『存在と時間』を読む Part.43

  (b)存在論的な問題としての実在性

 これまでに指摘されてきたように、実在性(>Realität<)という名称は、世界内部的な眼前存在者である事物(>res<)の存在を指すものですから、この実在性の解釈は、世界内部的な存在者の世界内部的なありかたが解明されて初めて、存在論的に遂行できることになります。

Diese aber gründet im Phänomen der Welt, die ihrerseits als wesenhaftes Strukturmoment des In-der-Welt-seins zur Grundverfassung des Daseins gehört. Das In-der-Welt-sein wiederum ist ontologisch verklammert in der Strukturganzheit des Seins des Daseins, als welche die Sorge charakterisiert wurde. Damit aber sind die Fundamente und Horizonte gekennzeichnet, deren Klärung erst die Analyse von Realität ermöglicht. (p.209)
ところがこの世界内部性の現象は、”世界”の現象に依拠しているのであり、さらにこの世界は、世界内存在の本質的な構造契機として、現存在の根本機構に属するものである。そして世界内存在は存在論的には、現存在の存在構造の全体性にしっかりと組み込まれているものであり、この全体性の性格が気遣いであることが確認されたのである。すると実在性の分析が可能となるためには、そこで示された基礎と地平を解明しておく必要があることになる。

 眼前存在者の存在である実在性を把握するためには、実存論的かつ存在論的な土台が必要になります。ただしある程度までは、こうした土台なしでも、実在性について現象学的な性格づけを行うことができると、ハイデガーは言います。そのような例としてあがるのが、ディルタイの分析です。

 この(b)項でハイデガーは、主としてディルタイの「抵抗」の概念を考察し、それをシェーラーの理論で補足しながら批判します。ディルタイの主張は、外界の実在性は、衝動や意志、感情によって与えられた「生の連関」から生まれるものだということです。ディルタイは、人間はこうした連関に基づいて行動しようとしますが、その際は必ず外部からの「抵抗」を感じざるをえないことに注目します。たとえばわたしたちは、身の回りのものについて、ふつうはそれを貫通することができないことを知っています。家から駅までは直線的に行くのが近いですが、そのルートを阻む他の家の壁を突っ切ろうとはしません。人間には駅に最短で行くという意志がありますが、その行動を阻む障害物として、自己ではないもの存在者に出会うのです。
 ディルタイは、まず確実なものとして衝動や意志といった意識の事実があり、「抵抗」によって自己から独立しているものの認識が生まれることを指摘しました。要約すると、実在的なものは、衝動と意志のもとで経験されるのであり、実在性は抵抗するもののありかた、すなわち抵抗性であると言うことができます。

Die rechte Auswirkung der Analyse des Widerstandsphänomens wird aber hintangehalten durch die erkenntnistheoretische Realitätsproblematik. Der >Satz von der Phänomenalität< läßt Dilthey nicht zu einer ontologischen Interpretation des Seins des Bewußtseins kommen. >Der Wille und seine Hemmung treten innerhalb desselben Bewußtseins auf<. Die Seinsart des >Auftretens<, der Seinssinn des >innerhalb<, der Seinsbezug des Bewußtseins zum Realen selbst, all das bedarf der ontologischen Bestimmung. Daß sie ausbleibt, liegt letztlich daran, daß Dilthey das >Leben<, >hinter< das freilich nicht zurückzugehen ist, in ontologischer Indifferenz stehen ließ. (p.209)
しかしこの〈抵抗〉という現象の分析は、実在性の問題構成が認識論的な観点から立てられたために、あるべき効果を殺がれている。「現象性の命題」によっては、ディルタイは意識の存在を存在論的に解釈するにはいたらないのである。ディルタイは「意志と、それを抑制するものはどちらも、同じ意識の内部で生じる」と語っている。しかしこの「生じる」ということの存在様式についても、「内部」というものの存在の意味についても、意識と実在的なもの自身との存在関連についても、すべて存在論的な規定が必要なのである。こうした存在論的な規定が行われていないのは結局のところ、ディルタイが「生」の概念を存在論的に無差別なままに放置したためである。

