『存在と時間』を読む Part.72

  (b)目配りによる配慮的な気遣いが、世界内部的に眼前的に存在するものを理論的に露呈することへと変様することの時間的な意味

 現存在は世界内存在として、自分たちの作りだした道具に囲まれて日々を過ごしています。この道具連関において、すべての道具はその適材適所性に応じて配置され、使用され、不具合が発生した場合には修理あるいは処分されることになります。現存在がこれらの道具に向けるまなざしは、配慮的な気遣いのまなざしです。道具がその用途に合わせて使われているかぎりは、その存在についても、その由来についても意識されることはありません。ただし、不具合が生じてその本来の用途を実現できないときには、その存在が改めて意識され、ときには仕事に邪魔な異物として扱われることもあります。
 そのような場合には、道具についての新しいまなざしが生まれる可能性があります。柄がとれた槌は、もはや道具としての槌ではなく、使いようのない鉄の塊と木片に還元されます。これについては第16節において、そうした道具が手元的な存在者ではなく、眼前的な存在者として眺められるようになることが指摘されていました。このような出来事によって、現存在はそれまでに意識しなかった事物の眼前存在性を意識し、それとともに「世界」というものの新たな性格が浮かび上がってくるのです。
 ハイデガーはこのような現存在の経験が、世界を道具連関の総体とみなすのではなく、眼前的な存在者の総体とみなすまなざしを作りだす可能性があることを指摘します。このまなざしは、現存在が自然に存在する事物の総体とみなすきっかけを与えるものであり、学問的なまなざしは、このように世界を眼前的な存在者の総体とみるまなざしから生まれたのではないかと考えることもできるでしょう。このまなざしの変化は、目配りによる配慮的な気遣いから、理論的に露呈させる営みがどのようにして成立するかという問いに答えを与えてくれるとも考えられます。現存在のまなざしが、日常的に従事している道具的な連関の世界から切り離されることで、客観的で学問的なまなざしが生まれたのではないかと考えられるわけです。これは言わば「実践から理論への移行」と表現することができるでしょう。

 しかしこのような理論には重要な欠陥があります。まず道具にたいする配慮的なまなざしが、そのままで学問的なまなざしに変化するとは考えれらません。道具が使えないものとなったときに、現存在が眼前存在性を認識するのはたしかですが、現存在が生きている道具連関の世界においては、現存在はすぐに、この事物を修理すべきもの、あるいは廃棄して処分すべきものとみなすでしょう。そのときたしかに道具における眼前存在性が告げられるのですが、この眼前存在性はすぐに、手元存在性のうちにふたたび姿を消すはずなのです。
 ですから、存在者にたいする理論なまなざしが生まれるのは、配慮的な気遣いが操作をやめるときであると考えてはいけません。このように考えることは、理論的な態度が発生するためには実践が消滅する必要があると考えることですが、実際にはそのようなことは起こりません。
 ただし、この「実践から理論への移行」による学問的なまなざしの発生についての考察は、配慮的なまなざしをもって道具連関のうちに生きる現存在というハイデガーの基礎存在論の枠組みにおいて初めて可能にあるものであり、哲学の伝統においては、学問的なまなざしは、事物をまず道具としてではなく、純粋な事物として眺める直観から生まれるものであるという見方が強かったのでした。これはもっとも広義に考えた「見ること」が優位に立っていると考えようとするものです。

Die Idee des intuitus leitet seit den Anfängen der griechischen Ontologie bis heute alle Interpretation der Erkenntnis, mag er faktisch erreichbar sein oder nicht. Gemäß dem Vorrang des >Sehens< wird der Aufweis der existenzialen Genesis der Wissenschaft bei der Charakteristik der Umsicht einsetzen müssen, die das >praktische< Besorgen führt. (p.358)
直観の理念は、ギリシアの存在論の発端から今日にいたるまで、認識についてのあらゆる解釈を導くものとなっている(そうした直観が事実として実現できるかどうかは別の問題である)。「見ること」がこのように優位に立っていることを考慮にいれると、学問の発生を実存論的に示そうとするわたしたちも、「実践的な」配慮的な気遣いを導いている”目配り”の性格づけから始める必要があるだろう。

 この「見ること」は「直観」と呼ばれ、伝統的な哲学では長い歴史をもつものです。しかしこの考え方は、道具連関のうちで生きる現存在の世界内存在という存在様態をまったく考慮にいれていません。天文学者は、天体の運動を学問的に考察しますが、天体物理学の領域では、このような考察がどのようにして生まれたかという問いは問われることがありません。そして天文学では、太陽をわたしたちにとって光と熱を与えてくれる物体とみなすのではなく、宇宙系の1つの恒星とみなすまなざしはどこから生まれたのかというハイデガーの問いはまったく素通りされてしまいます。天文学者は、太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の回りを回っていることを確信しながらも、日常生活においては「日が昇る」とか「日が暮れた」とふつうに語ることができます。学問的なまなざしは日常生活のまなざしとは隔離されていますが、そのことが問題とされることはありません。それでも存在論の問題構成においては太陽を、朝に昇って夕方に地平線の彼方に沈む物体ではなく、地球を惑星の1つとする太陽系の中心の天体とみなすまなざしがどのようにして生まれたかは、重要な問いなのです。

