が存在するからです。この問題を考察するには、歴史性がどのように時間性に根差しているかを明らかにする必要があるのです。

Wenn die Geschichtlichkeit selbst aus der Zeitlichkeit und ursprünglich aus der eigentlichen Zeitlichkeit aufgehellt werden soll, dann liegt es im Wesen dieser Aufgabe, daß sie sich nur auf dem Wege einer phänomenologischen Konstruktion durchführen läßt. Die existenzial-ontologische Verfassung der Geschichtlichkeit muß gegen die verdeckende vulgäre Auslegung der Geschichte des Daseins erobert werden. Die existenziale Konstruktion der Geschichtlichkeit hat ihre bestimmten Anhalte am vulgären Daseinsverständnis und eine Führung durch die bisher gewonnenen existenzialen Strukturen. (p.375)
歴史性そのものは、時間性に基づき、そして根源的には”本来的な”時間性に基づいて解明すべきである。この課題はその本質からして、現象学的な構成によって遂行する必要があるのである。歴史性の実存論的かつ存在論的な機構は、現存在の歴史の通俗的な解釈のために隠蔽されてしまっているので、こうした隠蔽に”抗して”、奪い返す必要がある。歴史性を実存論的に構成するための最初の手掛かりは、通俗的な現存在の了解にあり、これまで確認されてきた実存論的な構造を、導きの糸として利用することになる。

 ハイデガーは探究の出発点として、歴史の通俗的な概念を特徴づけることで、一般に歴史にとって本質的なものとみなされている諸契機について考察するための手掛かりとすることを提案しています。これによって根源的な意味で「歴史的なもの」と呼ばれているものが何であるかを明らかにし、これを歴史性の存在論的な問題を提示するための最初の出発点とするのです。
 そのためには、伝統的な解釈において混同されている2つの概念、「歴史(>Geschichte<)」の概念と「歴史学(>Historie<)」の概念を区別し、「歴史的な(>geschichtlich<)」の概念と「歴史学的な(>historisch<)」の概念を区別する必要があります。言い換えれば歴史を考察するということは、歴史を考察の主題とすることであり、それは歴史を歴史学的に開示することが必要となるのです。ただし、この2つの概念の違いの考察そのものは、後の段階で行われることになります。ここでは現存在の時間的なありかたを>Geschichte<と>Geschichtlihkeit<の概念で代表させて、伝統的な歴史と歴史学の概念を>Historie<の概念で代表させようとしていることだけを確認しておきましょう。
 先に指摘したように、「歴史(>Geschichte<)」とは「生起(>Geschehen<)」から派生した語であり、生起とは現存在に特有の動性のことを指す語でした。一方で「歴史学(>Historie<)」とは、ある生起についての認識であると規定することができるでしょう。いずれ考察されるように、歴史学は現存在の生きた過去の生起としての歴史を探究する学問であり、人間の歴史性(>Geschichtlichkeit<)をすでに前提とする概念です。歴史学は現存在の時間性の動性としての生起を前提とするものであり、この生起そのものを考察の対象とはしません。だからこそ、生起に基づいた歴史としての>Geschichte<こそが根底的な概念であり、これが>Historie<の可能性を支えているのです。こうして本書の考察においては、生起の概念に依拠した歴史性の概念が考察の中心となるのです。

 第5章の構成を確認してみましょう。先に指摘したように、歴史性の存在論的な問題を考察するための土台となるのは、さしあたりは歴史の通俗的な概念です。まずは一般に歴史にとって何が本質的であると考えられているかを調べることで、根源的な意味で「歴史的なもの(>geschichtlich<)」と呼ばれているものが何であるかを明らかにすることができるはずです。この問題は第73節「歴史の通俗的な了解と現存在の生起」で考察されます。
 また、歴史性は現存在の気遣いに根差すものですから、現存在は本来的な歴史性のうちに実存していることも、非本来的な歴史性のうちに実存していることもあるでしょう。これから明らかにされますが、現存在の日常性とは、この非本来的な歴史性のうちで実存することです。そして歴史的に実存するということは、現存在がみずからの存在の根底において時間的に実存するということです。すなわち現存在は将来の時間性については、先駆的な決意性のもとで〈終わり〉としての死に臨みながら、自己に固有の存在可能に直面しながら生きることで、本来的に実存することができました。それと同じように既往という時間性のもとでは、〈始まり〉としてのみずからの誕生という過去の歴史に本来的に立ち帰ることで、現存在は初めて歴史のうちで実存することができるようになります。

Den Leitfaden für die existenziale Konstruktion der Geschichtlichkeit bietet die vollzogene Interpretation des eigentlichen Ganzseinkönnens des Daseins und die aus ihr erwachsene Analyse der Sorge als Zeitlichkeit. (p.376)
歴史性の実存論的な構成のための導きの糸となるのは、現存在の本来的な全体的な存在可能についてこれまで行われてきた解釈と、それに基づいて時間性として取り出した気遣いの分析である。

 この問題は第74節「歴史性の根本機構」、第75節「現存在の歴史性と世界-歴史」、第76節「現存在の歴史性に基づく歴史学の実存論的な起源」で考察されます。そしてこれらの視点を総括する形で、この問題が第77節「歴史性の問題についてのこれまでの考察の提示と、ディルタイの研究およびヨルク伯の理念との関連」において同時代の論争の枠組みで検討されることになります。

 この節の最後にハイデガーは、第6章のテーマについても触れています。現存在は、その存在の意味が時間性であるという根源的な意味で時間的な存在と呼ばれますが、それと同じように、現存在は本来的であるか非本来的であるかを問わず、時間のうちでの生起を経験しています。わたしたちが世界内部的な存在者に出会うのは、「時間のなかで」です。ハイデガーはこのありかたを「時間内部性」と呼びます。このテーマは第6章で検討されることになりますが、第5章と密接に関係しています。歴史性と時間性の連関を解明する作業は、「時間内部性」としての「時間」を、時間性に基づいて考察しようとする分析に依拠したものとなるからです。


 第72節は以上になります。次回もまた、よろしくお願いします。

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