 ディルタイは「意志と、それを抑制するものはどちらも、同じ意識の内部で生じる」と語っているように、「生の連関」に基づく人間の経験は、意識の中でしか存在しないと主張します。しかしハイデガーが指摘するように、その「内部で」とか「中で」とは何か、意識とその外部の実在的なものの関係はどのようなものかということについては、ディルタイは考察しませんでした。こうしたことについては、ハイデガーが世界内存在で「内部性」について考察したような「存在論的な規定が必要なのである」はずですが、そうした分析はまったく試みられていないのです。このディルタイの考察には存在論的な規定が欠如しているのであり、「ディルタイが〈生〉の概念を存在論的に無差別なままに放置したため」だと言わざるをえません。

 ハイデガーはシェーラーの議論を考察しながら、この問題についての洞察をさらに深めようとします。シェーラーはディルタイの意志を重視した議論に注目し、ディルタイの外界の実在性の議論には、重要な誤謬があることを指摘しました。
 シェーラーは、ディルタイが外界の領域の実在性の問題と、意識の領域の実在性の問題とを区別せず、実在問題を外界の領域の実在性の問題と同一視したことを指摘します。ディルタイにおいて外界の実在性は、「抵抗」という経験に依拠していましたが、この経験は意識の中だけで存在するものでした。実在性の問題が、このように抵抗の「意識」に関連づけられるのであれば、まず意識の領域の実在性が問題にされるべきなのです。シェーラーはディルタイからさらに踏み込んで、意識と外界の差異を問題にするのです。
 また、シェーラーは、実際には人間は、抵抗に先立って外界の実在性を予測していることを指摘しました。たとえば刀匠が槌を手に取るとき、その刀匠は重量としての抵抗を経験します。ディルタイの議論では、そのときに経験する抵抗が、外界の事物の実在性を示すものとなります。しかし実際には、槌を手に取ろうとする際に、すでにそれから経験するはずの「手に取る」経験を先取りするような経験が先行しています。その槌の重さについて、すでにある程度の見込みに基づき、それが刀匠にとって重いとか軽いとかを感じさせるのであって、こうした予想は抵抗が生まれる前から、外界の実在性を示しているのです。
 ハイデガーはこうしたシェーラーの議論を高く評価しますが、やはりこうした考察にも存在論的な規定が欠けていると指摘します。刀匠は槌を手に取るとき、重量抵抗に先立って外界の実在性を予測しています。しかしシェーラーの考察では、こうした経験について、その背後にある「衝動や意識が”目指している”ものが何であるか」という観点からは考察されていないのです。

Widerstand begegnet in einem Nicht-durch-kommen, als Behinderung eines Durch-kommen-wollens. Mit diesem aber ist schon etwas erschlossen, worauf Trieb und Wille aus sind. Die ontische Unbestimmtheit dieses Woraufhin darf aber ontologisch nicht übersehen oder gar als Nichts gefaßt werden. (p.210)
〈抵抗〉というものには、〈通り抜けようと意欲する〉ものがあって、それが妨げられることで、〈通り抜けられないもの〉のうちで出会う。しかしこの〈通り抜けようと意欲する〉ものにおいてすでに、衝動や意識が”目指している”ものが何であるかが開示されているのである。このように〈それに向けて〉目指しているものが存在者的に無規定であるからといって、それを存在論的に見逃したり、〈無〉とみなすことはできない。

 この例では、刀匠が槌を手に取るという行為だけに注目していますが、そもそも何のためにこの行為が意志されたのかという、刀匠が槌を手に取る行為において目指しているものを「存在論的に見逃したり、〈無〉とみなすことはできない」とハイデガーは指摘します。