 ハイデガーは、直観についての哲学的な伝統に安易に依拠することなく、あくまでも世界内存在の配慮のまなざしから、学問的なまなざしがどのようにして生まれるかを追求します。というのも、このような直観によって対象を「表象する」ことをごく当然のものとみなし、その表象した対象における性質などを探究する学問的な営みにおいては、その直観のもつ「まなざし」としての性格への問いは含まれていないからです。このような直観を働かす現存在が、その対象をどのようなまなざしで眺めているかということこそが問題なのであり、そのまなざしによって捉えられたものを「たんなる表象」として片づけることはできないのです。ただし、このような対象が現存在の注意を引くきっかけについては、すでに道具の不具合という道は否定されてきたので、ここでは目配りのまなざしがもつ世界への配慮という道から、この可能性を追求しようとするわけです。「〈見ること〉がこのように優位に立っていることを考慮にいれると、学問の発生を実存論的に示そうとするわたしたちも、〈実践的な〉配慮的な気遣いを導いている”目配り”の性格づけから始める必要があるだろう」。
 第1篇での分析から、配慮的な気遣いを導いているのが「目配り」であり、これはある作業をするためにどのような道具が必要であるかを確認するだけでなく、その作業をするために必要な場所や環境、そして世界そのものについての「見渡すまなざし」であることが確認されていました。「道具連関は、まだ見たことがない全体としてではなく、目配りにおいてすでに最初からたえず眺められていた全体として、閃いてくるのである。そしてこの全体とともに、世界がみずからを告げるのである」(Part.15)。
 この目配りそのものは、それがどこまで明示的であるかは別にしても、そのときどきの道具的な世界と、それに付随する公共的な環境世界の道具連関の全体を「見渡すまなざし」によって導かれています。このまなざしの本質的な特徴は、適材適所性の全体性を理解しているということであり、この適材適所性の全体性のうちで、配慮的な気遣いが事実的に働き始めるのです。

Die das Besorgen erhellende Übersicht empfängt ihr >Licht< aus dem Seinkönnen des Daseins, worumwillen das Besorgen als Sorge existiert. Die >übersichtliche< Umsicht des Besorgens bringt dem Dasein im jeweiligen Gebrauchen und Hantieren das Zuhandene näher in der Weise der Auslegung des Gesichteten. (p.359)
この見渡すまなざしが、配慮的な気遣いを内側から照らしだしているのであり、その照らす「光」は、現存在の存在可能からうけとっている。そして配慮的な気遣いはこの存在可能を”そのための目的として”、気遣いとして実存しているのである。配慮的な気遣いのもつ「見渡すまなざし」による目配りは、そのときどきに使用し、操作している現存在にたいして、まなざしで見たものを解釈するというやりかたで、手元的な存在者を”近づけ”、”つまびらかにする”のである。

 この目配りは、現存在のために道具的な連関の適材適所性を明らかにする役割をはたします。ここで「近づけてつまびらかにする」と訳されるドイツ語>näher bringen<は、「より近くにもたらす」というニュアンスです。このまなざしがもつ「手元的な存在者を”近づけ”、”つまびらかにする”」という働きは、”熟慮”と呼ばれます。

Die spezifische, umsichtig-auslegende Näherung des Besorgten nennen wir die Überlegung. Das ihr eigentümliche Schema ist das >wenn-so<: wenn dies oder jenes zum Beispiel hergestellt, in Gebrauch genommen, verhütet werden soll, so bedarf es dieser oder jener Mittel, Wege, Umstände, Gelegenheiten. (p.359)
配慮的な気遣いの対象とされたものを目配りによって解釈しながら近づけるという特有のありかたを、わたしたちは”熟慮”と呼ぶ。熟慮に固有の図式は、「もし~ならば、~である」というものである。たとえば〈もし〉あれこれのものを製作し、使用し、あるいは防止する必要がある〈ならば〉、あれこれの手段や、方法、状況、機会などが必要〈である〉という図式である。

 この目配りの熟慮は、現存在がさまざまな作業をするために必要な手元的な存在者を照らしだす「光」としての役割をはたしますが、これは同時に、現存在のために環境世界が近づけられてつまびらかにされるという意味をそなえており、これは現存在のために世界が「現在化」あるいは「準現在化」されるということです。

Das Näherbringen der Umwelt in der umsichtigen Überlegung hat den existenzialen Sinn einer Gegenwärtigung. Denn die Vergegenwärtigung ist nur ein Modus dieser. In ihr wird die Überlegung direkt des unzuhandenen Benötigten ansichtig. (p.359)
目配りによる熟慮のうちで、環境世界が近づけられてつまびらかにされることは、実存論的には”現在化”という意味をもつ。そして準現在化することも、この現在化の様態の1つにすぎない。この準現在化される営みのうちに、熟慮は手元にない必要なものを直接に見つけるのである。

 「現在」を意味する>Gegenwart<は、英語の>presence<にあたる「居合わせること」という意味ももちます。そして>vergegenwärtigen<は「思い浮かべる、想像する」を意味する動詞です。このような意味で、現在化は、あるものが現存在の前にありありと示されることであり、準現在化は、現存在が直接に知覚するわけではなく、思い浮かべるだけの状態です。槌が必要なときに、現存在が目の前に槌を手にしている場合は現在化であり、道具箱の中にある槌を思い浮かべる場合には準現在化となります。
 重要なのは、こうした目配りによる現在化は、多層的に基礎づけられた現象であるということであり、ハイデガーはこの複数の層を時間的に解明することを試みます。ここで現存在がある道具を、たとえば槌を道具箱から取りだして手に握るとします。このようにして槌は現存在にとって「現在化」されたのですが、そのために必要なものは何でしょうか。
 そのためには熟慮が必要であり、「もし~ならば、~である」という図式を働かせる必要があります。現存在が熟慮において「もし~ならば」ということを考えることができるためには、現存在は今後の作業を予期して、頭の中で思い描いていなければなりません。これから刀を製作するのであれば、そのためには素材となっている鉄を打たなければならないでしょう。槌はそのために必要なのです。槌を握る段階ですでに製作する刀の設計図ができており、その設計図にしたがって遂行すべき作業が思い描かれていなければなりません。槌は「何のために」という目的において役立つ道具として思い描かれていなければならないのであり、それだけではなく、刀が「何のために」作られるのかという高次の目的も認識されていなければなりません。現存在が槌を握る瞬間には、それらすべての「何のために」が重層的に思い描かれているはずです。
 またこのような「何のために」に基づいて、道具を使うためには、「そのため」に必要な道具としての槌の役割、その収容場所、その実際の使い勝手などについての知識が存在していなければなりません。熟慮において「もし~ならば」と考えた時点で、すなわちこの場合には〈刀の素材の鉄を打つことが必要であるならば〉と考えた時点で、すでに「~である」という答え、すなわち〈鉄を打つために槌を使う必要がある〉という答えが浮かび上がってこなければなりません。

Was mit dem >Wenn< angesprochen wird, muß schon als das und das verstanden sein. Hierzu ist nicht gefordert, daß sich das Zeugverständnis in einer Prädikation ausdrückt. Das Schema >etwas als etwas< ist schon in der Struktur des vorprädikativen Verstehens vorgezeichnet. Die Als-Struktur gründet ontologisch in der Zeitlichkeit des Verstehens. (p.359)
「もし~ならば」と言われる事柄は、すでに”しかじかのこととして”理解されたものでなければならない。ただしそのためには、述語規定において〈道具についての了解〉が言明されている必要はない。「あるものをあるものとして」という図式は、前述語的な理解の構造のうちで、あらかじめ素描されているのである。この〈として構造〉は、存在論的には理解の時間性のうちに基礎を置いている。

 「もし~ならば」という熟慮が可能となるためには、「〈あるものをあるものとして〉という図式は、前述語的な理解の構造のうちで、あらかじめ素描されている」必要があり、すでに槌について適材適所性の連関を〈見渡すまなざし〉で理解している必要があるのです。
 このように槌が手に握られて、現在化されるためには、その用途と目的についてある可能性を予期しながら思い描く必要があり、すでに将来の時間性のもとで、仕事の計画が立てられていなければなりません。

Nur sofern das Dasein, einer Möglichkeit gewärtig, das heißt hier eines Wozu, auf ein Dazu zurückgekommen ist, das heißt ein Zuhandenes behält, kann umgekehrt das zu diesem gewärtigenden Behalten gehörige Gegenwärtigen, bei diesem Behaltenen ansetzend, es in seiner Verwiesenheit auf das Wozu ausdrücklich näher bringen. (p.360)
現存在がある可能性を予期しながら、すなわち〈何のために〉を予期しながら、〈そのため〉に立ち返って、手元的に存在しているものを保持しているからこそ、”その反対に”この予期的な保持に属する現在化が、このように保持されているものを手掛かりにして、それが特定の〈何のために〉という目的に委ねられたものであることを”明示的に近づけ、つまびらかにする”ことができるのである。