Das Aussein auf ..., das auf Widerstand stößt und einzig >stoßen< kann, ist selbst schon bei einer Bewandtnisganzheit. Deren Entdecktheit aber gründet in der Erschlossenheit des Verweisungsganzen der Bedeutsamkeit. Widerstandserfahrung, das heißt strebensmäßiges Entdecken von Widerständigem, ist ontologisch nur möglich auf dem Grunde der Erschlossenheit von Welt. (p.210)
このようにそれを〈目指しているもの〉は、抵抗にぶつかるもの、抵抗に「ぶつかる」ということができる唯一のものであるが、それはすでに何らかの適材適所性の全体の”もと”にあるのである。しかしこの適材適所性の全体が露呈されるということは、有意義性の指示全体の開示性に基づいているのである。”抵抗の経験は、抵抗してくるものを努力して露呈することであり、それは存在論的には世界の開示性に基づかないかぎり、不可能である”。

 人間の行為において経験される「抵抗」は、何らかの目的のもとで、「何らかの適材適所性の全体の”もと”にある」のは明らかであり、それを考察する必要があります。そのようにして抵抗してくるものは、「”存在論的には世界の開示性に基づかないかぎり”」、露呈させることはできないのです。刀匠が槌を手に取るのは、理由もなくそうするのではなく、鉄を打つためにそうするのであり、抵抗するものは、世界のうちで生きる世界内存在の行為のうちで解明すべきものなのです。
 そもそも「抵抗」という語は、>Widerstand<であり、これは「~に逆らって、反して」を意味する>wider<と、「状況、情態」を意味する>Stand<という語で成り立っています。こうしてみると、抵抗という概念のうちには、すでにある世界が前提され、それに逆らってというニュアンスがあることがわかります。こうした「逆らって」という性格が存在論的に可能なのは、開示されている世界内存在に担われているからだと言えるでしょう。
 抵抗が世界を前提としている以上、そして実在性が抵抗性によって規定されると考えるなら、実在性は世界内存在を前提としていることがわかります。このようにして次のことが結論されます。

>Realitätsbewußtsein< ist selbst eine Weise des In-der-Welt-seins. Auf dieses existenziale Grundphänomen kommt notwendig alle >Außenweltsproblematik< zurück. (p.211)
”「実在性の意識」は、それ自体が世界内存在の1つのありかたである”。あらゆる「外界の問題構成」は、この実存論的な根本現象である世界内存在へと、必然的に帰着するのである。

 シェーラーの分析は、ディルタイの分析を現象学的な観点から改善したものでしたが、存在論的な考察が行われていないために、外界の実在性については適切な考察とは言えないのです。

 (b)項の最後にハイデガーは、デカルトのコギト・スムについても触れています。

Sollte das >cogito sum< als Ausgang der existenzialen Analytik des Daseins dienen, dann bedarf es nicht nur der Umkehrung, sondern einer neuen ontologisch-phänomenalen Bewährung seines Gehalts. Die erste Aussage ist dann: >sum< und zwar in dem Sinne: ich-bin-in-einer-Welt. Als so Seiendes >bin ich< in der Seinsmöglichkeit zu verschiedenen Verhaltungen (cogitationes) als Weisen des Seins bei innerweltlichem Seienden. (p.211)
もしも「われ思う、われあり」を現存在の実存論的な分析論の出発点として利用すべきであるならば、それを逆転させる必要があるだけでなく、その内容を存在論的かつ現象的に新たに検証する必要がある。最初の言明は「われあり」であり、しかも〈われ世界のうちにあり〉という意味での「われあり」である。そのように存在するものとして、世界内部的な存在者のもとでの存在のありかたとして、さまざまな態度(さまざまな思考作用)へとかかわる存在可能のうちで、「わたしは存在する」のである。

 デカルトは「われ思う、われあり(コギト・スム)」で「われ」というものが無世界的な〈思考するもの(>res cogitans<)〉として、眼前的なもの(>res<)として存在していると語りましたが、実際にはその逆で、「最初の言明は〈われあり〉であり、しかも〈われ世界のうちにあり〉という意味での〈われあり〉である」とハイデガーは指摘しています。実在性、眼前存在性は、世界内存在という現存在の根本機構を土台として把握できるものなのであり、まずある世界のうちに存在するものとして、「さまざまな態度(さまざまな思考作用)」は可能となっているのです。