 現存在が現在の時点において、槌を握るという行動をとるためには、予期的な保持のうちにすでに開示されていることを、熟慮する現在化や準現在化の営みが、さらに近づけてつまびらかにするという時間性の脱自的な統一性が存在している必要があるのです。

 この熟慮の図式の背景となっているのが、「としてー構造」です。現存在が世界内存在として日常の生活を生きるためには、身の回りのあらゆるものが「としてー構造」のうちで理解されているものです。「〈もし~ならば〉と言われる事柄は、すでに”しかじかのこととして”理解されたものでなければならない」のであり、熟慮は「としてー構造」によって初めて可能になります。
 この「としてー構造」については、それが初めて提起された段階で、重要な疑問が提起されていました。現存在の理解のうちには、予持、予視、予握の「予ー構造」が前存在論的なものとして前提にされており、解釈においても「としてー構造」が前存在論的なものとして前提されていました(Part.31参照)。そして、理解のこの「予ー構造」と解釈の「としてー構造」は、投企の現象と何らかの実存論的かつ存在論的な連関を示しているのか、という疑問が提起されていました。この疑問はそれまでの基礎存在論的な枠組みでは答えることができないものでしたが、それが現存在の脱自的な時間性について考察することによって解明することができるものとなったのです。

Die Verwurzelung der Gegenwart in der Zukunft und Gewesenheit ist die existenzial-zeitliche Bedingung der Möglichkeit dafür, daß das im Verstehen des umsichtigen Verständnisses Entworfene in einem Gegenwärtigen nähergebracht werden kann, so zwar, daß sich dabei die Gegenwart dem im Horizont des gewärtigenden Behaltens Begegnenden anmessen, das heißt im Schema der Als-Struktur auslegen muß. (p.360)
目配りによって了解されているものを理解することで投企されたものが、このような現在化において近づけられてつまびらかにされうるということ、しかもそのさいに、現在が予期的な保持の地平のうちで出会うものに適切なものであること、すなわち〈として構造〉の図式で解説しなければならないということは、それを実存論的かつ時間的に可能にする条件という観点からみるかぎり、現在が将来と既往性に根差していることに基づいているのである。

 「としてー構造」の図式は、時間性の脱自態によって可能となるのであり、このことを確認することによって、この構造が投企の現象と実存論的かつ存在論的に結びついているかどうかという問題に答えたことになります。

 ところで、これまでの目配りについての考察からは、依然として対象を道具としてではなく、眼前存在者として、客観的かつ科学的に考察する理論的なまなざしの可能性は明らかになっていません。理論的なまなざしが可能となるためには何が必要なのでしょうか。このまなざしの誕生を、ハイデガーは科学史という歴史的な観点からではなく、現存在の世界内存在と実存という存在論的な観点から改めて考察しようとします。
 そのためにハイデガーが用意したのは、「気づき」の段階、「事物の道具性の捨象」の段階、そして現存在の存在様態における「真理性の確認」の段階という3つの段階です。これらの3つの段階を経ることで、現存在の世界における「超越」という新たなテーマが検討され、この観点から脱自的な時間性の地平的な図式が検討されるようになります。以下ではこれらの段階と新たなテーマについて順に考察してみましょう。

 気づきの段階として、ハイデガーはごく身近な経験から考察を始めます。わたしたちは日常生活のうちで、道具連関に囲まれて、手元的な存在者に囲まれて暮らしています。それがごく日常的で自明なことであるために、そのことを忘れているほどです。蛇口をひねれば水が出てくることを当然のこととみなして、不思議に思うこともないでしょう。
 しかしあるとき、わたしたちはそうした道具連関に所属する道具を、ふだんとは違うまなざしで眺めることがあります。たとえば、コーヒーを飲むためのマグカップが妙に重いと思ったりすることがあります。そのようなとき、わたしたちは「このマグカップは重すぎる」と語ったりするでしょう。マグカップはそこに飲み物を入れて飲むための道具であり、もしもそれが持ち上げるのに苦労するほどに重いのであれば、たとえ壊れていなくてもその役割を十全にはたせなくなります。そのような場合にはわたしたちはそれを処分して、「もっと軽いマグカップを」と新しいものを買い直そうと思うでしょう。このように考えるときにはまだ、わたしたちは道具連関のうちで、このマグカップを道具としてみています。
 しかし「このマグカップは重すぎる」という語りは、別のことを意味することもできます。壊れておらず、まだちゃんと使えるマグカップが重いと感じるとき、そしてもっと軽いマグカップが欲しいと感じるとき、わたしたちはマグカップの大きさや素材について考え始めます。そしてマグカップには重さというものがあることに気づくのです。これはちょっとしたまなざしの変化ですが、この新たなまなざしにおいては、もはやマグカップの道具としての用途は忘れさられています。マグカップには重さがあるという「気づき」がもたらすのは、この存在者にはある重量があり、重さという属性をそなえているという認識であり、それをもっているわたしの手から滑り落ちたなら、この存在者は落下するという認識であり、おそらく壊れるだろうという認識です。

Die so verstandene Rede ist nicht mehr im Horizont des gewärtigenden Behaltens eines Zeugganzen und seiner Bewandtnisbezüge gesprochen. (p.361)
このように理解した語りは、もはやある道具立ての全体について、その適材適所性の関連について、予期する保持の地平で語っているのではない。

 このまなざしからみたマグカップは、もはや道具としてのマグカップにふさわしいものではなく、重力の法則にしたがう物体的な事物としてのマグカップにふさわしいものです。このことに注目した場合には、このマグカップは「重すぎる」から、もっと軽いものに買い換えようという目配りはまったく関連性をもたなくなるでしょう。

Die umsichtige Rede von >zu schwer< bzw. >zu leicht< hat jetzt keinen >Sinn< mehr, das heißt, das jetzt begegnende Seiende gibt an ihm selbst nichts her, mit Bezug worauf es zu schwer bzw. zu leicht >befunden< werden könnte. (p.361)
その場合には「重すぎる」とか「軽すぎる」という目配りによる語りは、もはやいかなる「意味」ももたなくなる。ここでいま出会う存在者には、それに関連して重すぎるあるいは軽すぎると「みいだされるもの」を、まったくそなえていないからである。

 このまなざしは、わたしたちが出会う手元的な存在者を、眼前的な存在者として新たな眼で注視しているのです。ここではわずかな新しい「気づき」によってまなざしが転換され、日常生活において世界内部的な存在者との配慮的な気遣いの交渉を導いていた存在了解が転換したと言わざるをえないでしょう。ここで語られている「いかなる〈意味〉ももたなくなる」という文中の「意味」の語については、ある手元存在者が現存在に提供する役割という文脈で考えられたものとしてみれば、この文では、まなざしの転換によって手元存在者が眼前存在者として認識される際に、その存在者が有意義性から切り離されるという指摘がされていることが読みとれるでしょう(Part.31参照)。

 このわずかな「気づき」に始まったまなざしの転換をもたらすのが、第2の「事物の道具性の捨象の段階」です。このまなざしの転換は重要な帰結をもたらし、とくにこのマグカップを「重さ」という観点から見始めたときに生まれた転換は重要なものです。こうした気づきは、実は「重さ」についての気づきに限られません。このマグカップはもっとかっこいいものにしたいなとか、このマグカップは高級そうだなと思うこともあるでしょう。この場合にも、道具についてのまなざしは転換しているのであり、もはやその用途などについての考察は無視されています。
 ただし、こうした「気づき」によって生まれるのは、理論的なまなざしではなく、美的なまなざしであり、経済的なまなざしです。もちろん、マグカップの美しさによって、よりそれを使って飲み物を飲んだりというように、これは道具連関の考察とまったく無関係ではありません。経済的なまなざしについても同様に、マグカップの価格を考えることは、日常的に手元にある道具連関について考える経済学という学問の対象となりうるでしょう。

Das Zuhandene braucht seinen Zeugcharakter nicht zu verlieren, um >Objekt< einer Wissenschaft werden zu können. Die Modifikation des Seinsverständnisses scheint nicht notwendig konstitutiv zu sein für die Genesis des theoretischen Verhaltens >zu den Dingen<. (p.361)
手元的な存在者は、道具という性格を失わずに、学問の「客観」となることができるのである。そうだとすると、存在了解が変様したことが、「事物にたいする」理論的な態度の発生を構成するものだとは言えなくなるようである。

 それでもこのまなざしの変化は、たとえこのような理論的なまなざしの誕生を直接にもたらすものではないとしても、それでも理論的なまなざしが生まれるために重要な前提を作りだしたのです。というのは、これによって次の3つの意味で重要な転換が起きているからです。
 第1に、マグカップについての道具連関のすべてが、その意味を失ってしまいます。理論的なまなざしのもとでは、美的なまなざしや経済的なまなざしにおいてはまだ残存していた道具連関の意味はまったく失われ、道具としての性格はすべて無視されます。
 第2に、この「重さ」という性質は、そのマグカップが食卓に置かれているとか、今わたしの手の中にあるかなどとは無関係にそのマグカップにつねに妥当するものとみなされています。ということは、すべての手元的な道具に必然的に属している「所在」が、そしてその多様性が意味を失ったのです。