  (c)実在性と気遣い

 ディルタイとシェーラーの議論で明らかになったのは、実在性の問題を存在論的な考察ぬきでやろうとしても、成功しないということでした。しかしこのままでは、ハイデガーのこの批判は、ある種のないものねだりのようにみられてしまいます。ハイデガーが提示した問題構成を、他の哲学者が採用していないからといって批判しても、その哲学者にとっては知ったことではないからです。この問題を十分に批判するためには、実在性の概念について、もっと内的な立場から考察する必要があります。

 そこでハイデガーは、外界の実在性が問題になるのは、そのような問題を提起する人間が存在するからであるという明白な事実を提起します。この事実は、ディルタイもシェーラーも否定できません。

Allerdings nur solange Dasein ist, das heißt die ontische Möglichkeit von Seinsverständnis, >gibt es< Sein. Wenn Dasein nicht existiert, dann >ist< auch nicht >Unabhängigkeit< und >ist< auch nicht >Ansich<. Dergleichen ist dann weder verstehbar noch unverstehbar. Dann ist auch innerweltliches Seiendes weder entdeckbar, noch kann es in Verborgenheit liegen. Dann kann weder gesagt werden, daß Seiendes sei, noch daß es nicht sei. Es kann jetzt wohl, solange Seinsverständnis ist und damit Verständnis von Vorhandenheit, gesagt werden, daß dann Seiendes noch weiterhin sein wird. (p.212)
しかしもちろん存在が「与えられている」のは、現存在が”存在する”とき、すなわち存在了解の存在者的な可能性が”存在する”ときにかぎられる。現存在が実存しないならば、「独立性」も「存在」しないし、「そのもの性」も「存在しない」。そのときには、こうしたことは了解可能でも、了解不可能でもない。そのときには、世界内部的な存在者は露呈されえないし、まだ覆い隠されたままであることもできない。”そのときには”存在者が存在するとも、存在しないとも言えない。ただし”今は”、存在了解が存在し、したがって眼前存在性の了解も存在するかぎり、”そのときにも”存在者はなお存在するだろうと言うことができる。

 存在が現存在に「与えられる」のは、「現存在が”存在する”とき、すなわち存在了解の存在者的な可能性が”存在する”ときにかぎられる」ということは明白です。しかし、知覚する現存在が存在しないときに世界はあるかどうかということは、知覚し思考する人間が存在しないのであるから、答えようのない問いです。「”そのときには”存在者が存在するとも、存在しないとも言えない」と答えるしかありません。
 このことが示しているのは、存在者ではなく存在が、存在了解に依存したものであるということです。あるものが存在するどうかは、その存在者が存在するかどうかではなく、現存在のような存在者が存在し、そのものについての、存在了解をもつかどうかに左右されるということです。そしてこの存在了解は、現存在が世界や事物にたいして「気遣い」をすることによって生まれるものです。

Realität ist in der Ordnung der ontologischen Fundierungszusammenhänge und der möglichen kategorialen und existenzialen Ausweisung auf das Phänomen der Sorge zurückverwiesen. Daß Realität ontologisch im Sein des Daseins gründet, kann nicht bedeuten, daß Reales nur sein könnte als das, was es an ihm selbst ist, wenn und solange Dasein existiert. (p.211)
”実在性”は、存在論的な基礎づけの連関の秩序においては、そして何らかのカテゴリー的および実存論的な証明の秩序においては、”気遣いの現象に向けて差し戻される”ものである。実在性は、存在論的には現存在の存在のうちで基礎づけられるのである。ただしこれが意味するのは、現存在が実存するときに、そしてそのときだけに、実在的なものはそれ自体においてあるそのものとして存在するということではない。

 存在了解が現存在の気遣いから生まれるものであるからこそ、実在性は、「”気遣いの現象に向けて差し戻される”」のであって、「実在性は、存在論的には現存在の存在のうちで基礎づけられる」と言えるのです。

 このようにして、存在のさまざまな様態についての問いが意味をもつのは、現存在という存在様式をそなえた存在者が存在するときだけに限られることが明らかになります。実存という存在様式が、実在性の問題もまた規定しているのです。


 2つのパートに分かれましたが、第43節は以上になります。次回、第44節では、真理の問題について考察されることになります。

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