Nicht daß das Vorhandene überhaupt seinen >Ort< verlöre. Der Platz wird zu einer Raum-Zeit-Stelle, zu einem >Weltpunkt<, der sich vor keinem andern auszeichnet. Darin liegt: die umweltlich umschränkte Platzmannigfaltigkeit des zuhandenen Zeugs wird nicht allein zu einer puren Stellenmannigfaltigkeit modifiziert, sondern das Seiende der Umwelt wird überhaupt entschränkt. (p.361)
これはそこに眼前的に存在するもの一般がその「ありか」を失ったということではない。ただしその所在が、たんに空間的で時間的な位置となり、ほかのどのような位置とも違いのない「宇宙の1つの点」になったのである。ということは、手元的に存在している道具は、本来は環境世界的に限られた〈所在の多様性〉をそなえているが、それが純粋な〈位置の多様性〉へと変様させられたことを意味する。しかしそれだけではなく、環境世界の存在者が総じて、”その枠組みを外された”ということもまた意味するのである。

 手元的な存在者に属している所在がどうでもよくなったということは、その対象が存在する場所がなくなったということではなく、その「ありか」が現存在の日常性という環境世界のうちの1つの場所ではなくなり、「たんに空間的で時間的な位置となり、ほかのどのような位置とも違いのない〈宇宙の1つの点〉になった」ということです。マグカップの重さは、地球のどこにあっても基本的に変わりはないものであり、所在による規定性は失われています。これは道具というものは、「本来は環境世界的に限られた〈所在の多様性〉をそなえているが、それが純粋な〈位置の多様性〉へと変様させられた」ということです。
 第3のさらに重要な転換は、このまなざしにおいては、現存在が生きている環境世界のもつ意味が失われているということです。道具をながめる配慮的な目配りのまなざしの所属する環境世界の意味が失われることによって、環境世界とは異なる意味での「世界」というものが姿を現します。このようにして「環境世界の存在者が総じて、”その枠組みを外された”」のであり、それとともに環境世界とは異なる自然の事物で構成された世界が現れてくるのです。
 このようにして、手元的な存在者が環境世界から離脱したのでした。これについてはすでに第16節で、「これまで解釈してきた配慮的な気遣いのさまざまな様態において世界が閃いてくるとともに、手元存在者の非世界化が起こり、そこにおいて〈たんに眼前的に存在するだけのもの〉というありかたが浮かび上がってくる」と指摘されてきました。このようにして環境世界の枠組みが外れることによって、事物を道具のまなざしで眺めるべき道具連関の領域と、それとは明瞭に異なる眼前的な存在者のための領域とが、まったく異なるものとして画定されることになります。すなわち、生活世界の領域とは明確に異なる科学的な理論の領域が構築されるのです。

 第2の段階につづく第3の段階においては、現存在の存在様態における「真理性の確認」が行われるようになります。科学的な領域が画定されるとともに、人間の自然に向かう姿勢が明確に転換するようになったのです。ここでハイデガーは、学問の歴史的な発達を示すために利用される古典的な実例として、数学的な物理学を挙げています。

Das Entscheidende für ihre Ausbildung liegt weder in der höheren Schätzung der Beobachtung der >Tatsachen<, noch in der >Anwendung< von Mathematik in der Bestimmung der Naturvorgänge - sondern im mathematischen Entwurf der Natur selbst. (p.362)
数学的な物理学の形成にとって決定的な意味をもったのは、「事実」の観察をそれまでよりも高く評価したことでも、自然のプロセスを規定するために数学を「適用」したことでもない。決定的だったのは、”自然そのものが数学的に投企された”ことである。

 カントは『純粋理性批判』第2版の序文において、物理学が誕生するためには、ガリレイらの実験によって、自然を強制して語らせることが必要であり、そのためにも「理性はみずからの計画にしたがってもたらしたものしか認識できないこと」が、科学者たちの信条となる必要があったことを指摘しています(邦訳は中山元訳、光文社古典新訳文庫)。科学者はたんに自然から学ぶのではなく、みずから探究のための原理を定めておいて、「これに基づいて自然を強要して、みずから立てた問いに答えさせ」るという方法を採用しなければならないのです。このことをカントは「自然から学なければならないことについては、みずから自然のうちに投げ入れたものにしたがって、自然のうちに求めなければならない」と表現しています。これがカントのコペルニクス的転回であるのは周知のことでしょう。
 ハイデガーはカントのこの「投げ入れる」という言葉に基づいて、”投企”という概念を作りだしたと考えられますが(これについてはPart.30参照)、ガリレイ以降の数学的な物理学の形成について、そのもっとも決定的な要因は、「”自然そのものが数学的に投企された”こと」であると指摘しています。この自然の数学的な投企は、カントのコペルニクス的転回を言い換えたものでしょう。現存在は数学という探究のための原理の色眼鏡を用意してから、それでもって自然をみたのであり、これが数学的な投企です。そうすることによって、自然はその色眼鏡でみえるような形でみずからを示すようになります。これは客観的な自然をまず前提にして、そこに数学を「応用」することではありません。数学という客観的な眼鏡を通して自然をみるからこそ、客観的な自然がみえるようになるということです。

Dieser Entwurf entdeckt vorgängig ein ständig Vorhandenes (Materie) und öffnet den Horizont für den leitenden Hinblick auf seine quantitativ bestimmbaren konstitutiven Momente (Bewegung, Kraft, Ort und Zeit). (p.362)
この投企によって、不断に眼前的に存在するもの(物質)が先行的に露呈され、この物質を量的に規定するさまざまな構成的な契機(運動、力、位置、時間)を、先導的に眺めやるための地平が切り拓かれた。

 この投企に基づいて、自然にたいして規制して画定された実験を行うことができるようになったのであり、初めて事実学の基礎づけが可能になったのです。

Am mathematischen Entwurf der Natur ist wiederum nicht primär das Mathematische als solches entscheidend, sondern daß er ein Apriori erschließt. (p.362)
こうした自然の数学的な投企において決定的だったのは、数学的なものそのものではなく、何よりもこの投企によってある”アプリオリなものが開示された”ということである。

 このアプリオリなものとは、存在者の存在のありかたのことであり、ここでは眼前存在性のことです。引用を続けます。

Und so besteht denn auch das Vorbildliche der mathematischen Naturwissenschaft nicht in ihrer spezifischen Exaktheit und Verbindlichkeit für >Jedermann<, sondern darin, daß in ihr das thematische Seiende so entdeckt ist, wie Seiendes einzig entdeckt werden kann: im vorgängigen Entwurf seiner Seinsverfassung. (p.362)
だから数学的な自然科学が模範としての性格をそなえているのは、数学的な自然科学がとくに精密な学問であるからではないし、「すべての人」を拘束する力をもっているからでもない。むしろこの学問において主題となる存在者が、存在者を露呈させる唯一の”形”で、すなわちその存在機構の先行的な投企において露呈されているからである。

 現存在は自然に働きかけることで、眼前的な存在者の存在のありかたを露呈させることができると予期していたのであり、この先導的な存在了解が、現存在の学問的な投企を支えているのです。それまで何らかの形で出会われていた存在者が、学問的に投企されることによって、その存在者の存在様式が明示的に理解されるようになり、それによって世界内部的な存在者を純粋に露呈させる方法も明らかになってきます。数学の特権的な立場を作りだしたものは、その対象となる存在者の眼前存在性を先行的な投企において露呈させる存在了解なのであり、数学は先行的な存在了解が予期していた眼前存在性を、明示的に示したのです。
 眼前存在性は、環境世界の多様性から切り離された存在者の存在様式なのであり、「その枠組みを外された」存在者の存在のありかたですから、このようなすべての眼前的な存在者は客観的に主題とされることができるようになっています。

Das Ganze dieses Entwerfens, zu dem die Artikulation des Seinsverständnisses, die von ihm geleitete Umgrenzung des Sachgebietes und die Vorzeichnung der dem Seienden angemessenen Begrifflichkeit gehören, nennen wir die Thematisierung. (p.363)
この投企の全体には、存在了解を分節する営みと、こうした存在了解に導かれて事象領域を画定する作業と、その存在者に適した概念装置を素描する営みが含まれる。こうした投企の全体をわたしたちは”主題化”と名づけよう。

 この主題化が目指すところは、世界内部的に出会う存在者を、それ自身が純粋に露呈されるように、すなわち客観になることができるように、こうした存在者を開けわたすことにあります。主題化は存在者が客観的に問い掛けられ、規定しうるものとなるように、存在者を解放するのです。
 この世界内部的に眼前的に存在しているものを客観化しつつ存在することには、目配りによる現在とは異なる現在の時間的な性格がそなわっていることは明らかでしょう。主題化の現在化は、眼前的な存在者が露呈されることだけを予期しているからです。

Diese Gewärtigung der Entdecktheit gründet existenziell in einer Entschlossenheit des Daseins, durch die es sich auf das Seinkönnen in der >Wahrheit< entwirft. Dieser Entwurf ist möglich, weil das In-der-Wahrheit-sein eine Existenzbestimmung des Daseins ausmacht. (p.363)
このように存在者が露呈されうるものであることを予期しているということは、実存的には現存在の決意性に根拠を置くものであり、現存在はこの決意性によって、「真理」のうちでの存在可能に向かってみずからを投企するのである。この投企が可能になるのは、〈真理内存在〉ということが、現存在の実存規定の1つだからである。

 この現存在のありかたを「真理内存在」と呼ぶのは、ハイデガーの「真理」についての特異な姿勢によるものです。ハイデガーはすでに真理を「覆いをとってあらわにすること」だと規定しており、存在者の存在を露呈させることと考えていましたが、この現存在の真理内存在によって、現存在は手元的な存在者とは異なる存在者の存在の様態である眼前存在というありかたを暴くことができたのです(真理内存在についてはとくにPart.45を、決意性と真理の関係についてはPart.53を参照)。
 ハイデガーが「主題化」と呼ぶのは、このようにして存在者を覆っているものを取り除き、その「真理」をあらわにして、存在者を解放するための投企の手続きのことです。現存在が覆いを取り除くという意味での真理のうちに存在する「真理内存在」であるからこそ、存在者のそれ自体のありかたを明らかにする客観的で理論的なまなざしが可能となったと考えるのです。

 このようにして現存在が対象を「主題化」することが、科学的で客観的な理論的なまなざしが可能となるための条件であることになります。それではこのような「主題化」は、どのようにして可能となるのでしょうか。

Damit die Thematisierung des Vorhandenen, der wissenschaftliche Entwurf der Natur, möglich wird, muß das Dasein das thematisierte Seiende transzendieren. Die Transzendenz besteht nicht in der Objektivierung, sondern diese setzt jene voraus. Wenn aber die Thematisierung des innerweltlich Vorhandenen ein Umschlag des umsichtig entdeckenden Besorgens ist, dann muß schon dem >praktischen< Sein beim Zuhandenen eine Transzendenz des Daseins zugrundeliegen. (p.363)
眼前的に存在するものの主題化が可能であり、自然の学問的な投企が可能であるためには、”現存在は”主題化される存在者を”超越しなければならない”。ここで超越するというのは、客観化することではない。客観化が行われるということは、すでにこの超越を前提としているからである。ところで世界内部的に眼前的に存在するものの主題化が、目配りによって露呈する配慮的な気遣いが転換したものであるとすると、手元的な存在者のもとにある「実践的な」存在の根底に、すでに現存在の超越がひそんでいなければならないことになる。

 道具の不具合がそのようなまなざしの転換のきっかけとなりうることは確認しましたが、古代ギリシアの昔から人類は、科学を生み出すこのようなまなざしを獲得していたのであり、それが日常的な道具の不具合によるものだとは考えにくいでしょう。ハイデガーはその可能性をうみだしたのは、現存在が時間的な存在であることだと考えています。
 現存時は時間的な存在として、「今」の連続を断片的に生きるのではなく、将来から既往を経由して現在の時点へと時熟する脱自的な時間構造のもとにあります。この動性こそが現存在を時間的な存在にしているのであり、この脱自的な時間構造は先駆的な決意性によって、すなわち実存によって支えられています。現存在は世界のうちで、世界内存在として実存します。この実存によって、現存在は道具連関の彼方にある世界というものを「閃くように」理解しています。実存によって世界は現存在に閃いているのであり、告示されているのです。
 このようにして現存在は道具連関を超えた「世界」というものを、前存在論的な形ですでに理解しています。これが現存在の超越を可能にするのです。

Sie ist mit der faktischen Existenz des Daseins erschlossen, wenn anders dieses Seiende wesenhaft als In-der-Welt-sein existiert. Und gründet vollends das Sein des Daseins in der Zeitlichkeit, dann muß diese das In-der-Welt-sein und somit die Transzendenz des Daseins ermöglichen, die ihrerseits das besorgende, ob theoretische oder praktische Sein bei innerweltlichem Seienden trägt. (p.364)
現存在がその本質からして世界内存在として実存しているかぎりは、現存在の事実的な実存とともに、世界はすでに開示されている。そして現存在の存在は完全に時間性に基づいているのであるから、時間性は世界内存在を可能にし、それによって現存在の超越を可能にしなければならない。そしてこの現存在の超越は、世界内部的な存在者のもとで配慮的な気遣いをしている存在を、それが理論的な存在であるか、実践的な存在であるかを問わず、支えているのである。

 実存のありかたこそが、脱自的な時間構造を実現しているのであり、この「時間性は世界内存在を可能にし、それによって現存在の超越を可能にしなければならない」のです。逆にこの超越こそが、「理論的な存在であるか、実践的な存在であるかを問わず」、「世界内部的な存在者のもとで配慮的な気遣いをしている存在を」支えているのです。
 次節ではこの「超越」についてさらに詳しく語られることになります。


 (b)項は以上になります。ここでの考察については、特に「真理内存在」の箇所が抽象的な議論になっており、わかりづらくなっています。ハイデガーのこれまでの真理論をふりかえりながら読解する必要があるので、文中にリンクしておきましたこれまでの考察を参照しつつお読みいただければと思います。
 それでは、次回もよろしくお願いします。

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